大久野島(東京第二陸軍造兵廠忠海製造所跡)

ページ名:大久野島(東京第二陸軍造兵廠忠海製造所跡)

大久野島

忠海港の沖3kmに位置するリゾート島

現在は「ウサギの島」として観光ガイドに載る人気のリゾート地ですが、かつて秘密裏に毒ガス兵器を製造していたことから「地図から消えた島」と呼ばれていました。

大久野島は遺構は大きく分けて2種類が現存しています。

1つは明治時代に外国艦隊が侵攻してきた際に備えて忠海海峡と来島海峡に築かれた『芸予要塞』時代のもの、もう1つは昭和初期に毒ガスを製造していた毒ガス工場時代のものです。

芸予要塞は陸軍の要塞砲台として明治33年に竣工し、本州の忠海町に要塞砲兵司令部がありました。大正13年に外洋の豊後水道に豊予要塞が築かれると不要となり廃止されました。

その後、昭和4年に陸軍の毒ガス工場が建設され太平洋戦争後期の昭和19年まで操業されていました。

旧桟橋

芸予要塞時代に作られた桟橋

毒ガス工場時代になり「本州から丸見えのこの桟橋を使うのは機密上よくない」という理由で使われなくなりました。

当時この島に勤めていた人の話では「毒ガス工場に勤めていることは軍事機密なので家族にも話せなかった」といいますが、対岸の忠海の住民は毒ガス工場の存在を知っていたそうです。

発電所跡

毒ガス工場時代の遺構

重油を燃料にディーゼル発電機8基によって発電し毒ガス工場に電力を供給していました。また、太平洋戦争末期には召集された女学生が「ふ号作戦」に使用する風船爆弾を作っていました。

MAG2と書かれた文字は「MAGAZINE 2」略で、太平洋戦争終戦後接収したアメリカ軍が朝鮮戦争時に弾薬庫として使った時の名残です。

火薬庫跡

芸予要塞時代の遺構

明治時代の建物だけあって風化が進んでいます。屋根が無いのは爆発事故が起こった際に爆風が上に抜けるよう屋根だけ木製にしてあったためです。

発電所と同じようにMAG1と書かれていますが、これも「MAGAZINE 1」略で太平洋戦争終戦後に接収したアメリカ軍が朝鮮戦争で弾薬庫として使った名残です。

北部砲台跡1

芸予要塞時代の遺構

ここには12cm速射砲が配備されていました。敵艦隊が来た場合は対岸の忠海要塞(本州側)と挟み撃ちにする計画でした。

造りは明治時代の砲台によくある石造りで砲台床を中心に砲弾置き場があり、となりに半地下の火薬庫があるという配置です。

北部砲台跡2

芸予要塞時代の遺構

こちらは北部砲台跡1より大きい24cm可農(カノン)砲が配備されていました。

太平洋戦争の際は防空砲台へ転用されましたが、毒ガス工場を発見されるのを恐れ敵機が来ても一度も攻撃しなかったそうです。

長浦毒ガス貯蔵庫跡

毒ガス工場時代の遺構

巨大な毒ガスの貯蔵庫です。

ここには皮膚をただれさせるびらん性毒ガスの『イペリット』と『ルイサイト』が貯蔵され、戦時中は盛り土で入口を隠しコンクリートに迷彩塗装を施して隠していました。

戦後、接収した連合国軍が地元の民間会社に処分を要請しましたが扱いに慣れてないため被毒者がでてしまいました。

やむなく「連合国軍の揚陸用船艇と民間船に載せ沖合で船ごと爆破して海中に沈める」という方法と「火炎放射器で貯蔵庫ごと焼き尽くす という」という方法で処分しました。それでも被毒する人が多かったそうです。

