似島
広島港の南3kmに位置する島
広島市の島の中では最大の面積で人口も1100人と多く、島のシンボル的な山である安芸小富士(標高278m)が広島市内からでもよく見えます。
また、同じ陸軍の島である金輪島より沖にあり広島市と江田島の中間に位置します。
日清戦争の時に戦地から帰還した兵士からコレラが発生し流行したため明治28年に陸軍が検疫所(第一検疫所)を設置したのが始まりです。
以降、戦場から帰還した兵士は必ずここで検疫と消毒を受けて本州に上陸するという予防線が張られ大きな戦争が終わり復員船が着くと似島は大忙しになりました。
その後、日露戦争の検疫所として陸軍運輸部似島検疫所(第二検疫所)と馬匹検疫所が設立され太平洋戦争終戦まで「陸軍の検疫の島」でした。
現在でも島のあちこちに多くの遺構が残っています。
弾薬庫へのトンネル
似島学園南側あるレンガ造りのトンネル
明治38年に第一検疫所が改修され弾薬庫となった際に作られました。
似島陸軍兵器支廠似島弾薬庫跡
似島学園の南にあります。
大正10年に広島市皆実町の広島陸軍兵器補給廠で爆発事故があったため陸軍兵器廠の弾薬庫がここに移されました。
複数の弾薬庫を高い土塁で区切って万が一爆発事故が起きても他の弾薬庫に誘爆しにくくし、土塁の上に樹木を植えてカモフラージュしていました。
弾薬庫歩哨所
弾薬庫の土塁の上にある見張り台です。
哨兵が海と弾薬庫を見張るために詰めていました。現存しているのは2つのみですが学校が近いせいか中は落書きだらけです。
要塞地帯区域標石
要塞地帯と民有地の境界を示す標識
明治28年設置とありますので第一検疫所時代の遺構と思われます。
宇品駅プラットホームとトロッコレールの碑
似島に検疫所が置かれた理由は日清戦争終戦後にコレラや腸チフス等が流行った朝鮮半島や台湾から帰国した兵士を検疫するためでした。
兵士たちは検疫・消毒されたのち宇品港から宇品線に乗り各地の師団や連隊に復員していきました。
終戦後、遠い戦地から輸送船に揺られて帰国し、初めて見た祖国日本の景色がここ似島であることそして宇品線でそれぞれの故郷へ帰ってゆく兵士達を偲んでこの記念碑が建てられました。
(トロッコは検疫所内の運搬・移動に使われたもので宇品線は本州の鉄道)
似島臨海公園(旧似島陸軍第二検疫所)
陸軍運輸部似島検疫所(第二検疫所)は明治37年の日露戦争の検疫のために作られました。
太平洋戦争時も検疫所として使われましたが、広島市と似島は不思議と空襲がなかったため検疫目的以外に大量の薬が備蓄されていました。
しかし、昭和20年8月の原爆投下で広島市内の医療機関は壊滅状態になりこの検疫所が臨時救護所に指定され負傷者約1万人以上が殺到しました。備蓄していた薬はすぐに切れてしまったといいます。
写真3枚目は第二検疫所開設時に作られた井戸で汲み上げられた水は多くの原爆被災者の救護に使われました。現在は本州から水道が通っているためこの井戸水は使用されていません。
第二検疫所防空壕跡
似島臨海公園の前に7つあります。
原爆投下の際、第二検疫所に搬送され治療の甲斐なく亡くなった負傷者がここに仮埋葬されました。
埋葬した兵士の手記によると「数が多すぎて入りきらず隙間なくぎゅうぎゅうにして詰め込んだ、遺体はモノ扱いされていた」という当時の悲惨な様子が記録されています。
また、記録によると1500名以上の身元の判らない遺体が海岸近くに埋められ、後に「千人塚」と呼ばれるようになりました。
似島の防空壕跡はここだけでなく似島中学校前と西側の旧軍用桟橋の前などに残っています。
似島臨海公園(ドイツ軍捕虜収容所跡)
似島臨海公園の奥に第一次世界大戦の頃のドイツ軍捕虜収容所跡があります。
ここで当時捕虜であったドイツ人菓子職人のカール・ユーハイムが日本で初めてバウムクーヘンを焼いたことで有名です。
現在は遺構は残っておらずドイツから友好で贈られた記念樹があります。
ちなみに、カール・ユーハイムは広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)で開かれた『似島収容所浮虜製作品展覧会』でバウムクーヘンを出品し大好評を博したことから、解放後も帰国せず横浜でバウムクーヘンの店を出店しました。
旧軍用桟橋
似島臨海公園の前にあります。
明治時代に作られた桟橋で第二検疫所のために作られたました。3つありますが1つは崩落してしまっており残り2つは地元の方が使っているようです。
馬匹検疫所焼却炉
馬匹(ばひつ)検疫所とは軍馬の検疫・消毒を行う施設でかつては南にありました。
この焼却炉は昭和20年8月の原爆投下の際に第二検疫所に運ばれ亡くなった人を火葬するために使われたそうです。
