1.名高い天の大女神
イナンナ(Inanna:シュメル語名)、イシュタルorイシュタール(Ishtar:アッカド語名)。他にインニン(『エタナ物語』による)、アンニトゥ(『ズーの神話』注釈)、ヌギグ(『洪水伝説』から)、ニンシェシュエガラ(ウルク王ウルギギルの碑文から)、イシュタラトなど異名は数多く、「甘い声の方」、「神々の女君」など呼称も多い。
イナンナは、元々はニンアンナであり「天の女主人」を意味する言葉だったが、縮まってイナンナになったと思われる。ウルクの主神でエアンナ神殿に住まうが、極めて人気のある女神であり信仰地や神殿は各地に点在している(アッカド、キシュ、ニネヴァ、現シリアのアイン・ダラなど。レナード・ウーリー著「カルデア人のウル」では「バビロニアでは大女神イシュタルが一八〇ものこのような社をもっていた」とも)。円筒印章の図像など、イシュタルを題材にした工芸品も多い。
2.神性の多面性・二面性
属性は多く、性愛、豊穣、戦闘、王権の女神であり、それぞれにおいて重要な役割を果たす、女神の中でも最も重要な女神の一柱。随獣は獅子。
『エンキ神の定めた世界秩序』では、女性的な魅力や、戦場における卜占の他、秩序・無秩序を司るような側面がある(「真っ直ぐな糸をこんがらかせ、こんがらかった糸を真っ直ぐにするのだ。滅亡させずともよいものを滅亡させ、創造せずともよいものを創造させ」)。
イナンナ女神は "創造と破壊" (豊穣と戦闘)の両面を備えており、神話学における、いわゆる "グレート・アース・マザー"(「大地母神」)の元祖と言える。バビロニア時代から明星神(「暁の明星、宵の明星の女神」)とされたが、これはイシュタルの二面性を、金星の二面性に擬したものとも解されている。
3.性愛の象徴
性愛の女神として、魅力的で性に奔放な女神として描かれている。
『ギルガメシュ叙事詩』で、ギルガメシュが彼女の恋愛遍歴を語ったことに代表されるように、多情とされ、『ドゥムジとエンキムドゥ』では、ヒロインとして求愛を受けている。『シュルギ王讃歌』で「天地の大歓喜の女王」と讃えられている点も、性愛の女神であることを示すか。また、『クマルビ神話』において、イシュタール女神は自らの魅力(歌)によってウルリクンミを魅了しようと試みる。
『ギルガメシュ叙事詩』などで見られるが、同じく性愛に関わるイシュハラ女神と同一視されているケースが多く、このこともイシュタルの機能(性愛、生殖)を示す。『ギルガメシュ叙事詩』でギルガメシュ達が天牛を退治するくだりにおいて、イシュタルの「おつきの者たち」である「遊び女たちや宮仕いの女」が登場する。彼女たちを従えていることも、イシュタルの属性を表す。
冨樫乕一「古代メソポタミアの神々の系譜」では、母神の系譜を引き継ぎ、母など女性の聡明な扶助者であるとされており、この場合は女性的セクシュアリティにとどまらない、より広義における女性を象徴する。
性愛に通ずるためイシュタルは享楽にも通じ、淫売や居酒屋の領域に関わる。ジャン・ボテロ「最古の料理」は、客の減少により経営難となった酒場の経営者が、イシュタルに救いを求めるテクストを紹介している。
4.「多産」的な豊穣女神
豊穣女神としては『イシュタルの冥界下り』が好例。
同神話において、イシュタルが冥界に捕らえられたことによって、地上における生殖活動に影響が出てしまう。また、彼女のシンボルは「輪柱(リング・ポスト)」(ウルクの遺跡から多く発見されており、イナンナの楔旗文字の元になっている)であり、イナンナはナツメヤシの女神でもある。
イシュタルの豊穣性は、植物的豊穣というよりは「多産」とより強く結びついており、ウル第3王朝期にはイナンナとドゥムジの結びつきに倣い、秩序・豊穣を祈念する儀式 "聖婚儀礼" が行われるようになる。
5.王権を授ける血なまぐさい戦闘女神
戦闘女神としての性格も極めて強い。シュメル神話『ギルガメシュとアッガ』で戦闘面を強調する形で名が引かれており、バビロニア時代からはイシュタル・アヌニトゥムという、女神の軍事能力面を強調した称号で呼ばれることもある(※「古代オリエント事典」では "アンヌニートゥ" をイシュタルから派生し後に独立化した神格として紹介している。その名は「小競り合いを続ける者」の意)。
イシュタルの戦闘性は、殊に武勇に富むアッシリア人に好まれた。武器としては、シタ武器、ミトゥム武器、アンカラ武器を持つ(参考:『イナンナ女神の歌』、『ルガルバンダ叙事詩』、『イナンナ女神とエビフ山』)。『ズーの神話』においても、ズー退治の二番手として指名を受けており、荒事に定評がある(※ただし彼女は辞退する)。
『ハンムラビ法典』は様々な神それぞれの神性を記しているが、戦闘的側面や王権の側面が強調されている。戦場を好む性格から、戦場は「イシュタルの遊び場」と表現されるなど、彼女は戦闘的な王に味方する。イナンナ、イシュタルに関する王権観については、前田徹「メソポタミアの王・神・世界観」が詳しく、エンリルが安定的な政治と結びつく王権観であるのに対し、イシュタルの王権観は武力的領域拡大と結びついている。
6.数多の女神を取り込んだ・・・?
