広島逓信病院旧外来棟
逓信省(ていしんしょう)とは明治時代に作られた通信や運輸を管轄する政府の省庁で、現在のNTT(旧電信電話株式会社)と郵便局を合わせたような事業を行っていました。
広島市に広島逓信局が設立したのは大正8年のことでした。当時は電話はまだ一般的なものではなく郵便が主な業務でしたが、広島逓信局の管轄は中国5県と香川県と愛媛県でした。
その逓信局の職員や家族の医療機関として作られたのが『広島逓信病院』です。当初は大正11年に広島逓信診療所として開業しました。
元々は現在の土橋町にありましたが、開業2年後の大正13年に大手町に移転、さらに昭和10年に診療科数を増やして現在の東白島町に移転しました。
太平洋戦争中の昭和17年に広島逓信病院と改称しますが、当時はまだ入院施設12室・30床という病院としては小規模のものでした。
昭和20年8月の原爆投下では爆心地から1.3kmの距離と鉄筋コンクリートであったため倒壊を免れました。しかし、空襲に備えて7月までに入院患者をすべて退院させていたため患者の被害は無かったと記録が残っています。
この時市内では陸軍病院などが壊滅していたため機能する病院は赤十字病院とこの逓信病院しかなく、負傷者が殺到し被爆者医療の最前線となりました。
太平洋戦争終戦後は昭和23年に病棟を新増築し平成6年に現在の病棟へ移転となりました。平成7年に旧外来棟の一部が保存公開されています。
余談ですが、逓信省が郵政省と電気通信省(後のNTT)に分かれたのは昭和24年のことです。
資料室(旧外科待合室・手術準備室・外科診察室・化膿手術室)
ここには外科診察室と化膿手術室がありました。
現在は2室の前にあった2つの待合室ごと壁が取り外され平和学習の資料室となっています。
壁や天井もすべて塗り替えられていますが、塗装の下には被爆の時の火災や爆風の跡が残っています。
旧手術室
ここは1階の東端にある部屋で『無菌手術室』と呼ばれていました。
病院の手術室にも関わらず外壁部分が前面ガラス張りで日光を入りやすくしているなど、非常にめずらしい造りです。
床や壁に貼られたタイルは当時のものです。
旧消毒室
この部屋は医療機器等の消毒が行われていた部屋です。
原爆により消毒用器具は失われましたが床や壁に貼られたタイルは当時のものです。
階段
1階から2階へ続く階段。モダニズム建築らしい大きな建連出窓が特徴です。
しかし、昭和20年8月の原爆投下ではこの窓を大きく取った造りが災いして爆風が院内に入り込み職員に死傷者が出ました。
このサッシと手動開閉装置は被爆当時のものですが、爆風の歪みから経年劣化によりガラスが破損してしまうため平成7年に補強工事が行われ保存されています。
なお、2階と屋上は原爆によりほぼ全焼しており戦後に補修されたものです。
原爆投下直後の逓信病院
原爆投下直後の逓信病院の写真
広島平和記念公園の平和記念資料館に展示されています。
広島逓信病院
こちらは現在の広島逓信病院
旧棟に比べるとかなり大きな病院となりました。
広島郵便局電話分室局社の玉石
広島郵便局電話分室局社の玄関に飾られていた玉石
広島郵便局電話分室局社は昭和3年に建築された西洋風建築社屋でこの玉石はこの玄関に飾られていました。
太平洋戦争中に防空工事のため広島逓信局に移設され昭和20年8月の原爆によって被爆しました。
玉石は当初2つありましたが対となるもう1つの玉石は戦争の混乱で行方不明になってしまいました。
備考 |
・8月5日~6日以外の内部見学は事前予約が必要 ・外観はその辺にある建物とあまり変わらないので見るなら内部見学がおすすめ ・路面電車で行く場合は「白島」「家庭裁判所前」どちらの電停で降りてもあまり変わらない ・広島郵便局電話分室局社の玉石は逓信病院のロータリーにある ・広島逓信局の庭に植えられていた被爆アオギリが広島平和記念公園に移植されている ・同じ広島市内の被爆者治療を行った病院として広島赤十字原爆病院(旧広島赤十字病院)がある ・大竹市に同じ逓信省が作った逓信省装荷用ケーブルハット跡がある |
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住所 |
広島県広島市中区東白島町19-16 |
駐車場 | なし |
トイレ | 逓信病院にあり |
竣工 | 昭和10年 |
公開 | 限定(事前予約制/特別公開のみ)※8月5日と8月6日のみ予約なしで見学可 |
登山難易度 | - |
サイト | |
分類 | 被爆遺構、軍属病院、広島県建物100選 |
アクセス |
・広島電鉄路面電車「白島」電停から徒歩2分 ・広島電鉄路面電車「家庭裁判所前」電停から徒歩2分 ・広島電鉄バス「逓信病院」バス停から徒歩すぐ |
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