関連人物
ストーリー
【1】
山のような大波がラスティーアンカーを
出港した貨物船を襲い、転覆させた。
船員たちの悲鳴は瞬く間に波に飲まれて
消えていく。
ナーラは目の前に倒れてきた桁を掴んで
マストにしがみつこうとしたが、
回りの船員たちに腕を掴まれ、
そのまま海に引きずり込まれていった。
腕にできた傷口に海水が触れて
痛みを感じるも、それは一瞬だった。
気づいた時には
再び大波が襲いかかってきて、
紅に染まった海が
彼女の視界いっぱいに広がる。
生臭い海水がナーラの鼻腔に
染み込んでいき、息ができなくなる。
ナーラはそのまま意識を失ったーー
このような経験は小さい頃にもあった。
幼いナーラは、
ギャンブルで借金まみれになった
父親と一緒にラスティーアンカーを
逃げ回っては、
臭いゴミ溜めの中に
身を隠す日々を送っていた。
下水や魚が腐ったようなその生臭さは、
鼻に入り込んだ海水の臭いと似ていた。
ナーラは父親に対して嫌悪感しかない。
恥知らずのあの男は、借金を返して
安心して暮らせるようにすると
何度も何度も約束したが、
それを果たすことはなかった。
ナーラは失望したが、
やがてその気持ちすら
消えていったのだった。
父親が借金取りに殺される中、
ナーラはゴミ山に隠れて
ひたすら息を潜めて見ていた。
ひどい臭いでだんだんと息苦しくなり
意識が遠のいていく中で、
ナーラはひとつだけ期待をした。
きっと目覚める頃には
すべてが終わっていると......。
孤児になったナーラは、
スラム街を彷徨い、盗みで生き延びてきた。
殴られるのは日常茶飯事で、
残飯を手に入れるために
野良犬と喧嘩することもあった。
9歳であるにも関わらず、
子供らしい純粋さはもうどこにもない。
ナーラはカビの生えたパンのために
狡猾で残虐になっていった。
彼女の人生は、
冷たくて暗い深海のようで、
いつどこで誰に殺されるかわからない。
そのため、ナーラはいつだって
息を潜めることしかできなかった。
誰かが救いの手を差し伸べてくれるなんて
思ってもいなかったし望んでもいなかった。
ソニアが現れるまでは......。
【2】
いつの間にか、
腕の傷口に海水が染みる痛みが和らぎ、
柔らかい感触を感じるようになる。
ナーラは目を開けようと力を入れたが、
どんなに瞼を上げようとしても
かすかな光しか見えない。
だが、その光がだんだんと見覚えのある
形に変わっていったのだった。
ソニアがナーラに差し伸べた手だーー
2人の出会いは、
暗い路地で盗みを働いている最中だった。
同じ孤児であるソニアは、
ナーラと出会う前からスラム街を
彷徨っていた。
彼女は聡明な頭脳の持ち主で、
利益を得るために
あらゆる知識を身につけていたのだ。
ナーラと比べると
身体能力が劣るソニアは、
捕まって殴られ、その場で死んでしまう
という可能性があった。
そのため残虐で横暴なナーラより
慎重に動いていた。
ある日......
お腹を空かせたナーラは、
ラスティーアンカーのパン屋に来ていた。
限界を越えた空腹は、
彼女の判断力を大いに狂わせた。
焼き立てのパンの香りが
厨房の隅に隠れていたナーラの
鼻孔をくすぐった瞬間、
ナーラはパンを奪い取る衝動に駆られる。
この腐った港町では、
カビが生えたパンでさえ孤児にとって
貴重なごちそうなのに、
目の前にはどんなに欲しても
手に入れることのできなかった
焼き立てのパンがあるのだ。
ソニアが初めてナーラと会った時、
彼女はパン屋の店主に踏みつけられ、
体が血と泥にまみれていた。
こんな光景に慣れていたソニアは、
店主が見知らぬ少女を
𠮟りつけて気を取られている間に
何か盗ってやろうと思っていた。
だが、ナーラと目が合った瞬間、
彼女は考えを変えた。
ナーラの目は、
助けを求めているかのようにも見えたし、
人生を諦めたくないという
強い意志があるようにも見えた。
悔しさと絶望の入り混じった
複雑な眼差しだったのだ。
ソニアはパンを焼いている釜から
まだ燃えている豆炭をこっそり掻き出し、
路地裏の廃木材に投げ入れた。
突然立ち上がった煙に驚いた店主は、
慌てて火消しに行く。
その隙にソニアは、
焼き立てのパンを盗って虫の息だった
ナーラを担いで逃げたのだった。
暴力と犯罪に満ち溢れた
ならず者の楽園である
ラスティーアンカーでは、
弱みを知られることはとても危険だ。
だが、ナーラは最も弱っている姿を
ソニアに見られてしまったのだ。
(もしかしたら殺されるかもしれない......)
