国安牧場(海軍航空隊可部基地飛行場跡)
海軍航空隊可部基地は太平洋戦争末期に作られた特攻隊の飛行場
太平洋戦争末期の昭和20年5月頃より本土決戦に備え日本各地で特攻隊の飛行場が建設されました。これらの特攻隊飛行場は目的を隠すため隠語で「牧場」と呼ばれました。
ここ広島県高田郡根野村国安(現在の広島県安芸高田市八千代町)にも「牧場を作れ」との指令計画が下りました。
飛行場用地には山陽から山陰から通じる標高242mの峠道(現在の国道54号線)が選ばれました。山間部にあって航空機を隠しやすい地形でありながら、直線であるため滑走路を建設しやすいことが理由でした。
正式名称は『海軍航空隊可部基地飛行場』ですが隠語で「国安牧場」や「秘匿国安牧場」と呼ばれました。海軍呉鎮守府の命令により昭和20年6月下旬に着工しました。
着工から完成まで約20日の突貫工事で、建設には呉鎮守府設営隊の他に三次市や庄原市の周辺の住民や学徒動員らのべ15万人が動員されました。
飛行場には長さ600m幅40mの滑走路と誘導灯が作られ偽装のため木の葉が敷き詰められ木が植えられました。さらに、工事の影響により何戸かの民家は立ち退きとなりました。
その後、滑走路をさらに600m延長し合計1200mにする第2期工事が開始されます。工事は終戦の8月15日まで続きましたが工事中に終戦を迎えたため、この飛行場から特攻機が出撃することはありませんでした。
余談ですが、太平洋戦争中に地元吉田郡民の寄付により作られた海軍航空機『百万一心号』という機体がありました。百万一心とは高田郡の戦国大名毛利元就の有名な名言です。
滑走路跡(南端)
国道54号線の滑走路跡南端にあたる八千代町下根
両側に山が迫る地形ですが道路は見通しの良い直線です。また、ここより南の上根峠までもほぼ一直線の地形です。
滑走路跡(北端)
国道54号線の滑走路北端にあたる八千代町上佐々井
多少勾配がありますがこちらも見通しの良い直線です。同じくここより北の簸川に当たるまで道路は直線です。
明顕寺
最初の600m滑走路完成と同時に舞鶴鎮守府所属の峯山海軍航空隊から特攻隊員が配属されてきました。
航空隊の本部が置かれたのがこの明顕寺で90名の隊員と25機の特攻機が到着しました。
当時を知る地元の方の話では「こんな田舎に飛行機が来たというので見に行ったが練習機をそのまま使ったようなオレンジ色だった。機体は木造に布張りでプロペラは木製だった」といいます。
この時配備された特攻機は『九三式中間練習機』(通称:赤トンボ)と呼ばれる複葉機で、250kg爆弾を積んでかろうじて飛べる程度の性能しかない機体でした。
格納庫・弾薬庫
特攻機の格納庫や弾薬庫は偽装のため周辺の山の斜面を掘って横穴式で作られました。また、発見された際の被害を抑えるため広範囲に分散されて建設されました。
滑走路を挟んでどちら側の山に作られたか詳細不明ですが、この辺りの農道にあったものと思われます。
根野防空監視哨跡
滑走路沿いにあった香川商店の屋上に作られた小さな防空監視哨
最初の滑走路と同じ6月下旬に完成し召集された地元の青年学校生徒が監視にあたりました。
昭和20年8月6日には広島市に原子爆弾を投下したB-29爆撃機エノラゲイ号を確認しました。また、原子爆弾投下直前に投下された自動計測装置を確認しています。
現在は防空監視哨跡も商店も無くなっているため、どの辺りにあったのか不明です。
備考 |
・現在の国道54号線が滑走路跡 ・国道54号線にはバス停が10箇所以上あるが滑走路跡にあたる場所には3つある ・明顕寺は安芸高田市役所八千代支所の裏にある ・滑走路跡と明顕寺はかなり離れている ・滑走路跡の中間地点にあたる八千代町基幹集落センターに戦没者慰霊碑、原爆慰霊碑、吉田高等学校八千代分校跡がある ・近くに土師ダムがあるのでマイカー等があるならついでに観光するといいかも |
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住所 |
南端:広島県安芸高田市八千代町下根1732-2 北端:広島県安芸高田市八千代町佐々井1122 明顕寺:広島県安芸高田市八千代町佐々井1592 |
駐車場 | 不明 |
トイレ | 安芸高田市役所八千代支所にあり |
竣工 | 昭和20年 |
公開 | 常時 |
登山難易度 | - |
サイト |
- |
分類 | 基地跡、砲台跡 |
アクセス |
滑走路跡:広島電鉄バス「中下根」「下根宮の上」「上佐々井」バス停から徒歩すぐ 明顕寺:広島電鉄バス「八千代支所前」バス停から徒歩5分 |
滑走路跡
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明顕寺
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