海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団)
海兵団とは海軍に入隊した新兵を教育する施設
現在の海上自衛隊呉教育隊は太平洋戦争終戦まで『呉海兵団』と呼ばれる海軍の教育施設でした。
呉海兵団の歴史は古く、明治22年の呉鎮守府開庁と同時に『呉鎮守府海兵団』として創設されました。翌明治23年に海兵団内に呉海軍軍楽隊が設置され、7年後の明治29年に呉海兵団へ改称します。
明治38年の芸予地震では呉鎮守府や司令長官官舎と同じく被災しますが、その後も大正・昭和と太平洋戦争終戦まで新兵教育の場となりました。
太平洋戦争末期にはとなりの海兵団練兵場に応急防空砲台を作って防空戦に参加しますが、昭和20年の呉軍港空襲で被害を受けます。
太平洋戦争終戦後は、進駐してきた英連邦軍に接収され昭和31年まで英連邦軍の施設として使用されました。
翌昭和32年、江田島で発足した海上自衛隊練習隊が旧海兵団跡地に移転してきます。移転と同時に海上自衛隊呉教育隊と改称し今度は海上自衛隊の教育施設として使用されました。
海兵団創設から130年以上経った現在でも新兵の教育施設として使用され続けています。
なお、呉鎮守府には呉海兵団の他に太平洋戦争中に創設された大竹海兵団と安浦海兵団という2つの教育施設がありましたが、海上自衛隊用地に転用されているのはこの呉海兵団のみです。
入船山公園(旧呉海兵団練兵場)
呉医療センター(旧呉海軍病院)のとなりにある運動場
坂の街呉市にあってこの広さの運動場は貴重ですがかつてここは呉海兵団の練兵場でした。また、太平洋戦争末期には応急防空砲台に転用され高角砲や防空機銃等が配備されました。
太平洋戦争終戦後は進駐してきた英連邦軍の式典等に使われていましたが、接収解除後は昭和25年の旧軍港市転換法により呉市へ譲与され現在は市民の運動場として利用されています。
ちなみに、地元の人の中には今でも「練兵場」と呼ぶ人がいます。
番兵塔
呉海兵団の入口にあった番兵塔
昼夜を問わず立哨が立っていたため礎石が足の形にすり減っています。
第一兵舎
第一兵舎は明治22年の海兵団創立時に作られた兵舎
2階建てレンガ造りの兵舎がありましたが、太平洋戦争末期の空襲で被災し2階部分が無くなりました。太平洋戦争後も1階部分のみ海上自衛隊呉教育隊の隊舎として使用されました。
昭和59年からは老朽化のため隊舎としての使用は終了し呉地方隊史料館として転用されました。しかし、平成16年の台風18号で被災し半壊したためその後は使用されず平成20年に解体されました。
現在は兵舎跡の一部のみ当時と同じ場所にモニュメントとして残っています。
武器庫
呉海兵団時代の武器庫、もしくは倉庫
どの年代のものか等は詳細不明ですが、レンガ造りであることから明治年間の建築と思われます。
呉海兵団
昭和13年に撮影された呉海兵団
乙女椿
呉市の市花である亀山神社の乙女椿
入船山公園に植えられています。
備考 |
・国道487号線を挟んで旧呉海兵団と旧練兵場がある ・敷地の外から確認できる遺構は武器庫のみ ・武器庫は海上自衛隊呉教育隊の敷地内にあるため堺川を挟んで見る格好になる ・第一兵舎跡モニュメントは敷地内にあるため見ることはできない ・番兵塔は入船山記念館に展示されている ・近くに呉医療センター(旧呉海軍病院)と入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎)と海上自衛隊呉総監部(旧呉鎮守府)と海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所)と旧呉海軍工廠引き込み線跡と旧乙廻燃料置場堺川のパイプラインがある 4項目と6項目の写真は広島県立文書館蔵の広島県立文書館資料デジタル画像より引用 |
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住所 |
広島県呉市幸町1-1 |
駐車場 | 入船山公園にあり(有料) |
トイレ | 入船山公園にあり |
竣工 | 不明 |
公開 | 非公開 |
登山難易度 | - |
サイト | |
分類 | 基地跡 |
アクセス |
・呉駅から徒歩5分 |
旧呉海兵団
旧練兵場
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