広島軍用水道
広島市はデルタ地帯(川の中心に砂が溜まってできる三角州)にできた都市で交通・海運の要所でありましたが、水道においては事情が良くありませんでした。
海に近いデルタ地帯であるため、井戸を掘っても出るのは塩水ばかりで当初市民は川の水をそのまま飲んでいました。
しかし、大雨が降れば川は泥水となって飲めなくなるなど不便も多く、また川の水を病原とした伝染病も断続的に流行していました。明治19年にコレラが全国的に流行した際は伝染病流行地に指定されてしまい「河水飲用禁止」の県布告が出されてしまいました。
明治27年に日清戦争が勃発し大本営や帝国議会が置かれ宇品港が陸軍の兵站拠点になるなど広島市は事実上日本の首都となりました。しかし「陸軍の軍事拠点である広島市に水道が無いのは衛生・防火の面で問題がある」との声も上がりました。
明治28年になると、当時の内閣総理大臣である伊藤博文らの推薦もあって明治天皇から『臨時広島軍用水道布設部官制』が勅令として公布され、明治29年5月に国費を使って建設することが決まり着工しました。
「天皇の勅令で水道を作る」というのは当時としても異例のことでしたが、結局完成したのは日清戦争が終わった明治31年8月のことでした。
広島軍用水道は全国で5番目の近代水道として完成し、特に外国船に給水する港以外では初めての軍用水道でした。
ちなみに、軍用水道としては呉市の呉鎮守府水道から7年遅れて完成ですが、呉鎮守府水道が市民に「余剰分」として水道を提供したのは明治36年と遅かったのに対し、広島市の広島軍用水道は当初から市民にも上水を送る目的で建設され運用も初めから広島市が行っていました。
その後、広島市は市街地の密集化と人口増加が進み日露戦争・日中戦争を経て軍事拠点としての水道需要も増大したため明治37年・大正10年・昭和5年・昭和16年と広島軍用水道も拡張工事が続けられます。
太平洋戦争末期の昭和20年8月、広島市に原子爆弾が投下された際は牛田水源地は爆心地から2.8kmの距離にあり被爆しました。
爆風により水源地の電源は破壊され送水ができなくなっていました。また、広島市内も至るところで水道管や給水栓が破損し水圧も大幅に下がっていましたが、職員らの懸命な復旧作業で送水を続けました。
この時の水道は「命の水」といわれ、火傷を負った負傷者や火の海と化した市街地の消火に重要な役割を果たしました。
旧濾過調整池上屋
旧濾過調整池上屋(きゅうろかちょうせいちうわや)は明治31年に作られた広島軍用水道の施設
当初の広島軍用水道は、太田川で取水した水を沈殿池でゴミや不純物を取り除いた後緩速濾過池で濾過して水道水として使用していました。
緩速濾過(かんきゅうろか)とは取水した水を砂・砂利・レンガなどに長い時間をかけて通してゆっくりと綺麗にする方法です。
この旧濾過調整池上屋は緩速濾過池の施設の一部でレンガと花崗岩の切石で作られています。竣工当時は少なくとも4つ作られましたが現存しているのは1つのみです。
また、被爆建物を含む広島市の遺構の中で最古の建物となります。
余談ですが、現代の水道は薬品を使って短時間で水を綺麗にする急速濾過(きゅうそくろか)という方法が主流です。急速濾過の方が緩速濾過に比べて小さな敷地で効率よく処理ができます。
水道資料館(旧送水ポンプ室)
大正13年竣工のポンプ室
緩速濾過池で処理された水道水を裏山の配水池まで汲み上げるためのポンプを内包した建物です。
建設当初はモダンなレンガ造りで、ペディメント風の切妻壁と屋根にドーマー窓が設けられており、室内にポンプ3台が設置されていました。
昭和20年8月の原爆投下の爆風で入口上部にある「送水喞筒室」(そうすいしょくとうしつ:ポンプ室の意味)の石板が上に曲がってしました。その後、昭和60年に水道資料館に改装する際に安全上の理由から修復されました。
