岩国陸軍燃料廠
岩国陸軍燃料廠は山口県岩国市と玖珂郡和木町の沿岸部にあった陸軍の燃料基地
岩国陸軍燃料廠は太平洋戦争直前の昭和14年に創設された陸軍燃料廠によって作られました。陸軍は昭和14年の時点で日中戦争開戦からすでに2年経過しており、長期化する戦争のため燃料の安定供給と管理体制強化のため『陸軍燃料廠』を創設しました。
同じころ、航空機燃料の国内生産を計画していた興亜石油(現在のENEOS麻里布製油所)がここ岩国市に工場用地を取得します。
興亜石油の用地買収を知った陸軍燃料廠は工場用地の譲渡を要求し3分の2を陸軍に譲渡させます。興亜石油は仕方なく隣接する和木村(現在の和木町)の用地を新たに取得し工場を建設しました。
その後、陸軍燃料廠は昭和17年に、興亜石油は昭和18年にそれぞれ操業を開始します。いずれも太平洋戦争開戦後の操業開始となりましたが、航空燃料や航空潤滑油を生産しました。
太平洋戦争末期の昭和20年4月に陸軍燃料廠は岩国陸軍燃料廠と改称します。しかし、僅か1か月後の昭和20年5月の空襲により壊滅的な被害を受けました。
この空襲ではB29爆撃機112機という大編隊が飛来し岩国陸軍燃料廠では約300人、興亜石油では33人の犠牲者が出ました。長期化する戦争と徴兵により男性労働者が不足したため招集されていた動員学徒も空襲の犠牲になりました。
太平洋戦争終戦後は、一時中学校用地となりますが昭和30年に民間企業に払い下げられ、現在はとなりの大竹市と同じく石油化学コンビナートとなっています。
旧陸軍燃料廠旧興亜石油殉難者地
岩国陸軍燃料廠の防空壕跡
通常、市街地の防空壕は山の斜面に直接穴を掘るタイプ(通称:タコツボ)が一般的ですがこの防空壕は壕口が2つあるコンクリート製です。また、直撃を受けた際の安全性も考えて通常は水路近くには作らないはずですが、この防空壕は水路の隣に作られています。
色々と謎が残りますが、もしかするとここしか作る場所が無かったのかもしれません。
引き込み線跡
昭和19年に作られた大竹駅から興亜石油への引き込み線跡
太平洋戦争終戦後も使われていましたが、平成12年に廃線となり現在は土手や橋脚のみが残っています。
備考 |
・和木駅から近くしかもほぼ直線なので道は非常にわかりやすい ・引き込み線跡の橋脚も和木駅から向かう途中のあけぼの橋交差点付近にある ・引き込み線跡はかなり広い範囲にあり山陽本線の線路まで繋がっている ・防空壕跡は民間企業の敷地内にあるため水路を挟んで見る格好となる ・実は大竹海兵団跡とは小瀬川を挟んで隣なので余裕があれば一緒に見学するといいかも |
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住所 |
旧岩国陸軍燃料廠:山口県岩国市装束町6丁目2 旧興亜石油:山口県玖珂郡和木町和木6丁目1-2 |
駐車場 | なし |
トイレ | 近くの和木駅にあり |
竣工 |
昭和17年/昭和18年 |
公開 |
常時 |
登山難易度 | - |
サイト |
- |
分類 | 基地跡、遺構、インフラ |
アクセス | ・和木駅から徒歩8分 |
岩国陸軍燃料廠
引き込み線跡
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