水路軍機第232號 呉湾
昭和7年に海軍省水路部から発行された海軍の軍事機密が記載された呉湾の地図
当時の市販地図では白く塗りつぶされている呉鎮守府・海兵団・水雷団・軍需部・海軍工廠引き込み線・二河川より海側が記載されています。さらに、太平洋戦争中の昭和19年に艦艇の錨泊場所も追記されました。
新宮の第11海軍航空廠兵器部前は昭和17年まで潜水艦学校があった関係か「潜水艦繋留場」と書かれています。
呉海軍工廠火工部前は「特大型駆逐艦繋留場」となっており、その奥にある大麗女島の手前は「標的繋留用」と書かれています。
軍需部第二区前は「駆逐艦繋留場」「小型艦艇用」と書かれており駆逐艦や潜水艦の錨泊地となっています。太平洋戦争末期の昭和20年の呉軍港空襲の際も駆逐艦雪風、駆逐艦磯風、駆逐艦初霜などがここに錨泊していました。
呉海軍工廠製鋼部前は「特設艦繋留場」と書かれています。特設艦(とくせつかん)とは、民間船を海軍が徴用して海軍所属の船としたもので食糧・水・燃料・兵士を運ぶものから機雷・電線を敷設するもの、測量を行うものまで様々な船があります。
ここは現在でも日新製鋼呉製鉄所に鉄鉱石等を運ぶ船が忙しそうに行き交う水域なので、そういった鉄鉱石・石炭の輸送船の繋留場であったのかもしれません。
呉湾の中央より南側が「投錨禁止区域 水告30号」と書かれているためこの水域は航行用に開けていたものと思われます。
なお、戦艦や空母等の大型艦艇の繋留場は湾の中央に書かれています。大型艦は水深の浅い水域には投錨できないため、乗組員は小型汽艇や上陸用カッターに乗り換えて沿岸の上陸場から上陸します。
また、無線傍受を防ぐため繋留場では艦艇は無線交信は行わず海底に敷設された連絡用電話線を使います。地図にも海底電話線がどこにつながっているのかが記されています。
からすこじまにある潜水艦桟橋は甲・乙・丙・丁の4つがあり最大4艦が接岸して物資や武装の搬入が行えるようになっています。
また、『水路軍機第231號 呉港附近』という別の海図によると、倉橋島の南3か所に敵の潜水艦の侵入を防ぐため水中聴音機が設置されている様子が書かれています。
余談ですが、呉鎮守府開庁後、軍港となった呉湾には明治19年に民間船の出入りが禁止され漁業も禁止されました。しかし、漁業に関しては海軍内からも陳情の声が上がったため1年に1回許可を受けた漁船のみに漁業が許されました。
明治26年以降は民間の住宅にも「海側には原則窓は設けない」「海側の窓がある場合は目隠し戸を付ける」など厳しい建築制限が行われました。
備考 |
・復刻版「水路軍機第232號 呉湾」は大和ミュージアムや広島市の書店で購入できる ・広島市郷土資料館にも展示されている |
---|---|
住所 |
広島県呉市宝町/広島県呉市昭和町 |
駐車場 | - |
トイレ | - |
竣工 | 昭和7年 |
公開 |
常時 |
登山難易度 | - |
サイト | |
分類 | 基地跡 |
アクセス |
・呉駅から徒歩10分 |
コメント
最新を表示する
NG表示方式
NGID一覧