水道資料館にするために内装も外見もピカピカになっていますが、元は旧濾過調整池上屋のような色合いでした。
現在は被爆建物として登録されており近代化産業遺産にも選ばれています。
水道資料館別館(旧量水室)
量水室とは送水経路の途中にあって水量を測る施設のことです。
昭和のはじめに建設され原爆にも耐えましたが、現在は中だけ改装され水道資料館の学習ルームになっています。
水道施設の石板
写真1つ目は内閣総理大臣伊藤博文の書
「深仁厚澤」(しんじんこうたく)とは中国の古言で広大な人徳という意味で、明治天皇の人徳と大自然の水徳を表した言葉です。「天皇の勅令で水道を作る」というのは当時でも異例のことで、明治31年の広島軍用水道創設時にポンプ室の正面に掲げられていました。
写真2つ目は陸軍中将であり臨時広島軍用水道布設部長の児玉源太郎の書
「夜晝舎不」(ちゅうやをおかず)とは昼も夜も休みなく流れ続ける太田川の恩恵を思って書かれたもので、創設時の牛田取水門の上部に掲げられていました。
大正時代の水道管
大正13年製の牛田水源地内に布設されていた水道管
日本陸軍の☆マークが刻印されています。
送水ポンプと取水ポンプ
写真1枚目は送水ポンプ室(現水道資料館)に設置された送水ポンプで大正13年から昭和47年まで使われていました。
写真2枚目は取水ポンプで同じく大正13年から昭和58年まで実に60年間使用されていました。
猿猴橋の水管橋
明治30年竣工の水管橋
牛田水源地から宇品港へ水道水を届けるための配水管です。
宇品港は戦前まで陸軍の兵站拠点で船舶に給水するため水道需要が多く、そのために設置されたものと思われます。
昭和20年8月の原子爆弾の爆風にも耐え100年以上広島市に水を送り続けましたが、平成19年に老朽化のため撤去され一部がモニュメントとして展示されています。
配水池
送水ポンプ室(水道資料館)から上げられた水は一度この配水池に貯水され、必要に応じて水圧をかけ市内へ送水されます。
戦前からあるものは3カ所あり現在も稼働中です。
牛田水源地
戦前の牛田水源地と思われる写真(絵はがき)
備考 |
・水道資料館は12月から2月は終日休館している ・夏休み期間(7月21~8月31日)は毎日開館しているので見学するなら夏休み期間中がおすすめ ・旧濾過調整池上屋は敷地外にあるので休館日でも見学できる ・配水池は一般公開されていないので見ることはできない ・同じ広島市水道局の遺構として己斐調整場送水ポンプ室がある ・同じ太田川を水源とする水源地として海軍の戸坂取水場(旧戸坂水源地)がある ・同じ太田川の水力発電所として太田川漁業協同組合(旧亀山水力発電所)がある ・近くに工兵橋と工兵第五連隊跡がある 8項目の写真はarch-hiroshimaよりクリエイティブ・コモンズ・ライセンスに基づいて引用 10項目の写真は広島県立文書館蔵の広島県立文書館資料デジタル画像より引用 |
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住所 |
広島県広島市東区牛田新町1丁目8-1 |
駐車場 | 近くの東区スポーツセンターにあり(有料) |
トイレ | あり |
竣工 | 明治31年 |
公開 | 限定(公開期間のみ) |
登山難易度 | - |
サイト | |
分類 | 軍用水道、被爆遺構、近代化産業遺産 |
アクセス |
・アストラムライン「牛田駅」から徒歩10分 ・広島電鉄バス「東区スポーツセンター前」バス停から徒歩約10分 ・広島バス、JRバス、広島交通バス「東区スポーツセンター入口」バス停から徒歩10分 ・JR山陽本線「新白島駅」から徒歩25分 |
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