広島赤十字・原爆病院(旧広島赤十字病院)
広島赤十字・原爆病院は昭和14年『日本赤十字社広島県支部病院』として開業しました。
しかし、開業わずか3ヵ月で陸軍に接収され『広島陸軍病院赤十字病院』となりました。その後、太平洋戦争中の昭和18年に『広島赤十字病院』と改名します。
昭和20年8月の原子爆弾投下では爆心地から1.6kmの距離であったため外郭を残して半壊し多数の死傷者を出しました。
しかし、市内では陸軍病院などが壊滅していたため機能する病院は逓信病院とこの赤十字病院の2つしかなく、負傷者が殺到し被爆者医療の最前線となりました。
太平洋戦争終戦後の昭和31年、世界初の原爆被爆者医療の専門病院『日本赤十字社広島原爆病院』を院内に併設します。その後、昭和61年に老朽化を理由に病棟は取り壊され現在の新病棟へ建て替わりました。
また、日本赤十字社広島原爆病院も被爆者の高齢化に伴う患者の減少により、昭和63年に合併し現在の広島赤十字・原爆病院となりました。
門柱跡
旧病棟の門柱跡
原爆投下直後の広島赤十字病院
原子爆弾投下直後の広島赤十字病院の写真
広島赤十字原爆病院の入口とメモリアルパークに展示されています。
原爆で歪んだ窓
原子爆弾の爆風で歪んだ旧病棟の窓
北側(爆心地側)が爆風の影響で内側にめり込んでいて、反対側は逆に押し出されるような形に歪んでいます。
窓ガラスの破片が刺さった壁
旧病棟のガラスが刺さった壁
原子爆弾投下の瞬間に広島市内の窓ガラスが一斉に割れたというのは有名な話ですが、割れた窓ガラス片が凄まじい威力でコンクリート壁突き刺さっている状態で保存されています。
旧広島気象台によると原爆の爆風は音速の2倍と記録されており、ガラス片は「第二の凶器」として非常に危険でした。建物内に居て爆風自体から逃れてもガラス片が散弾銃の弾にように刺さったことが致命傷となり亡くなる人も多くいました。
また、運良く助かっても体内のガラス片はすぐに取り出すことができず、戦後数十年経ってようやく摘出できたという事例もあります。
感光したレントゲンフィルム
広島赤十字病院に保管されていた未使用のレントゲンフィルムの写真
広島平和記念公園の平和記念資料館に展示されています。
保管していたレントゲンフィルムが放射線によりすべて感光していたことから、後に原子爆弾の使用が立証されました。
マルセル・ジュノー博士顕彰記念碑
スイス人のマルセル・ジュノー博士の記念碑
赤十字国際委員会駐日代表であったマルセル・ジュノー博士は原爆投下直後に来日し、GHQへの医療品支援を強く要請し自らも広島市で医療活動を行いました。
提供された15トンもの医薬品により被爆市民1万人の命が助かったとされており「ヒロシマの恩人」とも言われています。
この記念碑はマルセル・ジュノー博士の人道的救護の功績を称え建立されました。元々、院内に設置されていましたが改築に伴いメモリアルパークへ移設されました。
マルセル・ジュノー博士が持ち込んだ医薬品
マルセル・ジュノー博士が持ち込んた医薬品
広島平和記念公園の平和記念資料館に展示されています。
博士はペニシリン等の日本には無い抗生物質を初めて持ち込んだ人物でもあります。日本人医師らは初めて見るペニシリンの強力な効果に驚いたそうです。
備考 |
・爆風で歪んだ窓、ガラスが刺さった壁、マルセル・ジュノー博士記念碑は病院のとなりにあるメモリアルパークにある ・マルセル・ジュノー博士記念碑は広島平和記念公園にも同じものがある ・マルセル・ジュノー博士が実際に医療活動を行ったとされる袋町小学校にマルセル・ジュノー広場がある ・原子爆弾の爆風で窓ガラス片が刺さった壁は江波山気象館(旧広島気象台)にもある ・近くに広島大学旧理学部1号館(旧広島文理科大学本館)がある |
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住所 |
広島県広島市中区千田町1丁目9-6 |
駐車場 | なし |
トイレ | あり |
竣工 | 昭和14年 |
公開 | 常時 |
登山難易度 | - |
サイト | |
分類 | 軍属病院、被爆遺構、記念碑 |
アクセス |
・広島電鉄路面電車「日赤病院前」電停から徒歩すぐ ・広島バス「日赤病院前」バス停から徒歩すぐ |
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