広島大学旧理学部1号館(旧広島文理科大学本館)
東千田公園にある被爆遺構
当初は広島県初の大学である広島文理科大学の本館として昭和6年に竣工しました。
竣工時は鉄筋コンクリート造3階建てでコの字型の建造でしたが、2年後の昭和8年に増築されヨの字型になりました。また、現在の東千田公園と近隣の再開発地区など元々はすべて広島文理科大学の敷地でした。
太平洋戦争末期の昭和20年6月、本土決戦に備えて東西日本が分断・通信不可となった場合、西日本の行政機関として独自判断で戦争を継続するための内務省直轄組織である中国地方総監府として校舎の一部が接収されます。しかし、わずか2ヵ月後の昭和20年8月に原爆が投下され建物は外郭を残して全焼しました。
終戦直後の昭和20年11月に中国地方総監府は廃止となります。さらに元の持ち主であった広島文理科大学も昭和21年に廃校となりました。
昭和24年に広島大学がここに創立し1号館は理学部の校舎として転用されます。当時、青空教室が一般的であった教育事情の中にあって広大な敷地と校舎数は戦後復興時の貴重な教育施設としての役割を果たしました。
その後、理学部の校舎として実に60年間使用されましたが、平成3年に老朽化のため広島大学は東広島市へ移転し1号館を残してすべて取り壊されました。
平成5年には広島市より被爆建物として指定を受けましたが、再開発事業との兼ね合いから保存方針が決まらないまま老朽化が進み現在も保存されないまま放置されています。
また、原爆投下の瞬間に8時15分を指したまま壊れた時計が入口にありましたが、残念ながら修理不能と判断され広島大学理学部時代に交換されています。
現在、広大な跡地は一部マンションや商業施設などに再開発され未利用地は東千田公園となっています。しかし広島文理科大学の旧校舎として現存しているのはこの1号館のみとなってしまいました。
門柱跡
大学時代の門柱跡
東千田公園になった今でも3つの入口すべてに残っています。また、被爆遺構であるため表面が焦げたような跡も残っています。
広島文理科大学
広島文理科大学の写真(絵はがき)
興南寮跡
興南寮は昭和19年に作られた南方特別留学生の寮
南方特別留学生とは日本軍とアジア植民地の間に入って指導する役目を目指す人のことで、日本の『大東亜共栄圏思想』占領施策の一つです。
この興南寮では広島文理科大学や高等師範学校に留学していたブルネイ・ビルマ・インドネシア・フィリピンからの南方特別留学生205名が生活していました。しかし、昭和20年8月の原子爆弾投下で興南寮は全壊し留学生4名が亡くなりました。
ブルネイ王国の元首相ぺンギラン・ユソフも広島市で被爆した南方特別留学生の1人です。東南アジアの留学生が広島市で原子爆弾で亡くなったという話は地元の人もあまり知りません。
現在は跡地に記念碑のみ残っています。
備考 |
・広島大学旧理学部1号館は東千田公園の中にある ・被爆者の血の付いたタイル壁や正面玄関の鉄扉中央の飾り物が東広島市の広島大学に保存されている ・同じく戦争末期の西日本の独自陸軍司令部として第二総軍司令部があった ・近くに広島赤十字・原爆病院(旧広島赤十字病院)と雑魚場疎開地跡がある ・興南寮跡は広島みらい創生高等学校の近くの元安川沿いにある 3項目の写真は広島市公文書館デジタルギャラリーより引用 |
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住所 |
広島大学旧理学部1号館:広島県広島市中区東千田町1丁目1-18 興南寮跡:広島県広島市中区大手町4丁目8 |
駐車場 | なし |
トイレ |
広島大学旧理学部1号館:東千田公園内にあり 興南寮跡:近くに公衆トイレあり |
竣工 | 昭和6年 |
公開 |
広島大学旧理学部1号館:非公開 興南寮跡:常時 |
登山難易度 | - |
サイト | |
分類 | 被爆遺構、記念碑 |
アクセス |
広島大学旧理学部1号館: ・広島電鉄路面電車「日赤病院前」電停から徒歩すぐ ・広島バス「日赤前」バス停から徒歩すぐ 興南寮跡: 広島電鉄路面電車「市役所前」電停から徒歩5分 広島電鉄バス「市役所前」バス停から徒歩5分 |
広島大学旧理学部1号館
興南寮跡
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