金輪島
広島湾に浮かぶ小さな花崗岩の島
人口60人程度の非常に小さな島ですが、陸軍の兵站拠点である宇品港から近いことから似島と同じように陸軍の島でした。
金輪島は江戸時代に入植され蠟の栽培や蠟燭の生産などが行われた小さな島でした。明治27年(日清戦争の年)に陸軍が島を買収し輸送や揚陸などに使う船舶を建造・修理する『陸軍運輸部金輪島工場』を建設します。
昭和に入ると陸軍船舶司令部の野戦船舶本廠の一部となり島の山頂に照空灯陣地が置かれるなど陸軍の造船島となりました。
太平洋戦終戦後、野戦船舶本廠の工場やドッグは民間企業に払い下げられ現在も船舶の修理工場として使われています。
余談ですが、戦前に宇品港付近で撮られた写真には陸軍の検閲が入り金輪島が白く消されているものがあります。
金輪島北端(空母熊野丸終焉の地)
金輪島北端(広島市側)の海にあります。
周囲を海に囲まれた日本の陸軍には古くから輸送船や揚陸艇また太平洋戦争では潜水艦や空母まで陸軍が保有しており、それらを扱う専門部隊として陸軍船舶隊という兵科もありました。
空母熊野丸は「陸軍が建造した空母」というめずらしい艦艇で尾道市日立因島造船所で建造されました。
海軍の協力の元建造された空母熊野丸ですが、海軍の空母と違って上陸作戦を支援するための航空機の発艦や上陸用舟艇の発進・対潜護衛などをおこなう船でした。
熊野丸は太平洋戦争末期の昭和20年3月に進水しました。しかし、このころにはすでに制空権も制海権も失っていた日本には空母を運用する余裕は無く、兵装も搭載されないまま一度も航海に出ることなくここ金輪島の北端に係留され終戦を迎えました。
広島市は昭和20年8月の原爆投下で大きな被害を受けましたが、空母熊野丸は疑装網や植物でカモフラージュされており爆心地からかなり遠かったため無傷で終戦を迎えました。
太平洋戦争終戦後しばらくはカモフラージュされたままここに放置されており市民からも目撃されています。その後は復員船として活躍しました。
新来島宇品どっく(旧陸軍船舶司令部野戦船舶本廠金輪島工場)
野戦船舶本廠の金輪島工場は昭和26年に民間に払い下げられ、いくつかの会社を経て現在は新来島宇品どっくが船舶の修理の工場として操業しています。
金輪島は特に観光資源が無いため造船所の施設が島の大部分を占めていますが、最盛期には約1400人いた従業員も現在は250人程となっています。
原爆慰霊碑
金輪島で亡くなった原爆被爆者の慰霊碑
昭和20年8月6日の原爆投下の際に重度の火傷を負った負傷者約500人が金輪島へ搬送されてきましたが、多くの人が手当ての甲斐無く亡くなりました。
また、宇品港に駐屯していた暁部隊(陸軍船舶司令部の兵士)も、市内へ入って負傷者の搬送やインフラ復旧を行いましたが多くの隊員が二次被爆しました。
なお、同じ陸軍の島である似島も臨時救護所に指定され負傷者が搬送されています。
防空壕跡(船舶工場周辺)
陸軍の島なので防空壕もたくさんあります。
金輪島の防空壕は太平洋戦争中に約60カ所作られましたが大型で中が広く作ってあるのが特徴です。
現在は8つの防空壕跡が残っています。
防空壕跡(空母熊野丸終焉の地周辺)
こちらは金輪島北端空母熊野丸終焉の地にある防空壕跡
大型のものが2つ現存しています。
探照灯の遺構(?)
レンガ造りの遺構
探照灯の関連施設と思われますが詳細不明です。
備考 |
・島内には商店やトイレはないの(桟橋にもない) ・本州側の桟橋は広島港ではなく「宇品港市営桟橋」となる ・フェリーは新来島宇品どっく関係者専用のため一般人は自動車や自転車等で上陸できない ・島の南側は新来島宇品どっくの敷地であるため一般人が行けるのは北側のみ ・島の全体は黄金山からよく見える ・金輪島野戦船舶本廠工場の工員の慰霊碑が比治山陸軍墓地にある |
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住所 |
広島県広島市南区宇品町383 |
駐車場 | 島内にはなし(宇品港市営桟橋にあり) |
トイレ | 島内にはなし(宇品港市営桟橋あり) |
竣工 | 明治27年 |
公開 | 常時 |
登山難易度 | - |
サイト |
- |
分類 | 離島、艦艇終焉の地、遺構、記念碑 |
アクセス | ・宇品港市営桟橋から旅客船で13分 |
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