上述のとおり、イナンナは様々な性質を帯びている。このことは、もともといた様々な女神が習合される過程で、イナンナ、イシュタルに属性が集まっていった結果と思われる(※神々の習合は、セム語系民族の時に活発になった考えられている)。
なお「古代オリエント事典」では、シュメールの「愛の女神」、セム系の「不和と戦いの女神」、そして「金星の女神」が複合した女神と分析しているほか、アンソニー・グリーン「メソポタミアの神々と空想動物」はウルマシートゥムとアンヌニートゥム(「アヌニトゥム」を参照のこと)を、アッカドにおけるイナンナ信仰の中核をなす二大神格だとする。
7.周辺地域への波及とローカル化
極めて人気があったイナンナ(イシュタル)は、やがて周辺地域に波及しフェニキアのアスタルテ、ウガリトのアナト、ギリシアのアフロディーテ、ローマのヴィーナスへと、引き継がれていった。
またイシュタルについては "ローカル化" とも言える現象が起きており、地域性を獲得したケースがある。「ニネヴァのイシュタル」、「アルバイル(アルベラ)のイシュタル」などである。アルバイルのイシュタルは、新アッシリア時代に特に戦闘女神として崇拝され、「イシュタル・アッシュリトゥム」はアッシリアの国家神アッシュルの配偶女神としての神格である(※アッシュールの配偶は「ムリッス」のはずで、イシュタル・アッシュリトゥムの名は「古代メソポタミアの神々」でしか確認できないが・・・)。
イシュタル・シャウシュガはフルリ系の大女神で、ヒッタイトの神統譜でも重要な地位を占める(※シャウシュガをイシュタルと同一の神格とするか、やがて同一視された神格と見るかは判断に迷う)。
8.神統譜
父神アン、母神アントゥ(ナンナルとニンガルとする神話もある)、姉はエレシュキガル、兄(双子とされることがあるが)は兄ウトゥ。 夫はドゥムジ(アマウシュムガルアンナ)神である(※ただし、ドゥムジはあくまで"恋人"であり、イナンナは特定の配偶を持たないとする解釈もある)。
イナンナとドゥムジの関係性は、古代メソポタミアの神話観の中では独特である。神話『ドゥムジとエンキムドゥ』においては、熱烈なアピールの結果イナンナを伴侶としたものの、神話『イナンナの冥界下り』では、妻の不幸にも関わらずドゥムジは服喪せず、結果半年交代で冥界に住まうはめになってしまう。男女関係を想起させるお話だが、古代人はこの神話に何を思っただろうか。
9.その他
『ダム挽歌』について、エアンナ神殿への言及があるため、嘆き悲しんでいるのはイナンナかもしれない。
10.参考動画
イナンナ(イシュタル)について、以下のものが参考になれば幸いです(拙作参考)
ゆっくりギルガメシュ 第8話 女神イシュタル(https://www.nicovideo.jp/watch/sm23723199)
【メソポタミア神話】イナンナ(イシュタル)の冥界下り 前編(https://www.nicovideo.jp/watch/sm28401624)
ゆっくり古代メソポタミア解説②【イシュタル 1/2】(https://www.nicovideo.jp/watch/sm32785747)
(出典神話等)
『洪水物語』、『イナンナの冥界下り』、『ギルガメシュとアッガ』、『ドゥムジとエンキムドゥ』、
『ウル滅亡哀歌』、『イナンナ女神の歌』、『シュルギ王讃歌』、『エヌマ・エリシュ』、『サルゴン伝説』、
『アトラ・ハシース物語』、『ギルガメシュ叙事詩』、『エラの神話』、『エタナ物語』、『ズーの神話』、
『イシュタルの冥界下り』、『イシュタル讃歌』、『クマルビ神話』、『ハンムラビ法典碑』、『アダパ物語』、
『ギルガメシュとエンキドゥと冥界』、『ギルガメシュとエンキドゥと天牛』、『イナンナとエベフ』、
『エンキ神の定めた世界秩序』、『イナンナ女神とエビフ山』、『イナンナ女神とエンキ神』、
『ナンナ・スエン神のニップル詣で』、『ドゥムジ神とゲシュティンアンナ女神』、『ダム挽歌』?
『エンメルカルとアラッタの君主』、『ルガルバンダ叙事詩』、『エンメテナ碑文』、『イナンナとビルル』
(参考文献)
「シュメル――人類最古の文明」、「古代オリエント事典」、「メソポタミアの神々と空想動物」、
「古代オリエント事典」、「メソポタミア文明の光芒」、「カルデア人のウル」、「古代メソポタミアの神々」、
「古代メソポタミアの神々の系譜」、「最古の料理」、「古代メソポタミア史は諸民族興亡の歴史か」
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