ノア史

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序章.先史時代

ノア人の起源について学者によって主張が分かれるが現在の定説はセントラル大陸南部のテス山脈あたりに居住していたゴベダ人がなんらかの理由で移住したのが始まりであるというもので、その根拠にゴベダ人の信仰していた神々のうち主神である雷神テ・サルンの名がノア西部テサローン地方に残っていることやノア人の最も有名な身体的特徴の一つである耳垂が短いことが一致するなどが挙げられている。だが、これらはいずれも決定的な証拠にはなり得ず研究が続けられている。

 

1章.三国時代

三国時代

DT.2〜6年頃、セントラル大陸とその周辺は戦国時代の国家乱立による混乱にあったがノア地方もその例外ではなかった。この地では北部の有力貴族ミケ家が治めるミケランディ公国、東部のクルアーン家が治めるクリテディア王国、そして西武の聖バジナ神を信奉する宗教国家聖テサローン王国が睨み合う三国時代が続いていた。このうち聖テサローン王国は先述のゴベダ人文化の影響を色濃く受けていると思われており他の二国との対立も顕著である。

 

第二次ノバーナ川の戦い

DT.9年11月にミケランディ公国の公ミケランディ三世が行った増税に市民が反発したことから起きた増税公一揆を好機と見た15代クリテディア王クルアーン一世は一揆の首領サンディ・ノバーナと密約を結んでノバーナを味方に引き入れた。ミケランディ国民の圧倒的な人気を得ていたノバーナがクリテディアの味方となったことでミケランディ軍は戦意を喪失し同年12月の第二次ノバーナ川の戦いでミケランディ公国はなす術なくクリテディア軍に敗北した。クルアーン一世はミケランディ城に入城してミケランディ公国の滅亡を宣言し伝説上の国家と同名の「ノア王国」と改め自国が正当なノア地域の支配者であると内外に示した。

 

ケミスティズム

この頃トスターの森を含むノア地方北部の神秘的文化と海に面し古くから貿易によって栄えた東部の理性的学問の融合が起こりケミスティズムと呼ばれる神秘的事象と距離を保ちつつもこれを人の力によって導き出そうという譲歩的でありながら科学を目指すという特異な運動が行われた。この運動によって培われたノア人の科学と伝統を等しく好む精神は現在のノア文化を支える基盤となった。

 

緩衝地同盟

ノア王国と対立状態にあったヤノサト王国はミケランディ公国陥落によって緩衝地帯を失ったことに危機感を強めトスター沖の殺害などもあって一時両国の関係は悪化した。ノア王国の外務卿パミコルケンをは使者をヤノサト王国に送り旧ミケランディ公国東部のトスター地方の領土権の放棄を引き換えにヤノサト王国のノア王国における援軍派遣の許可と相互内政不干渉を求めた。同時に北海帝国の動きを警戒していたヤノサト王国はこれに同意しDT.11年1月、両国は緩衝地同盟と呼ばれる同盟を結んだ。

 

テサランタの戦い

大国を味方につけたノア王国はいわゆるパミコルケンらが編纂した人間国家宣言(DT11.1.30)で政教分離を唱え聖テサローン王国を非難した。その後ノア王国は邪教根絶を理由にDT.11年5月、テサランタの戦いを起こして聖テサローン軍との戦闘を開始しこれに勝利した。これから一月後に聖テサローン王国は全ての領土を失って名実ともに滅亡し三国時代は終わった。

 

2章.宰相時代

十聖徒事件

統一の成功は新たな混乱を生んだ。聖テサローン残党の十聖徒同盟はノバーナの密かな支援と指示によりDT.11年8月の第一回統一祭でクルアーン一世を暗殺した。ノバーナは王の親衛隊を指揮して十聖徒同盟を征伐し指導者ガメシュを晒し首にした。この一連の出来事を十聖徒事件という。

 

宰相ノバーナ

十聖徒事件によって存在感を強めたノバーナは若年を理由に皇太子クリルに国政の権利を譲渡させて宰相に就任した。彼は宰相就任後のDT11年2月、国内に残る旧国の残党の脅威を理由として友好関係にあったエリモザキ公国にクリルを移し、さらに神聖党の獄と呼ばれる粛清を行なってパミコルケンなどの功労者を含む反対派を多数処刑し政権を簒奪した。

