光海軍工廠
光海軍工廠は山口県光市にあった海軍の軍需工場地帯
『海軍工廠』とは海軍艦艇の建造・修理、艦艇に搭載する兵器の製造・修理・保管、艦装品の製造・調達・供給等を行う軍需工場の総称です。
光海軍工廠は日本で7番目に作られた海軍工廠で昭和13年に建設が決定し、太平洋戦争直前の昭和15年10月に開庁しました。開庁約1年後に太平洋戦争が開戦したため、海軍工廠の建設と兵器生産は同時進行で進められました。
光海軍工廠には砲熕部・製鋼部・水雷部・造機部・爆弾部の各部門が置かれ、最盛期の工員数は3万人いたとされています。
太平洋戦争末期になると長期化する戦争と徴兵により男性労働者不足が深刻化し、招集された動員学徒や女子挺進隊員約6500人が労働力となりました。
昭和20年8月に大規模な空襲を受け光海軍工廠は壊滅し748名の犠牲者が出ました。太平洋戦争終戦後、跡地は民間企業に引き継がれています。
余談ですが、現在の地名である「光」は海軍工廠建設に伴う用地買収と市町村合併により命名されました。
つまり、海軍工廠が『光海軍工廠』と命名されたことにより地名も光市(旧光町)となりました。海軍工廠から市町村名が付けられたという全国でも非常にめずらしいケースです。
平和の光
光海軍工廠の記念碑
慰霊碑(光市)
こちらは光市が建立した慰霊碑
昭和20年8月の空襲の犠牲者・空襲に巻き込まれた一般市民の犠牲者・人間魚雷回天光基地の戦没者・昭和20年7月の光市沖海戦で戦った駆逐艦樺と駆逐艦萩の戦没者が合祀されています。
光海軍工廠への空襲は、太平洋戦争終戦後前日の昭和20年8月14日に行われ動員学徒136人を含む748人が犠牲になりました。
亡くなった工員の遺族からは「空襲があと1日遅ければ・・」「日本があと1日早く降伏していれば・・」と悔やむ声があります。
光基地跡と回天の碑
光基地は人間魚雷『回天』の搭乗員を訓練するために作られた訓練基地
元々ここには光海軍工廠の工員養成所がありましたが、昭和19年11月に戦局の劣勢を受けて回天の訓練基地に転用されました。 光基地では12月より訓練が開始され、翌昭和20年3月に『第2特攻戦隊光突撃隊』となりました。
回天は九三式魚雷を改造したもので、外から見ると大きく見えますが内部は非常に狭く一度乗り込むと操縦以外身動きが取れない上に、水中航行中は真っ暗になるため搭乗員は時計を頼り操縦します。 また、前進しかできない上に潜航するためには手動で注水しなければならないなど非常に操縦が難しく、他の大津島基地や平生基地でも訓練中に搭乗員が亡くなる事故が起きています。
光基地でも、太平洋戦争終戦直前の昭和20年7月に和田稔少尉が搭乗した回天が訓練中に行方不明になり、終戦後の9月に上関町白井田集落の海岸に漂着するという事故がありました。
昭和20年2月より光基地から回天特別攻撃隊が出撃しマリアナ・硫黄島・沖縄などの戦いで若い隊員が散華していきました。
光市沖
回天の訓練海域となった光基地前の海
沖に見えるのは牛島と祝島(いわいじま)です。
境界壁跡
海軍工廠と市街地を隔てる境界壁の一部が現存しています。
戦前・戦中特有の大粒の石が混ざっている質の悪いコンクリートで作られています。
旧光海軍工廠引き込み線跡
光駅から光海軍工廠への引き込み線跡
現在は引き込み線の一部である島田川にかかる鉄橋のみ現存しています。鉄橋には線路はなくガス管や水道管が通っています。
また、現在の光駅の山陽本線下り線が2番乗り場になっているのも引き込み線の名残りかもしれません。
軍用貨物の引き込み線のある駅は0番乗り場や1番乗り場が引込線のホームとなっていることが多く、光駅も1番乗り場ホームが存在するのに使用されていないのは、光海軍工廠引き込み線があった名残りの可能性があります。
清山配水池(海軍水道)
光に海軍工廠が建設された理由の一つとして、海軍工廠で使用する大量の水の確保が容易であったことが挙げられます。
光市には大小23の支流がある島田川が流れており、島田川伏流水に2ヶ所の水源地があります。
昭和14年より光海軍工廠へ給水するための増設工事が始まり、光海軍工廠開庁の昭和15年に送水が開始されました。ここ鶴羽山(清山)中腹にも地下式鉄筋コンクリート造りの清山配水池が建設され、海軍工廠の工業用水や工員社宅の水道として送水されました。
