長迫公園(旧海軍墓地)

ページ名:長迫公園(旧海軍墓地)

長迫公園(旧海軍墓地)

長迫公園は呉鎮守府開庁と同じ明治22年に和庄葬儀場として作られました。

翌明治23年に海軍によって買収され『呉海軍墓地』となりました。以来、太平洋戦争終戦までの55年間呉鎮守府管理下で海軍軍人や軍属の墓地として使用されました。

しかし、太平洋戦争末期の呉市街地への空襲で荒れ果ててしまい、終戦の海軍の解体や進駐軍が戦没者崇拝・戦争賛美を禁止したため呉海軍墓地は廃止となりました。また、終戦直後の枕崎台風や深刻な食糧不足のため一部が農地へ転用されるなど荒廃が続きました。

昭和25年の旧軍港市転換法により旧呉海軍墓地は呉市に譲与され長迫公園となります。しかし、実際に公園として再整備され始めたのは昭和40年代に入ってからと太平洋戦争終戦からかなり経ってからでした。

現在は有志の手により再建され、海軍墓地だったころの軍艦慰霊碑や軍人墓などが多数残っています。

戦艦扶桑のピット(繋船柱)と慰霊碑

日本海軍初の超弩級戦艦である戦艦扶桑は、呉鎮守府所属の扶桑型戦艦の1番艦として呉海軍工廠で建造され大正4年に就役しました。

その後、二度の近代化改装が行われ太平洋戦争も古参艦ながら初戦の真珠湾攻撃から参加しました。しかし、太平洋戦争後期の昭和19年10月に起きたスリガオ海峡海戦で戦没しました。

このピットは呉海軍工廠の繋船掘に明治44年に設置されたもので『呉海軍工廠 繋船掘』と書かれています。建造と二度の近代化改装を受けた戦艦扶桑が、このピットに繋留していたという戦艦扶桑の遺品とも言えるものです。

繋船掘は現在でも旧呉海軍工廠に残っており在りし日の戦艦扶桑の雄姿を偲ぶことができます。

境界標石

長迫公園の北にある境界標石

境界標石とは民間地と軍用地の境界を示す石で日本各地に点在します。M字が2つ入っているものは海軍を表しています。

戦前戦中は要塞地帯の中で測量・撮影・模写などを禁止する要塞地帯法という法律がありました。

呉市周辺に終焉の地がある艦艇の慰霊碑

警固屋で終戦を迎えた巡洋艦青葉

坪井で終戦を迎えた戦艦伊勢

情島で終戦を迎えた戦艦日向

呉海軍工廠で建造され坊ノ岬沖で戦没した戦艦大和

合同追悼式

毎年秋分の日には追悼式が開催されます。

 

備考

・当サイトではすべての慰霊碑を紹介できないため全慰霊碑を確認したい場合は長迫公園公式サイト

・住宅地のド真ん中にあるのでわかりにくい

・バスで行く場合は長ノ木長迫線に乗ると目の前まで行ける

・近くに戦艦大和デザインマンホールの一部がある

・広島市にも陸軍将兵の墓地として比治山陸軍墓地がある

6項目の写真は呉市フォトバンクより引用(写真提供:呉海軍墓地顕彰保存会)

住所

広島県呉市上長迫町7-17

駐車場 あり
トイレ あり
竣工 明治22年
公開

常時

登山難易度
サイト

http://www.maroon.dti.ne.jp/

分類 記念碑、日本遺産
アクセス

・呉駅から徒歩38分

・広島電鉄バス「長迫町」バス停から徒歩すぐ

・広島電鉄バス「呉本通り六丁目」バス停から徒歩8分


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