警固屋(巡洋艦青葉終焉の地)

ページ名:警固屋(巡洋艦青葉終焉の地)

警固屋(巡洋艦青葉終焉の地)

巡洋艦青葉は佐世保鎮守府所属の青葉型重巡洋艦の1番艦として昭和2年に就役しました。

昭和9年から呉鎮守府所属となった巡洋艦青葉は日中戦争から活躍し、太平洋戦争開戦後も緒戦から活躍した歴戦の勇者でした。

太平洋戦争末期の南方での激戦にも生き残りましたが大破した状態で呉に帰投しました。しかし、資材や人員不足に加えて損傷が大きすぎるため修理の見込みが立たず、海軍工廠では他の艦艇の修理を優先させたため巡洋艦青葉はここ警固屋に係留されました。

その後、昭和20年3月の第一次呉軍港空襲では移動できない浮き砲台となりつつも対空戦闘を行いました。しかし、7月の第二次呉軍港空襲で2回の攻撃を受け大破着底し終戦を迎えました。

着底地点は当初海でしたが平成25年に第二音戸大橋へのバイパス道路(警固屋高架橋)建設のため埋め立てられました。呉市周辺には艦船終焉の地がたくさんありますが、後世になって埋め立てられ文字通り終焉の「地」となったのは巡洋艦青葉だけです。

余談ですが、「終戦直後は鉄が貴重だったため、鉄を盗むため巡洋艦青葉に入ったことがある」という地元の人の話を聞いたことがあります。

巡洋艦青葉終焉之地の碑

巡洋艦青葉最後の地に建つ慰霊碑

慰霊碑には巡洋艦青葉の艦歴の他、空襲により警固屋地区の住民にも死傷者がでたことも記されています。

平成24年建立という慰霊碑の中ではかなり新しい部類に入りますが、恐らく平成10年に着工した第二音戸大橋と警固屋音戸バイパス建設に伴う用地取得の関係で建てられたものと思われます。

巡洋艦青葉

説明板に展示されている巡洋艦青葉の写真

現在の海岸

埋め立てによって拡張された現在の海岸線

当時を知る人によると「着底地点は慰霊碑の場所より少し沖だった」という話もあるため、本当はこの辺りに巡洋艦青葉がいたのかもしれません。

右に見えるのは呉海軍工廠製鋼部、左に見える白い島のは空母葛城と空母天城の終焉の地である三ツ子島と、戦艦伊勢の終焉の地である坪井です。

 

備考

・警固屋5丁目バス停が最寄りだが鍋桟橋バス停で降りる方が便数が多く距離もあまり変わらないのでおすすめ

・鍋桟橋バス停から国道487号線(海側)に行くと案内板があるのでわかりやすいかも

・自動車で行く場合は高架橋に乗ってしまうと見つけることができない(行き過ぎ)ため高架橋に入らないように

・記念碑から高架橋を挟んで海岸があるが直線で行けないため海岸に行くにはかなり回り道が必要

・毎年7月28日に慰霊祭が行われる

・江田島の海上自衛隊第1術科学校に艦首の菊花紋章が、大和ミュージアムに砲塔望遠鏡と進水記念の斧が展示されている

長迫公園(旧海軍墓地)にも巡洋艦青葉の慰霊碑がある

・近くに鍋桟橋跡がある

住所

広島県呉市警固屋5丁目5-5

駐車場 なし
トイレ 近くの鍋桟橋バス停待合所にあり、少し遠いが警固屋公園にあり
竣工 不明
公開 常時
登山難易度
サイト

分類 艦艇終焉の地
アクセス

・広島電鉄バス「鍋桟橋」バス停から徒歩5分

・広島電鉄バス「警固屋5丁目」バス停から徒歩すぐ


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