三ツ子島
倉橋島の北にある周囲約580mの小さな島
三ツ子島は海軍呉鎮守府の検疫所である『呉海軍病院三ツ子島消毒所』が開設されたことにより海軍の島となりました。
検疫所とは戦地から帰還した兵士からの伝染病の発生を防ぐための防疫施設で、元々は似島にありましたが老朽化のため昭和3年にここ三ツ子島へ移転されました。
後の太平洋戦争中には海軍の火薬庫も建設されました。
現在は工業塩集積所として島ごと民間企業が所有しており白く見えるのは工業用塩の山です。また「塩でできた島」と呼ばれる事もありますが、実際は島自体が塩でできているわけではありません。
北側(空母葛城終焉の地)
三ツ子島の北に小島がありますがこの小島も合わせて三ツ子島と呼びます。
海軍の消毒所があったのも島の北側で建物の基礎が残っているそうですが、島外からは確認できません。
空母葛城は佐世保鎮守府所属の雲龍型航空母艦の3番艦として、昭和19年10月に呉海軍工廠で建造された「日本海軍最後の空母」です。
しかし、就役したころにはすでに搭載する航空機や搭乗員は無く、さらに燃料も不足していため瀬戸内海から出ることはありませんでした。
当初は呉湾に停泊していましたが昭和20年3月の第一次呉軍港空襲で攻撃され軽微な損害を被り、ここ三ツ子島北側(北端と小島の間の辺り)へ避難してきました。
昭和20年7月の第二次呉軍港空襲では他の艦艇同様空襲を受けますが、甲板に家屋や道路を置くなど島の一部のように偽装していたため損害は軽微でした。
空母葛城は太平洋戦争終戦後も復員船として活躍したので厳密にはここが終焉の地ではありません。
また、対岸の江田島楠田には「日本海軍初の空母」鳳翔が同じように終戦を迎えており、「日本初の空母と日本最後の空母が同じ海峡で終焉を迎える」という何か運命めいたものを感じます。
南側(空母天城終焉の地)
南側は倉橋島と約100mほどしか離れておらず工業用塩の山がよく見えます。
空母天城は横須賀鎮守府所属の雲龍型航空母艦の2番艦として昭和19年8月に就役しました。
北側に停泊していた空母葛城の姉妹艦ですが、空母葛城と同じく就役した時にはすでに搭載する航空機や航空機用燃料が底をついており一度も出撃することはありませんでした。
当初は呉湾に停泊していましたが昭和20年3月の第一次呉軍港空襲で攻撃され軽微な損害を被りました。
その後、ここ三ツ子島の南側に係留され倉橋島と三ツ子島をつなぐ橋に偽装していましたが、昭和20年7月の第二次呉軍港空襲で攻撃を受け横転し終戦を迎えました。
余談ですが、空母天城の終焉の地である海峡には現在は倉橋島と三ツ子島の海底ケーブルが敷設されています。
護岸石垣
島の護岸部分の石垣
当時のものが混ざっていると思われますが詳細不明です。
三ツ子島戦没者地蔵菩薩
渡子の国道487号線の日附環境美化センター前にあります。
恐らく三ツ子島での戦闘の生存者が建立したものと思われますが詳細不明です。
空母葛城
空母葛城の写真
呉市の大和ミュージアムに展示されています。
空母天城
横転した空母天城の写真
呉市の大和ミュージアムに展示されています。
三ツ子島の工業用塩
三ツ子島には常時工業用塩約40万トンが積まれており日本の工業用塩のシェア75%を担っています。
この塩は特殊製法で作られているため雨が降っても溶けず、野ざらしで積まれていても問題ないそうです。
工業用塩はガラス・ビニール・石けん等の様々な製品に使われています。
備考 |
・島自体が企業の所有地なので島に上陸することはできない ・島が見たいだけなら本州と倉橋島北部の海岸線からどこでも見える ・一番近くで見たい場合は旧渡子小学校跡の前がおすすめ ・工業用塩の実物はおんど観光文化会館うずしおに展示されている ・近くに渡子の防空壕跡と音戸漁港のコンクリート船と坪井(戦艦伊勢終焉の地)がある ・同じ検疫所の島として陸軍の似島がある |
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住所 |
広島県呉市音戸町渡子2丁目24-1 |
駐車場 | なし |
トイレ | なし |
竣工 | 不明 |
公開 | 非公開 |
登山難易度 | - |
サイト |
- |
分類 | 艦艇終焉の地 |
アクセス |
三ツ子島: ・呉市生活バス「渡子」バス停から徒歩8分 三ツ子島戦没者地蔵菩薩: ・呉市生活バス「美化センター」バス停から徒歩すぐ |
三ツ子島
三ツ子島戦没者地蔵菩薩
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