太平洋戦争終戦末期の昭和20年8月14日の空襲では光海軍工廠は甚大な被害を受けますが、水道施設は奇跡的に損害は軽微でした。
太平洋戦争終戦後の昭和39年に光市に払下げられ、現在も光市水道局が利用しています。清山配水池の地下配水池や送水管・集水管は光海軍工廠開庁前の昭和14年に作られましたが、75年以上経った現在でも使用されています。
余談ですが、光市の主要道路である国道188号線も光海軍工廠の建設に伴い敷設されたものです。
妹尾和之顕彰碑
妹尾和之は広島県出身の海軍軍人
海外駐在武官や海務院長官を歴任し呉海軍工廠長と光海軍工廠長を務めた人物です。太平洋戦争終戦後も光海軍工廠跡地に大企業を誘致するなど、最後まで光市の発展に尽力しました。
光市の発展と再興に大きく貢献したとして、ここに顕彰碑が建てられています。
本川橋記念植樹
本川橋は太平洋戦争末期の原子爆弾投下で崩壊し枕崎台風で橋脚を残して完全に崩壊したため、光海軍工廠の廃鉄材を利用して昭和24年に再建されました。その本川橋のたもとに咲いていた木を、廃材のふるさとである旧光海軍工廠の前に記念樹として移植したものです。
終戦直後は鉄が貴重だったため、海軍施設の廃鉄材を再利用して作られたインフラや建物が日本各地にあります。
また、広島県安芸郡海田町にある九十九橋も光海軍工廠の廃材を使って再建されました。九十九橋には今でも光海軍工廠が空襲で受けた弾痕が残っています。
備考 |
・光駅から最も遠い回天の碑まで徒歩だと1時間以上かかるため、歩きたくない人はバスを使った方がいい ・島田駅から光市役所までコミュニティバスで行くこともできるが、便数が非常に少ないため鉄道で行く場合は光駅から行った方が無難 ・光海軍工廠跡地は民間企業の敷地のため入れない ・清山配水池も水道局敷地のため入れない(国道188号線から入口と階段は見える) ・平和の光と慰霊碑と本川橋記念植樹は旧光海軍工廠入口にある ・光基地跡と回天の碑は工廠跡地南東の魚釣り場にある ・妹尾和之顕彰碑は聖光高校の前(光市役所の近く)にある ・境界壁跡は大部分が取り壊されてしまったが日本製鉄光球場の近くに少しだけ残っている ・光市文化センターに光海軍工廠の歴史や遺品が展示されているので興味があれば見学するといいかも ・呉市と違って後ろに山が無いので工廠跡地全体を見るのは難しい(虹ケ浜海水浴場か島田埠頭公園からチラっと見える程度) ・光海軍工廠防衛のために作られた海軍徳山防備隊の砲台跡が近くにあるらしいが詳細不明 |
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住所 |
旧光海軍工廠:山口県光市中央5丁目12-1 清山配水池:山口県光市島田1丁目17-1 妹尾和之顕彰碑:山口県光市光井9丁目21-3 |
駐車場 | なし |
トイレ | 慰霊碑(光市)の近くにあり、妹尾知之顕彰碑の近くの柿林神社児童遊園地にあり |
竣工 | 昭和15年 |
公開 | 常時 |
登山難易度 | - |
サイト |
- |
分類 | 海軍工廠、基地跡、軍用水道、遺構 |
アクセス |
旧光海軍工廠入口 ・光駅から徒歩45分 ・JRバス、防長交通バス「光市役所前」バス停から徒歩3分 光基地跡と回天の碑 ・光駅から徒歩1時間 ・JRバス「北河畑」バス停から徒歩8分 引き込み線鉄橋 ・光駅から徒歩45分 ・JRバス「島田市」バス停から徒歩3分 清山配水池 ・光駅から徒歩45分 ・JRバス「島田市」バス停から徒歩3分 妹尾和之顕彰碑 ・光駅から徒歩45分 ・JRバス、防長交通バス「光市役所前」バス停から徒歩3分 |
光海軍工廠跡
平和の光・慰霊碑(光市)・記念植樹
回天光基地跡・回天の碑
境界壁跡
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引き込み線鉄橋
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清山配水池
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妹尾和之顕彰碑
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