柱島泊地(戦艦陸奥終焉の地)
山口県屋代島と柱島の間にある瀬戸内海の一部
呉鎮守府と佐世保鎮守府は距離も近いため合同で作戦や訓練を行っていました。呉と佐世保の艦隊の待ち合わせに場所として使われたのがこの柱島泊地です。
地理的には広島湾に位置するため呉の方が圧倒的に近いです。しかし、屋代島や柱島群島に囲まれているため艦艇を隠しやすい地形から泊地として選ばれました。
太平洋戦争中期の昭和18年6月、日本の戦局が悪化する中でこの地に警泊していた戦艦陸奥が突然大爆発を起こして沈没し、乗組員1122名が犠牲になりました。原因は弾薬庫の爆発など諸説ありますがいまだはっきりとは解明されていません。
太平洋戦争終戦後すぐに引き上げ作業が始まり、現在までに船体や遺品など多くが引き上げられましたが、引き上げきれない船体の一部が現在もこの海に眠っています。
陸奥之碑
陸奥記念館の近くにある戦艦陸奥の慰霊碑
戦艦陸奥は八八艦隊計画により建造された戦艦で、佐世保鎮守府所属の長門型戦艦の2番艦として大正10年に就役しました。
しかし、建造中に発効したワシントン海軍軍縮条約により建造中止の危機に陥りましたが、交換条件や旧式艦廃棄等の交渉により何とか竣工となりました。
艦歴を見ると軍縮の時代に誕生した難産の艦だったことが伺えますが、当時世界に7隻しかいなかった40cm艦載砲を持ち、連合艦隊旗艦を何度も務めたことから国民からの知名度や人気は高かったそうです。
ちなみに、柱島泊地を挟んだ対岸の柱島にも同じような慰霊碑があります。
若鷹の碑(予科練甲飛11期生戦没者慰霊碑)
予科練とは『海軍甲種飛行予科練習生』の略で海軍航空隊パイロットの候補生を指します。
予科練は昭和5年(甲種は昭和12年)から太平洋戦争終戦まで続いた制度で、全国の中高生の志願者の中から航空隊幹部を養成するための選抜が行われました。3年間の基礎教育の後、飛行訓練に進みます。
海軍航空隊パイロットはエリート中のエリートのみがなれる兵科として、海軍はもちろん国民からも羨望の的でした。
戦艦陸奥に乗船していた予科練生が戦艦陸奥とともに運命を共有したことを追悼し、ここに若鷹の碑が建立されました。
備考 |
・柱島泊地は屋代島東部の国道437号線からならどこでも見える ・目の前にあった記念館前バス停は廃止となったため伊保田港へフェリーで来るのが一番早いが便数が少ないため注意 ・柱島泊地を挟んで対岸の柱島にも戦艦陸奥の慰霊碑がある ・すぐ近くの陸奥記念館に戦艦陸奥の乗組員の遺品や武装等が展示されている ・呉市の大和ミュージアムに戦艦陸奥の主砲とスクリューが展示されている ・江田島の海上自衛隊第1術科学校に艦首部分の菊の御紋が展示されている ・大津島の回天記念館に戦艦陸奥の第三砲塔の薬莢で作られた梵鐘がある ・呉市の海上保安大学校資料館に戦艦陸奥から回収した燃料が展示されている |
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住所 |
山口県大島郡周防大島町伊保田2111-32 |
駐車場 | 陸奥記念館にあり |
トイレ | 陸奥記念館にあり |
竣工 | - |
公開 | 常時 |
登山難易度 | - |
サイト |
- |
分類 | 艦艇終焉の地 |
アクセス |
・伊保田港から徒歩13分 ・防長バス「周防平野」バス停から徒歩2時間30分 |
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