耐火レンガで作られており「SHINAGAWA」の刻印が見えますがこれは東京の老舗レンガ会社『品川白煉瓦製造所』で製造されたものです。
馬匹検疫所跡に住宅地を建設するため、この焼却炉だけ似島臨海公園に移築されました。
将校集会所跡
第二検疫所前防空壕跡の上にあります。
現在は農家の納屋として使われているようですが明治時代の木造建築物が残っているのは非常に貴重です。
第一検疫所桟橋跡
似島学園(旧第一検疫所)の東側にある桟橋で日清戦争後に使われました。
北側の桟橋は『未消毒桟橋』といい海外から帰還した兵士の受け入れを、南側の桟橋は『既消毒桟橋』といい検疫が終わった兵士が出ていくために使われました。
未消毒桟橋は後に軍用桟橋に転用され弾薬庫までの線路が敷かれトロッコで弾薬や物資を運んでいました。桟橋上の四角いコンクリートは荷揚げ用クレーンの台座です。
第一検疫所焼却炉煙突跡
道路脇にニョキっと出ているこの遺構は、検疫所の焼却炉の煙突で感染物や汚染物の焼却に使われました。
フランス積みのレンガ煙突ですが、突貫工事で作られたためか先端部分はイギリス積みになっているというめずらしい遺構です。
原爆慰霊碑と慰霊の広場
似島中学校の南側にあります。
昭和46年、似島中学校農業実習地から被爆負傷者500人以上の遺骨と遺灰、また平成2年にも旧陸軍馬匹検疫所焼却炉跡から大量の遺骨と遺灰が見つかったため慰霊のために作られた碑と公園です。
かなりの数の被爆者が似島へ搬送され亡くなったことがわかります。
陸軍船舶練習部第十教育隊訓練基地跡
南東の入り江にあります。
江田島の幸ノ浦にある陸軍海上挺進戦隊の分隊で遺構は桟橋が残っています。
基地が建設されたのは開戦の翌年ですが、特攻兵器『まるれ』を用いた訓練は戦争末期の昭和19年から行われていました。
まるれは『四式肉迫攻撃艇』という正式名称ですが、実際はベニヤ板でできたモーターボートに自動車のエンジンを載せて爆雷を積んで体当たりするという特攻兵器です。
小筏・七人窪
陸軍海上挺進隊のまるれを隠しておく入江
小筏には石積みの突堤と階段とコンクリート製の遺構が残っています。戦争末期は特攻兵器はこうして隠しておかないと米軍機の機銃掃射で破壊されてしまったそうです。
陸軍船舶練習部第十教育隊中ノ原兵舎跡
太平洋戦争中期に陸軍船舶練習部第十教育隊の宿舎が建設されました。しかし、建設はしたものの実際には使われることはありませんでした。
軍用トンネル
中ノ原兵舎跡の近く
長浜燃料貯蔵庫と中ノ原兵舎を行き来しやすいように陸軍が掘った素掘りのトンネルです。
素掘りにしては長いトンネルで昼間でも電灯をつけないと中は真っ暗です。戦後は民間人も通れるように解放されました。
安芸小富士の防空監視所
太平洋戦争末期に標高278mの安芸小富士(あきのこふじ)山頂に防空監視所が作られました。
現在残っているのはこのコンクリート基礎2つのみです。
似島高射砲陣地跡
間小屋から安芸小富士に続く尾根
直径13mくらいのクレーターが5つ程ありここが高射砲陣地跡でした。
似島高射砲陣地は昭和20年7月に作られ広島市に襲来する米軍機を1機撃墜したとの記録が残っています。所属は不明ですが似島は陸軍の島であることを考えると陸軍船舶司令部所属の高射砲陣地であると思われます。
旧軍用桟橋(南側・西側)
第一・第二検疫所前の桟橋は原型をとどめていますが西側と南側の軍用桟橋は完全に崩落してしまっています。
写真3枚目と4枚目は長浜燃料貯蔵庫跡の軍用桟橋で燃料の搬入に使われていました。
備考 |
・似島学園内は無断立ち入り禁止 ・似島はかなり遺構が多いが公共交通機関が無いためすべて見るには1日では無理かもしれない ・港は2つあるが検疫所の遺構が見たい場合は学園前で下船した方が近い ・歩哨所は似島学園南の高台と堀口海産の前にある ・安芸小富士の登山道はなかなか勾配がキツいためそれなりに体力が必要 ・同じ検疫所として海軍の三ツ子島がある |
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住所 |
広島県広島市南区似島町 |
駐車場 | なし |
トイレ |
似島港と似島臨海公園にあり |
竣工 | - |
公開 | 常時 |
登山難易度 | 安芸小富士:難しい |
サイト |
- |
分類 | 遺構、記念碑、インフラ、軍属病院、砲台跡、しま山100選 |
アクセス |
・広島港からフェリーで20分 ・広島市営桟橋から高速艇で15分 |
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