海軍軍需部倉橋島燃料置場跡
海軍軍需部倉橋島燃料置場は倉井一帯に建設された海軍の燃料基地
倉橋島燃料置場は、有事の際の海軍の燃料貯蔵の一環としてここ倉橋島東部の倉井に重油の貯蔵基地を作る計画が決まり、昭和11年から用地買収が始まりました。
その後、段階的に重油槽が建設され最盛期には36基の重油槽と1基の地中式重油槽が完成しました。また、燃料置場防衛のために室尾の砲台山と西宇土に高射砲が、海越と鹿島に探照灯が配備されました。
しかし、太平洋戦争中期の昭和19年半ば辺りから縮小され終戦時は6基のみが残っていました。縮小された理由は不明ですが、江田島や広の燃料置場に比べて場所が僻地すぎるため便が悪かったのかもしれません。
海軍の燃料基地は、太平洋戦争終戦後は引き続き海上自衛隊や在日米軍が使用する事が多いのですが、ここ倉井一帯の燃料置場は農地や企業用地として返還されました。これは強制的に買収された農家や組合が太平洋戦争終戦後に返還運動を行ったためです。
重油槽跡(西側)
倉井の農地の一番奥の水源地から見ておよそ縦2列の重油槽が作られていました。
東側に11基、西側に25基の合計36基がこの一帯にありました。現在は農地やビニールハウスになっているため目立つ遺構は残っていません。
燃料供給格納上屋跡
桟橋から荷揚げされた重油を重油槽に送る設備、もしくは一時格納施設と思われますが詳細不明です。
現在は何も残っていません。
水源地跡
燃料置場の最奥に水源地がありました。
山側から水源地・濾過池・貯水池の順に作られ、取水された水は重油槽の冷却や番舎の水道として使われていました。
太平洋戦争終戦後も農業用水として利用されていましたが、残念ながら平成30年の西日本豪雨災害により崩落してしまいました。
壕口跡
重油槽群の中に2つ、海岸線に1つあります。
倉庫や通路として使われていたのか、もしくは防空壕として使われていたのかは不明です。
旧番舎
番舎とは燃料置場で働く職員が利用した管理棟のことです。
地図で見ると12軒しか建物がありませんが、16番まで番号があるため西側の番舎は1つで2軒になっていた可能性があります。
廃屋になっているもの、門柱のみとなっているもの、取り壊されて更地になっているもの、人が住んでいるものと現状はさまざまです。「昭和の民家」という造りの玄関や玄関灯・門柱がいい味を出しています。
桟橋
重油を積んだ油槽船が接岸し荷役を行う桟橋
手前には係船柱や起重機などの湾岸施設・配電施設がありました。桟橋のみ当時の遺構として残っていますが湾岸施設は民間企業の駐車場になっています。
地中式燃料槽跡
倉井から少し離れた室尾東の峠にあります。
当初は3基作られる予定でしたがこの1基のみが完成しました。
地図で見ると綺麗な円形になっていますが現在は遺構は無くビニールハウスとなっています。
備考 |
・水源地跡は豪雨災害の崩落のため近づくことができない ・桟橋は半島の付け根か南の対岸から望遠カメラがあれば撮影できる ・地中式燃料槽跡は倉井から徒歩20分ほど離れたところにある ・壕口跡は重油槽跡地(西側)の道沿いに2つと桟橋の裏に1つある ・南の室尾港に古い町並みのがあるので興味があれば一緒に観光するといいかも ・同じ海軍の作った燃料基地として広の虹村公園(広燃料置場重油槽跡)と吉浦の海上自衛隊呉造修補給所貯油所(旧海軍軍需部乙廻燃料置場)と江田島の海上自衛隊呉造修補給所工作部エアクッション艇整備科(旧海軍飛渡瀬燃料置場)がある 近くに倉井(空母阿蘇終焉の地)がある |
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住所 |
重油槽跡(西側):広島県呉市倉橋町室尾13543 桟橋:広島県呉市倉橋町室尾13489-8 旧番舎:広島県呉市倉橋町室尾13484 地中式燃料槽跡:広島県呉市倉橋町室尾12836-24 |
駐車場 | なし |
トイレ | なし |
竣工 | 昭和11年(?) |
公開 |
重油槽跡(西側):常時 重油槽跡(東側)・桟橋・番舎・地中式燃料槽:非公開 |
登山難易度 | - |
サイト |
- |
分類 | 基地跡 |
アクセス |
重油槽跡: ・呉市生活バス「倉井」バス停から徒歩2分 桟橋・番舎: ・呉市生活バス「洲ノ崎」バス停から徒歩すぐ 地中式燃料槽: ・呉市生活バス「洲ノ崎」バス停から徒歩20分 |
重油水槽跡(西側)
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水源地跡
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旧番舎
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桟橋
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地中式燃料槽跡
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