阿多田半島
山口県熊毛郡平生町にある阿多田半島
柳井の南にあるこの田舎の半島は、太平洋戦争中に人間魚雷『回天』の訓練基地がありました。
阿多田半島は縄文時代から人が住み始め、弥生時代には遺跡や古墳が多く作られました。また室町時代には塩の生産地として栄え塩田が広がる平和な土地でした。
しかし、太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年、海軍の基地が建設されることとなりました。住民は全員強制立ち退きとなり半島はまったく別の姿となりました。
昭和19年春に大竹潜水学校柳井分校がここに開校しますが、戦争末期の昭和20年3月には水中特別攻撃隊の基地『回天基地平生突撃隊』へと変わり、回天や特殊潜航艇『蛟龍』『海龍』の訓練基地となりました。
この平生基地ではのべ5000人の隊員が約3ヵ月の訓練を受け突撃隊基地に配属されていきました。
回天訓練基地といえば同じ山口県の大津島や光が有名ですが、ここ阿多田半島にも回天の訓練基地が作られていたことはあまり知られていません。
阿多田半島への道
太平洋戦争終戦後、平生基地は進駐してきたニュージーランド軍の駐屯地となり昭和23年に少年院として転用されます。その後、昭和53年に少年院も老朽化のため閉鎖となりました。
平成13年に建物はすべて解体されましたが、半島には旧海軍の作った防空壕や防波堤等が現在も残っています。
山がちな場所を整地したため、平坦地で半島の先端だけ山が残っているという変わった地形になっています。
阿多田交流館
回天や平生基地に関する資料館
阿多田半島は平成14年に国有地から平生町に払い下げられたため、平生町が旧平生基地の一角に建設した資料館です。
規模は小さいですが、搭乗員の遺品や遺書・日用品など色々と考えさせられるものが展示されています。
実物大回天模型と運搬用トロッコ
回天の実物大模型と運搬用トロッコ
ここのレプリカは映画「出口のない海」で使用されたものです。
回天は九三式魚雷を改造したもので、外から見ると大きく見えますが内部は非常に狭く一度乗り込むと操縦以外身動きが取れない上に、水中航行中は真っ暗になるため搭乗員は時計を頼り操縦します。 また、前進しかできない上に潜航するためには手動で注水しなければならないなど非常に操縦が難しく、他の大津島基地や光基地でも訓練中に搭乗員が亡くなる事故が起きています。
運搬に使われるトロッコは上に回天を乗せて人力で押して移動していました。
神花山の防空壕跡
阿多田交流館の近くにある神花山に防空壕跡が3つ残っています。
また、昭和19年には海軍が神花山の山頂に高射砲陣地を構築しようとしたところ、古墳が見つかったという逸話も残っています。
回天碑
田名海水浴場の手前にあります。
平生基地から回天で出撃して亡くなった隊員・訓練中の事故で無くなった隊員・そして終戦直後に自決した隊員を慰霊する碑です。
元々は昭和34年に民間企業の敷地中に建立されましたが、平成16年の湾岸改修事業のためここに移設されました。
そして、目の前の平生湾が回天の訓練水域でした。
備考 |
・阿多田半島は町有地のため無断立入禁止 ・そもそも道がない上に樹木が群生しているため危険なので入らないように ・神花山の防空壕跡は北側に2つと東側に1つある ・神花山頂には神花山古墳が復元されているが高射砲陣地跡は残っていない ・回天碑は田名海水浴場の入口にある ・南の上関町に回天特別攻撃隊員和田稔記念碑がある ・実物大回天のレプリカは大津島の回天記念館にもある |
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住所 |
阿多田交流館:山口県熊毛郡平生町佐賀3900-14 回天碑:山口県熊毛郡平生町佐賀3439 |
駐車場 | 阿多田交流館にあり、田名海水浴場にあり |
トイレ | 阿多田交流館にあり、田名海水浴場にあり |
竣工 | 昭和19年/平成16年 |
公開 | 常時(休館日あり) |
登山難易度 | - |
サイト | |
分類 | 基地跡、観光地 |
アクセス |
・防長バス「田名」バス停から徒歩3分 |
阿多田交流館
神花山
回天碑
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