大竹潜水学校跡
大竹潜水学校は太平洋戦争終戦まであった海軍の学校
潜水学校とは潜水艦の乗組員を育成する教育機関で、砲術学校や水雷学校等の技術学校を卒業し艦艇で勤務経験を積んだ士官が入校できる学校です。
潜水学校は元々呉市の呉海軍工廠火工部のとなりにありましたが、太平洋戦争中の昭和17年11月ここ大竹市に移転されました。
大竹市が選ばれた理由は、すでに大竹海兵団が設置されていたのもありますが、大竹の海が水深が深く潜水艦の訓練に適している地形だったこともあります。
しかし、太平洋戦争末期になると瀬戸内海は米軍が敷設した機雷だらけで、触雷して沈没する訓練艦がでたため終戦直前に能登半島の七尾に分校を開校し、訓練用の潜水艦もそちらに多数譲渡されました。
太平洋戦争終戦後は、引き揚げ事業のため呉市から呉海軍病院が移転してきました。
現在、潜水学校跡地は太平洋戦争終戦後に大竹市が誘致した複数の民間企業となっています。
小島潮遊池
元々は潜水学校の生徒が潜航艇に乗って海に出ていくための縦長の入り江でした。現在は水門があった部分が埋め立てられて池のようになっています。
コンクリート製の壁か仕切り板が残っていますが当時のものか不明です。
探知講堂のモニュメント
大竹潜水学校唯一の遺構
探知講堂は正式名称『電測水測講堂』といい、水中の潜水艦のスクリュー音を聞き分ける聴音訓練のために海上に作られた全国でもめずらしい訓練施設です。太平洋戦争中の建築らしく鉄筋・木筋・レンガ・木枠で型を取った跡のコンクリート・石混じりのコンクリート等色々な資材が使われています。
太平洋戦争終戦後も残されていましたが、平成20年の埋め立て事業により取り壊され、現在は建物の一部のみモニュメントとして保存されています。
なお、地元の人は何をするための建物なのか解らず「屠殺場(とさつば)」と呼んでいたことがあるそうです。
探知講堂
探知講堂の写真と絵画
案内板に展示されています。
広島西医療センター(旧国立大竹病院)
太平洋戦争が終戦すると海外に残された約660万人の軍人・軍属・在留邦人の引き揚げ・復員が始まりました。大竹港は引き揚げ港に指定され昭和20年12月に大竹海兵団跡地に引揚援護局が設置されました。
引き揚げ事業の一環として、ここ大竹潜水学校跡に呉市から呉海軍病院が移転してきました。引き揚げ者は引揚援護局で手続き後、呉海軍病院で検疫や消毒等を行い郷里へ帰っていきました。
その後、呉海軍病院は大竹海兵団跡地で国立大竹病院となり昭和22年に移転します。平成17年に国立大竹病院と国立原病院が合併し現在の広島西医療センターとなりました。
備考 |
・探知講堂のモニュメントは東栄地区湾岸緑地公園内にある ・潜水学校跡地と探知講堂跡はかなり離れている ・コンビナート地帯なので公共交通機関はない、マイカー等がない人は大竹駅からがんばって歩こう ・広島西医療センターは住所は大竹市だが場所的には玖波駅の近くある ・広島西医療センターは大竹潜水学校跡からかなり遠く、遺構や記念碑はないので遺構目的なら行かなくてもいいかも |
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住所 |
潜水学校跡:広島県大竹市東栄1丁目17 探知講堂跡:広島県大竹市東栄3丁目44 広島西医療センター:広島県大竹市玖波4丁目1-1 |
駐車場 | 東栄地区湾岸緑地公園内にあり |
トイレ | 東栄地区湾岸緑地公園内にあり |
竣工 | 昭和17年 |
公開 | 常時 |
登山難易度 | - |
サイト | |
分類 | 遺構、基地跡 |
アクセス |
潜水学校跡: 大竹駅から徒歩20分 探知講堂跡: 大竹駅から徒歩35分 広島西医療センター: 玖波駅から徒歩10分 |
大竹潜水学校跡
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探知講堂跡
広島西医療センター
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