そんなことが頭をよぎりながらも、
誰かが自分の弱さを見て
手を差し伸べてくれることを
ナーラは心のどこかで期待していたようだ。
これまでずっと
1人で暗い路地を彷徨っていたナーラは、
自然と口を開く。
「ねえ......一緒に行動しない?」
せめて本当の自分が俊敏で、
殴られてばかりの
弱い女の子ではないことを
ソニアに証明したかったのだ。
2人の絆は出会った日から深まっていき、
やがてナーラとソニアは
『ブラッディー・マリー』を設立する。
ナーラにとっては、
その場所が心の拠り所となった。
ソニアのもとに帰れば、
いつでも冷えた魂を癒やす温かい手が
待っていると信じて......
ナーラは命の灯火が消えかける時、
自分が結局運命に逆らえない弱者だと
悟った。
その時の彼女は、
差し伸べられた手を
掴むことさえできなかったのだーー
【3】
ナーラはもう痛みを何も感じなくなり、
瞳に宿る最後の輝きも褪せていった。
彼女が見ている光景は、
すべて死に際に見る幻にすぎないことを
最初からわかっていたーー
今回の出航前、
ナーラとソニアは激しい口論を繰り広げた。
2人の主張は平行線で折り合いがつかず、
とうとうナーラはソニアの腕を振り払い、
ドアを壊して外に飛び出していった。
それが2人の最後の会話だ。
ナーラはソニアの『偽善』を
理解できなかった。
賢い人の考えは、
本能でしか生きていけない無謀な人間には
わからないかもしれない。
ナーラがソニアをいつも
頼りにしていたのは、
ソニアの知略と決断力が数々の脅威から
『ブラッディー・マリー』を守り、
退けていたからだ。
ソニアは『ブラッディー・マリー』の
ためならなんでもしてくれると
信じていたのだ。
だが今回、2人の意見は分かれた。
ソニアはナーラによく、
現状に甘えるなと忠告してきた。
組織のために彼女たちは
多くの犠牲を払ってきたのだ。
いつも全身に傷を負うナーラ、
利益を得るために眠れない日々を送る
ソニア。
組織のために、身寄りのない孤児のために、
家族のために......
だが、2人が守ろうとする人々からすれば、
それは独裁と残忍に見えたのだ。
裏切り者の処置をめぐる2人の口論は、
『ブラッディー・マリー』が
苦境に立たされていると同義であることを
ナーラはわかっていたのだったーー
(アタシがもっと強ければ......
裏切り者たちが
『ブラッディー・マリー』に
手出しできないようにできたはず......
そうすればすべて元通りだったのに)
自分の体が沈んでいく海の中で
何度も後悔した。
だが、その時間は終わりだ。
ナーラは目の前が真っ暗になり、
潮に引きずられて海の底まで沈んだ。
命が終わりを迎えようとした時、
ナーラは突然
『ブラッディー・マリー』の存続も
裏切り者のことも
どうでもよくなってしまった。
ラスティーアンカーに......
『ブラッディー・マリー』に......
ソニアのもとに帰って、
冷えた魂を温めてほしい......
ただそれだけを願ったのだったーー
【4】
「眠りし殺戮者よ、お前は生まれ変わる。
殺戮と略奪を恐れず我に仕えるのだ。
そうすれば永遠の命を与えてやろう」
時が経ち......深海に響く囁きが
海底に眠る冷たい魂を目覚めさせ、
虚無の闇がナーラの視界を覆った。
長い間、海の底で潮に揺られながら
沈んでいた彼女にとって、
その声は手足を再び動かそうとする力を
持っているように感じた。
かすかな光が差し込み、
ナーラの瞳に輝きが戻る。
だが、その光は朽ち果てた彼女の体と
同じように腐りきった色をしていた。
『帰りたい』というナーラの渇望が、
死の世界の主を引き寄せたようだ。
何か企みがある声としか思えなかったが、
彼女は迷わなかった。
何十日もの夜を
海の底で過ごしたことにより、
記憶が散り散りになってしまったが、
ラスティーアンカーという場所に
自分の帰りを待っている人がいることは
覚えていた。
永遠の命に対する代償があるのか
ないのかなんてナーラは気にしなかった。
願いが叶うのなら
すべてを捧げてもいいと思ったからだ。
「自分の居場所に帰るがよい。
死から生まれた喜びを
その身で感じるのだ」
岩礁によって砕かれた腕や、
朽ち果てた体がもとに戻り、浮上していく。
海面に近づくと、
日差しが暗い海水を突き抜け、
ナーラの冷え切った体を照らした。
ふと懐かしい面影が海面の向こう側に
ぼんやりと映っているように見える。
よく知っているような、
知らないような手が
差し伸べられているような気がした。
ナーラは迷わずその手を掴もうとした。
だが、そこには何もなかったーー
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