ダイクレ興産第2工場(旧砲熕部精密兵器工場)
精密兵器工場は呉海軍工廠砲熕部の工場の1つ
『砲熕部』とは海軍の兵器を生産する部署で、他の海軍工廠には無い呉海軍工廠のみに設置された独自部門です。この工場では艦艇に搭載する艦載砲や機銃の組み立てを行っていました。
この辺りは明治22年に呉鎮守府造船部が設置され以降急速に発展しましたが、この建物は明治36年の呉海軍工廠発足と同時に竣工しました。
工場はヨーロッパの駅舎をモチーフにして設計されたため長さが153mあり、花崗岩で作られたアーチ型の3つの入口が特徴的です。当時としては非常におしゃれな建物でした。
外壁に使われたレンガは当初外国産とされていましたが、その後の研究で地元安芸津で製造されたものと判明しました。花崗岩も呉市倉橋島で取れたものです。
呉鎮守府と同じ年代の建築でこちらは工場ですが、明治30年代は工場の外壁素材は木かレンガしか無かったため腐食や火に強いレンガで作られました。屋根は現在はトタンに直されていますが建設当時は瓦か木板で作られていました。
当初は『呉海軍造兵廠第九工場』と呼ばれていましたが、昭和12年に呉海軍工廠砲熕部精密兵器工場と改称しました。
工場にある機械(旋盤やプレス機等)はほぼアメリカ・イギリス製が導入され太平洋戦争終戦まで使用されました。稼働後は欧米人技師らが来日し技術教育や習熟訓練のため働き始めます。
その際、欧米人技師らは日本人労働者の環境・待遇の劣悪さに驚いて労働組合の結成やストライキも同時に教えます。後年、精密兵器工場の労働者らが権利確立のための労働運動を起こしたため、これが「精密兵器工場の勤務者はエリートが多かった」といわれるようになった理由の1つでもあります。
内部
駅をモチーフにした造りのためかなり縦長です。内部も海軍工廠時代のまま使われています。
カーネギー社製の鉄柱
内部に使われている鉄柱
建設時の日本にはこのような大型の鉄柱を大量に生産する工場はなかったため、アメリカ東海岸にある製鉄大手のカーネギー社から輸入されました。
当時はまだ溶接の技術がなかったためリベット打ちで作られた鉄骨という非常に貴重なものです。「CARNEGIE」の刻印が彫られています。
余談ですが、海軍工廠の工場がすべて日本の建築資材で建設されたのは日清戦争以降の八幡製鉄所ができた明治40年代からです。海軍工廠初期に建設された工場にはこのようなアメリカ製やイギリス製の鉄骨が使われています。
線路跡
兵器の入出庫に使用した貨車の線路跡
完成した兵器を艦艇に積み込む際、また艦艇から降ろされた兵器を修理・改良するために精密工場に持ち込む際に使用された貨車の跡が残っています。貨車の向きを変えるための操車盤跡も構内に残っています。
精密兵器工場では効率的な生産をするため艦艇が入港する前に兵器を生産しておき、入港と同時に桟橋に運んで搭載・交換をします。
しかし、太平洋戦争中期の昭和17年末以降は戦局悪化により艦艇の多くが未帰還(戦没)となったため、せっかく生産した艦載砲や機関銃が出荷されず山積みになっていました。
銘板
北側に2つあります。
建設当初は呉海軍造兵廠第九工場と呼ばれていたため『第九工場』と書かれた銘板が残っています。もう一つの銘板は工場が竣工した日付が記されています。
銘板はもう1組あり、歴史の見える丘の旧呉海軍工廠礎石記念塔に移設展示されています。
明治時代の礎石は手彫りが主流なので現在では読めなくなっているものがほとんどですが、この礎石ははっきりと読めることから当時としてもかなり高い技術で作られていることがわかります。
「山海呉鍋」
工場の中で使われている方角を示す用語
工場から見て東は休山があるので「山」、西は呉湾があるので「海」、北は呉市があるので「呉」、南は鍋地区があるので「鍋」と呼ばれています。
つまり、工場の中では「東西南北」を「山海呉鍋」と呼びます。これはダイクレ以外の他の工場でも呼ばれている模様で、呉の造船工業地帯の他の工場でもこの標識を見ることができます。
なお、海軍工廠時代からこの方角を示す用語が使われていたかは不明です。
米軍機による機銃掃射の弾痕(北側)
北側に残る昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の米軍機の機銃掃射の弾痕
南から襲来した米軍機は一度上空を通過し、反転して攻撃したきたため北側に弾痕が集中しています。また、外壁の色がちがう(レンガではない)ところは第二次呉軍港空襲で破壊されて戦後に補修した跡です。
太平洋戦争末期に精密兵器工場の北の斜面には空襲に備えて多くの防空壕が掘られました。しかし、避難する人が殺到しすぎて入りきれなかったり防空壕自体を攻撃されて生き埋めになって亡くなる人が多数でました。
犠牲者のほとんどは長期化する戦争と徴兵により、労働力として召集された女子動員学徒や女子挺身隊員でした。
旧砲架工場
精密兵器工場のとなりにある旧砲熕部の工場
こちらは昭和初期に建てられたため、外装はトタンや鉄板が使われていました。太平洋戦争終戦に外装を補修していますが内部は海軍工廠時代のまま残っています。
こちらは天井が非常に高いため戦後は大型船舶のスクリューを作っていました。内部の鉄骨には米軍機による機銃掃射の弾痕が現在も残っています。
ダイクレ第2工場体育館(旧呉海軍工廠製鋼部庁舎)
この建物は呉海軍工廠製鋼部の事務所でした。
現在は製鉄所である日本製鋼とダイクレは別の会社ですが、当時は同じ呉海軍工廠として同じ敷地内にあったため製鋼部の庁舎が砲熕部の工場の近くにあったものと思われます。
外から見ると新しそうに見えますが内部はかなり古い造りになっています。
製鋼部は艦艇を建造するために必要な鉄や鋼を生産する部門で、砲熕部と同じく全国でも呉海軍工廠にだけに存在する部門です。
グレーチング
太平洋戦争終戦後の昭和26年、呉海軍工廠の技師だった創業者がアメリカ軍の艦艇に使用されていたグレーチングを元に国産グレーチングの製造を始めました。
その後、国内トップシェアとなり現在では道路の側溝蓋にも使用されているメジャーな建材となりました。旧精密兵器工場と旧砲架工場は現在でもクレーチングを作る工場として使用されています。
備考 |
・敷地内は特別公開時のみ見学可能 ・精密兵器工場の銘板の1つが歴史の見える丘に展示されている ・広の旧第11海軍航空廠にも米軍機の機銃掃射の弾痕が残っている ・召集されて亡くなった動員学徒や女子挺身隊の慰霊碑として殉国の塔がある ・近くに旧呉海軍工廠がある |
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住所 |
広島県呉市昭和町7-10 |
駐車場 | 少し遠いがアレイからすこじま公園駐車場にあり |
トイレ | 少し遠いがアレイからすこじま公園にあり |
竣工 | 明治36年 |
公開 | 限定(特別公開のみ) |
登山難易度 | - |
サイト | |
分類 | 海軍工廠、日本遺産、広島県建物100選 |
アクセス |
・広島電鉄バス「昭和町」バス停から徒歩すぐ ・広島電鉄バス「日新製鋼前」バス停から徒歩2分 |
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