吉浦中学校(旧呉海軍工廠女子動員学徒狩留賀寄宿舎)

ページ名:吉浦中学校(旧呉海軍工廠女子動員学徒狩留賀寄宿舎)

吉浦中学校(旧呉海軍工廠女子動員学徒狩留賀寄宿舎)

かるが浜駅の裏にあります。

現在は吉浦中学校となっていますが太平洋戦争終戦まで呉海軍工廠の動員学徒寄宿舎がありました。

寄宿舎は元々太平洋戦争前の昭和15年に『呉海軍工廠狩留賀寄宿舎』として建設されました。約800名の工員(当初は男性労働者)が生活できるコの字型の木造2階建建物として作られ、となりに技術士官用宿舎も建設されました。

太平洋戦争後期になると長期化する戦争と徴兵により男性労働者不足が深刻化したため、呉海軍工廠広海軍工廠では学徒動員が始まり女子動員学徒や女子挺身隊員が労働力として召集されました。

狩留賀寄宿舎も昭和19年6月に女子動員学徒・子挺身隊員用の寄宿舎に転用され『呉海軍工廠女子動員学徒狩留賀寄宿舎』と改称されました。ここでは広島県・島根県・愛媛県等の高等女学校の生徒約4000名が生活を始めました。

女学生たちは毎日ここから船または呉線で海軍工廠まで通い兵器製造に従事しました。出勤の際は全員モンペ姿に鉢巻を締めて隊列を組み、唱歌しながら出勤するというさながら軍隊の行進のような出勤風景であったといいます。

寄宿舎は太平洋戦争末期とあって衛生状態や食料事情は非常に劣悪で、さらに空襲警報が出ると真夜中でもすぐ防空壕へ避難しなければならないなど厳しい生活を強いられました。

昭和20年4月、沖縄に向けて呉を出港する戦艦大和が寄宿舎から見えたため、女学生たちは総出で手や帽を振ったという記録が残っています。

太平洋戦争末期の昭和20年5月からは呉・広の海軍工廠は幾度となく大空襲を受け女学生たちの多くが犠牲となりました。

太平洋戦争終戦とともに寄宿舎は廃止となり、昭和24年に吉浦中学校が跡地に移転してきたため寄宿舎の建物も無くなりました。

呉海軍工廠女子動員学徒寄宿舎跡の碑

動員学徒解除50年を記念して平成7年に建てられた記念碑

跡地が中学校であるため平和教育の一環として校内に作られました。

 

備考

・吉浦中学校自体はかるが浜駅のホームから見える

・呉海軍工廠狩留賀寄宿舎の建設は昭和16年7月という資料もある

・同じ召集された女学生の寄宿舎として横路中学校(旧第11航空廠横路工員宿舎)がある

・召集された女学生の慰霊碑として殉国の塔がある

・近くに狩留賀浜(巡洋艦磐手終焉の地)海上自衛隊呉造修補給所貯油所(旧海軍軍需部乙廻燃料置場)吉浦の防空壕跡がある

住所

広島県呉市狩留賀町8-8

駐車場 近くのかるが海浜公園にあり
トイレ 近くのかるが浜駅にあり、かるが海浜公園にあり
竣工 昭和15年(昭和16年?)
公開 非公開
登山難易度
サイト

http://www.kure-city.jp/~yosc/

分類 海軍工廠、記念碑
アクセス

・かるが浜駅から徒歩すぐ


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