比治山陸軍墓地

ページ名:比治山陸軍墓地

比治山陸軍墓地

比治山に戦前からある陸軍軍人の墓地

明治の西南戦争から太平洋戦争までの陸軍軍人の慰霊碑や墓石約3500基があります。また、北清事変・北清事変・第一次世界大戦により広島市で亡くなったフランス人、ドイツ人、中国人も埋葬されています。

「死んでも突撃ラッパを口から放さなかった」という逸話で戦前の教科書にも載った、明治時代の陸軍兵士木口小平の墓もここにあります。

比治山陸軍墓地の始まりは、明治4年に第五師団の前身である鎮西鎮台第一分営が広島城に創設され、その鎮台将兵の共同墓地として翌明治5年に設立されました。

当時は火葬の風習が無かったため墓が大きく、現在の放射線影響研究所の辺りまでかなり広い土地が陸軍墓地でした。

昭和16年に太平洋戦争が勃発すると、比治山に高射砲陣地を構築することが決まり昭和19年から縮小工事に入ります。しかし、昭和20年8月の原爆投下と終戦により工事は中断、さらに枕崎台風と終戦の混乱で荒れ果て墓石や遺骨が散乱したまま放置されていました。

昭和35年に有志の手により再建されましたが、放射線影響研究所建設の影響でかつての面積の10分の1になってしまい、墓石が所狭しと敷き詰められたような造りになっています。

なお、太平洋戦争終戦後は放射線影響研究所建設の軋轢から、政府が国有墓地指定を取り消したため正式名称は『比治山南広場』となっています。

呉市の海軍墓地と違い、広島市の陸軍墓地は波乱の歴史があることが伺えます。

電信兵慰霊碑

太平洋戦争中期までこの比治山の南に駐屯していた電信第二連隊・関係諸部隊・船舶電信隊の慰霊碑

通信隊は通称「軍通(ぐんつう)」と呼ばれ軍司令部と師団司令部、もしくは連隊間の通信を担う部隊でした。

船舶工兵隊慰霊碑

白島に駐屯していた工兵第五大隊第三中隊・独立工兵第六連隊・船舶工兵第一連隊の慰霊碑

周囲を海に囲まれた日本の陸軍には古くから輸送船や揚陸艇、また太平洋戦争では潜水艦や空母まで陸軍が保有しており、それらを扱う専門部隊として陸軍船舶隊・船舶工兵隊がありました。

船舶砲兵隊慰霊碑

広島港に駐屯していた船舶砲兵隊の慰霊碑

太平洋戦争のころになると陸軍の輸送船も航空機や潜水艦などの攻撃に晒されはじめたため、自衛のために対空砲や爆雷などで武装し戦いました。それらを扱う兵科が船舶砲兵です。

また、太平洋戦争末期になるとマルレと呼ばれる爆雷を積んで体当たりする特攻兵器も扱いました。

歩兵第十一連隊慰霊碑

広島城に駐屯していた歩兵第十一連隊の慰霊碑

歩兵第十一連隊は明治時代の萩の乱からの活躍した歴戦の勇者で日清戦争・日露戦争・日中戦争・太平洋戦争終戦まで戦い抜きました。

日中戦争開戦から太平洋戦争終戦まで休むまもなく8年間戦い続け、シンガポールで終戦を迎えました。

騎兵第五連隊慰霊碑

広島駅の北に駐屯していた騎兵第五連隊の慰霊碑

騎兵は第一次世界大戦で戦車が登場するまでは陸軍の花形役者でしたが、太平洋戦争前には装甲中隊に変わりました。

慰霊碑がツギハギだらけのように欠けているのは枕崎台風による損傷と修復の跡と思われます。

 

暁部隊金輪島工場慰霊碑

陸軍船舶司令部野戦船舶本廠金輪島工場工員の慰霊碑

金輪島は明治27年、陸軍が島ごと買収し輸送船等を建造する陸軍運輸部金輪島工場を建設しました。その工場で働いていた工員の慰霊碑です。

船舶工場の工員は準軍属であり軍属者より処遇は低く、徴兵戦没者よりも恩給は少ないのが常でした。

放射線影響研究所(旧ABCC)

原子爆弾が人体への影響を調査する目的で日米政府が合同で建てた研究施設

カマボコ型の研究棟が特徴の研究所で、旧称は『ABCC(原爆傷害調査委員会)』といい地元の人の中には今でもそう呼ぶ人がいます。

当初は昭和22年に赤十字病院の一部を借りてABCCを発足させました。翌年に宇品凱旋館に移転しました。

昭和24年に新設が決まり当初アメリカと日本人医師らは最初から比治山に建てることを希望していました。しかし、陸軍墓地があることから広島市と有志が反対し一時は市街地に建てることで合意しました。

しかし、当時の広島市街は太田川放水路が無かったため河川の氾濫による洪水の被害が多く、万一の災害から研究結果を守るためにと高台へ建設が望まれ元宇品移転等の代替案も出ましたが、最終的にここ比治山に建設されました。

また、ABCCは「人体検査は行うが治療は一切しない」「拒否しても強引に恫喝して調査する」「外国の報道機関には一切取材させない」など非人道的行為を行ったため被爆者や市民の間で非常に評判が悪く撤去運動が起こりました。

当時を知る地元の人によると「当時小学生だったが強制的に原爆被害の検査に協力させられ採血等をされた。検査後にチョコレートをもらったが治療は一切無かった」という話があります。

昭和50年4月に現在の放射線影響研究所となりました。

要塞地帯区域標石

要塞地帯と民有地の境界を示す標識

比治山には2つあり1つは放射線影響研究所の前、もう1つは陸軍墓地の中にあります。放射線影響研究所の前の標石には「陸軍省所轄地」と書かれてます。

戦前戦中は要塞地帯の中で測量・撮影・模写などを禁止する要塞地帯法という法律がありました。

 

備考

・放射線影響研究所は陸軍墓地の西となりにある

・毎年4月に合同追悼式が行われる

・路面電車で行く場合は比治山線に乗らないといけない

・比治山には他にも現代美術館、まんが図書館、展望台等があるので興味があれば観光するといいかも

・呉市にも海軍将兵の墓地として長迫公園(旧海軍墓地)がある

・近くに電信第二連隊跡広島大学医学資料館(旧広島陸軍兵器支廠)広島要塞砲兵連隊跡がある

住所

広島県広島市南区比治山公園6

駐車場 比治山公園内にあり
トイレ 比治山公園内にあり
竣工 明治4年
公開 常時
登山難易度
サイト

https://www.city.hiroshima.lg.jp/

分類 記念碑、遺構、広島県建物100選
アクセス

・広島電鉄路面電車「比治山下」電停から徒歩10分

・広島バス「段原中央」バス停から徒歩13分


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