火炎放射器で入念に焼き尽くした跡(黒く焦げた部分)が今でも残ってます。

毒ガス貯蔵庫跡

毒ガス工場時代の遺構

当初は屋根がついており80トンの毒液を貯蔵する貯蔵庫でした。現在は埋め戻されたせいか森一体化して半地下の廃墟のようになっています。

森の中のタンクの台座

毒ガスのタンク群は存在を隠すためわざと森の中に作られました。

中部砲台跡

芸予要塞時代の遺構

大久野島の遺構の中で一番保存状態が良い遺構です。内部に入ることも可能です。

南部砲台跡

芸予要塞時代の遺構

北部砲台跡と同じ造りですが状態は悪いです。

兵舎施設と思われる遺構

兵舎跡と思われる遺構ですが詳細不明です。

幹部用防空壕跡

毒ガス工場時代の遺構

半地下コンクリート製の防空壕ですがこの防空壕を使えるのは幹部だけです。一般工員の防空壕は地面に穴を掘っただけの横穴式防空壕(通称「タコツボ」)でした。

呉鎮守府の裏にある防空壕跡に似ています。

南部探照所跡

芸予要塞時代の遺構

探照灯とはレーダーが無かった明治時代の夜間の索敵施設です。

半地下の探照灯室に巨大な電灯があり四角い穴から光線を上部(地上)へ照射します。照射された光は地上にある大型鏡で水平に反射させて海上を照射し敵艦隊を探します。灯台の光で敵を探すようなイメージです。

索敵可能範囲は約6kmで明治時代の索敵はこういった方法で行われていました。

研究所跡

毒ガス工場時代の遺構

写真1枚目が毒ガス研究室兼薬品庫、2枚目は検査室兼書類管理室です。

現在大久野島には宿泊施設がありますが規模が小さかった昔はこの研究所も宿泊施設として使用していました。

三軒家毒ガス貯蔵庫跡

宿泊施設の横にあります。

完全に草木が上を覆っていますが、大久野島の工場や建物は存在を隠すためもれなく迷彩塗装や植樹が施されいたのでその名残かもしれません。

長浦貯蔵庫跡に比べると小さい貯蔵庫ですがここにはびらん性毒ガスの『イペリット』が保管されていました。

大久野島毒ガス資料館

大久野島は昭和4年から太平洋戦争終戦まで日本で唯一の陸軍毒ガス製造工場があり、この資料館では毒ガス製造の負の歴史を知ることができます。

工場自体の安全管理は厳しく作業員は直接毒ガスに触れて被毒する事故は少なかったそうですが、島の空気に含まれていた微量の毒ガスを毎日吸ったせいで後年障害を発する被害が多くあるそうです。

太平洋戦争終戦後の処分も従事した日本人に被毒事故が起きたり海中投棄された毒ガスを誤って引き揚げた漁師も被毒する事故が起きるなど様々な問題が残りました。

また、大久野島で製造された毒ガスは国際条約で使用が禁止されていにも関わらず中国大陸で大量に使用されたという説があります。

太平洋戦争終戦後も中国大陸に残っていた未使用の毒ガスに誤って被毒してしまう事故が起こっています。

殉職碑と慰霊碑

殉職碑は毒ガス製造による犠牲者を鎮魂するために太平洋戦争前の昭和12年に建立されました。

慰霊碑の方は昭和60年と戦後かなり経って建立されたものです。

 

備考

・宿泊施設は島内に1軒ある

・自動車は乗り入れできない

・毒ガス資料館内での撮影は事前許可が必要

・ウサギのエサは忠海港(本州側の港)でしか売ってないのでやりたい人は忠海港で買っておくこと

・海水浴場やレジャー施設もあるのでついでに観光してみるといいかも

住所

広島県竹原市忠海町5476-4

駐車場 なし(自動車乗り入れ不可)
トイレ 宿泊施設と島内に複数あり
竣工 明治33年/昭和4年
公開 常時
登山難易度 易しい
サイト

http://rabbit-island.info/

分類 遺構、砲台跡、観光地、広島県建物100選
アクセス

・忠海港から旅客船で15分

・三原港から旅客船で30分


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