此彼堂(城家防空壕跡)

ページ名:此彼堂(城家防空壕跡)

此彼堂と彼岸堂

三和町の和庄小学校近くにあります。

昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の際にここ城家防空壕で亡くなった人を供養するお堂です。

第二次呉軍港空襲は市街地へ爆撃が最も大規模に行われた空襲で、呉市は火の海となり民間人だけでも約2000人が亡くなりました。

ほとんどの人は防空壕に逃げ込みましたが、太平洋戦争末期の空襲では『焼夷弾』と呼ばれる火災を発生させる目的の爆弾が使われたため、周辺の家屋の火災の熱で蒸し焼きになって焼死したり、火災により発生した大量の煙が防空壕に流入して窒息死したりと多くの人が亡くなりました。

ここ三和町の坂の下にも城家防空壕と呼ばれる3つ大型の横穴式防空壕が作られていましたが、第二次呉軍港空襲の際に約550人が防空壕の中で焼死しました。

3つのうち2つは斜面に穴を掘っただけの防空壕であったため、周辺の火災の火や熱風が入り込み多数死傷者が出ました。しかし、1つは入口に泥を塗った防火板壁が設置されておりこの防空壕に逃げ込んだ人だけは助かりました。

太平洋戦争終戦後、防空壕のあった一帯の地主が犠牲者を悼んで2つのお堂と慰霊碑を建立し、防空壕のあった坂を「念仏坂」と名付けました。

以来、第二次呉軍港空襲の日である毎年7月1日に御供養が行われています。

 

念仏坂

この坂の下に防空壕がありました。

坂の街である呉市にはこのような坂の斜面を利用した防空壕がいくつも作られました。

 

備考

・住宅地の中にあり案内板もないためわかりにくい

・バスで行く場合は長ノ木長迫線に乗ること

・防空壕があった場所にあるのが此彼堂

・防空壕のあった坂の上にあるのが彼岸堂

・彼岸堂は周囲に私有地と思われる畑があるため近づくことはできない

・御供養は現在は行われていない可能性がある

・同じ呉市内の防空壕慰霊碑として呉市戦災遭難者供養塔と和庄防空壕跡がある

・他に入口に防火板壁が設置されていた防空壕として宮原11丁目の防空壕跡がある

・近くに亀山神社がある

住所

広島県呉三和町4-1

駐車場 なし
トイレ なし
竣工 昭和63年
公開 常時
登山難易度
サイト

分類 記念碑
アクセス

・呉駅から徒歩23分

・広島電鉄バス「和庄小学校下」バス停から徒歩2分


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