眼鏡橋(海軍第一門跡)

ページ名:眼鏡橋(海軍第一門跡)

眼鏡橋

旧下士官兵集会所の前、国道487号線と呉線の高架が交差する道路

現在は暗渠となっていますがこの道路の下には眼鏡橋という石造橋があります。

眼鏡橋は清水川の土砂を呉湾に流さないための砂防堤として明治20年に海軍によって作られました。呉鎮守府開庁前に着工し呉鎮守府完成と同時に竣工しました。

建設中は宮原村と和庄村の堺であったことから『境橋』と命名されましたが、アーチ橋であったため水面に映る橋が眼鏡のように見えた事から完成後に眼鏡橋と呼ばれました。

建設には全国から石工職人約1万8千人が集められ呉鎮守府の特別仕様の橋として建設されました。高さ26m幅18mと大型の石造橋で700本の土台丸太・徳山産の御影石約2500個・岩国産の玉石栗石を使って作られました。

その後、昭和2年に呉線の広-安浦間開通に伴い目の前に鉄道高架が作られます。さらに、昭和10年に海軍下士官兵集会所の拡張に伴い河川の埋め立て工事が行われ、眼鏡橋は完成から約40年たらずで地上から見えなくなってしまいました。

現在も、地中に石造りの眼鏡橋は当時の姿のまま残っていますが、かつてここに橋があったことはバス停や交差点の名前でしか知ることができません。

海軍第一門跡

眼鏡橋の西側

太平洋戦争終戦までは眼鏡橋(清水川)より海側が海軍用地、内陸側が市街地と分かれており眼鏡橋は市街地と軍用地の境界線でした。その眼鏡橋の西側にあったのがこの海軍第一門です。

海軍第一門には衛門と番兵塔があり太平洋戦争終戦まで市民はこの門より海側に入れませんでした。そのため、海軍第一門やとなりの下士官兵集会所は市民と軍人の待ち合わせ場所として利用されていました。

また、海軍用地の方が市街地より60cmほど地盤が高くなっていますが、これは強固にするためや市街地から見えにくくするために土を盛ったという説があります。(写真2枚目の右から左に若干傾斜がついている場所)

余談ですが、太平洋戦争前までの海軍第一門は衛門や番兵塔は無く歩哨が立っているだけの状態でした。

清水川

眼鏡橋の下に流れる川

休山を源流とする川で、海上自衛隊呉地域事務所跡の横から暗渠に入り眼鏡橋の下を流れて堺川に出ます。

眼鏡橋と海軍第一門

明治末期から大正時代の眼鏡橋と海軍第一門の写真

海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所)の案内板に展示されています。

 

備考

・地上から見るとただの国道487号線道路

・JR呉線の高架下から海上自衛隊呉地域事務所跡の前あたりがかつての眼鏡橋

・危険なので清水川の暗渠には入らないこと

・海軍第一門で使われていた番兵塔と同型のものが入船山記念館に展示されている

・海軍の作った衛門は海軍第一門から海軍第四門まであったがすべて現存しない

・同じ海軍が作った衛門として海軍第二門跡海軍第三門跡海軍第四門跡がある

・近くに海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所)入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎)戦艦大和デザインマンホールがある

住所

広島県呉市幸町4-6

駐車場 近くの入船山公園に有料駐車場あり
トイレ 近くの入船山公園にあり
竣工 明治21年
公開 常時
登山難易度
サイト

分類 遺構、インフラ
アクセス

・呉駅から徒歩10分

・広島電鉄バス「眼鏡橋」バス停から徒歩すぐ


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