大野陸軍病院跡
大野陸軍病院は廿日市市宮浜温泉にあった陸軍の軍属病院
大野陸軍病院は元々は『日本赤十字大野診療所』として開業しました。
約500床を持つ2階建ての病棟が建てられ、当時「不治の病」と言われた結核患者のための民間病院として作られたため郊外に位置しています。
開業後間もない昭和20年5月、陸軍の病院として接収され『広島陸軍病院大野分院』となりました。同年8月1日に大野陸軍病院として独立します。
昭和20年8月6日に広島市に原爆が投下されると負傷者の搬送が殺到し、病院だけでは収容できず近くの国民学校を臨時の病室として約1500名が収容されました。しかし、多くの人が治療の甲斐なく亡くなりました。
また、当時の看護師の方の体験談として「陸軍の将官だけ輸血や薬剤が優先され不公平な医療であった」という話も残っています。
その後、太平洋戦争終戦直後の昭和20年9月に襲来した枕崎台風による大規模土石流により壊滅的な被害を受け、そのまま廃院となりました。
大野陸軍病院水害死没者供養塔
昭和20年9月17日に発生した枕崎台風により発生した風水害犠牲者の慰霊碑
枕崎台風による被害は全国でも3756名の死者が発生した災害史上まれにみる災害台風ですが、特に広島県の災害は深刻で広島県だけで2012名の死者がでています。
大野陸軍病院は敷地の中を丸石川が流れており、この丸石川の上流が氾濫したため大規模な土石流が発生しました。
この時の土石流は一瞬で病院を飲み込み山陽本線の線路を超えて海まで押し流し、患者や職員を含めて156名が亡くなりました。
終戦からわずか1ヶ月後ということもあり気象情報も少なく、防災体制も十分でなく、また戦争中に松根油を掘ったため上流の山が荒れており地崩れが起きやすかったのが原因といわれています。
この慰霊碑は地元の有志によって災害が起こった同年にすぐ建立されました。元々病院跡地の一角にありましたが風化が進んだため地元の名士により介護施設の中に移転されました。
その後、介護施設の移転に伴い再び病院跡地である米山広場へ移転されました。
京大原爆災害調査班遭難記念碑
大野陸軍病院で原爆の研究を行っていた京大調査班の慰霊碑
終戦直後、中国軍管区司令部の要請により京都大学より調査班が派遣され大野陸軍病院内に原爆研究所が開設されました。
しかし、昭和20年9月17日に発生した枕崎台風の土石流に巻き込まれ当時病院にいた研究員11名が亡くなりました。
跡地である米山広場に殉職者を慰霊するモニュメントが建てられています。
備考 |
・水害死者供養塔と調査班遭難記念碑は同じ場所にある ・コミュニティバスのバス停から近いが便数が少ないため大野浦駅から歩いた方が早い場合もある ・温泉街の中にあるが広場には駐車場やトイレは無い ・臨時の病室として使われた国民学校とは大野西小学校のことだが現在は移転しているため近くにはない ・近くに宮浜温泉海望源泉地や三県一望の地があるので興味があれば観光するといいかも ・広島市に同じく日本赤十字病院として開業し陸軍病院になった広島赤十字・原爆病院(旧広島赤十字病院)がある |
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住所 |
広島県廿日市市宮浜温泉1丁目22-18 |
駐車場 | なし |
トイレ | なし |
竣工 | 昭和20年 |
公開 | 常時 |
登山難易度 | - |
サイト | |
分類 | 軍属病院、記念碑 |
アクセス |
・大野浦駅から徒歩30分 ・おおのハートバス「宮浜温泉」バス停から徒歩すぐ |
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