 

ノア=マレネオ海戦

またノバーナは宰相就任の2年後のDT13年に虐殺行為が行われていることを理由にマレネオ国に宣戦布告し両国間で戦闘が開始された。これをノア=レネオ海戦という。当初、兵力で勝るノアは破竹の勢いであったが被虐殺者に人権が認められず虐殺行為を認めないという主張が両国の民衆の間で広がったためノア王国は正統性を失いマレネオ島攻略から撤退した。この海戦は形式上、敗北に終わったがノア王国は世界に自らの国力を誇示することに成功し、のちに大国の地位に躍り出る契機となった。またノバーナはこれを機に外交権・軍事権を完全に掌握し独裁的体制は一層強化された。

 

このようにノバーナは独裁や粛清、対外戦争などを行い国を疲弊させたがノア王国の統一と発展を扶けた一面もあるためその評価は分かれている。

 

 

3章.第二王朝

ノバーナの失脚

DT.24年、世界評議会連合第一回評議総会でエリモザキ王・マレネオ王が合同してノバーナを大義なき戦争の計画者として後に三王の異談と呼ばれる糾弾を行った。その後の主国会で彼は弁明を行ったものの交通の要衝を抱えるエリモザキとの関係重視やノア王国の膨張への恐れなどから、いずれの国も取り合わなかった。そうして批判が集まり立場を危うくしたノバーナは北海帝国が民衆を扇動したことを発端とする反対運動も活発化しノバーナは退任を余儀なくされた。

 

第二王朝の成立

クリルは国に戻りクルアーン二世として即位したがノバーナは「影の宰相」として未だ君臨していたためクルアーン二世は市民の支援を受けてDT.25年1月、ノバーナを捕らえ処刑した。これにより王権が復活した。

 

クルアーン二世の治世

クルアーン二世は王国再建を謳い旧聖テサローン王国と王都を繋ぐ輸送路の整備(後の四つ角街道)、有能な下級貴族や平民の登用(この時旧聖テサローン王国の臣も多数登用された)、裁判の基準を定めたクリル法典の作成など開明的政策を行なった。

 

4章.クルアーン三世の大洋政治

ジャコウ・カザトスの乱

DT51年、ニュヤックの反乱で土地を失った領主の配下や大寒波で土地を失った農民が冒険者・ギルド制度の制定による混乱に乗じて蜂起し、ケルアンディを一時占拠した。クルアーン二世は病に侵され指揮を取れる状態でなかったため、甥のエイナールを臨時職の護民官に任じて指揮に当たらせた。反乱軍の勢力は王国の北部の全域を飲み込むほどであったが、王国軍は間者を使った情報戦術で団結力の乏しい反乱軍を撹乱し、半年で反乱を治めた。これをジャコウ・カザトスの乱という。

乱後、エイナールは摂政となり、DT54年にクルアーン二世が没するとクルアーン三世として即位した。

 

クルアーン三世の大洋政治

クルアーン三世はトミール〜パミール間に四つ角街道に沿う蒸気機関車の路線を開通する(71年)、各地に王立医療所を設置する(68年)、鉄鋼生産の推進などで雇用を創出し国民の信頼を得た。

こうして国力を増強する傍ら、クルアーン三世はかねてよりサリー島に攻め入る機会を窺っていた。元娼婦で側室としていたイザベラを家臣の娘と偽って好色で知られるセロ朝のジロールと非公式に婚約させた。イザベラは男児ウェストヴィレッジを産んだが、ジロールが没して正室の子で嫡男のフランジが即位することとなったため、DT71年、ノア王国は反発し将軍ケイオスの指揮する十万の軍勢をサリー島に送った(マーヴリッツ後継者戦争)。ノア軍は各州を降伏させつつ侵攻してDT74年にケイオスはリール川でセロ朝の主力軍に勝利し、フランジを打捕し勝利した。

クルアーン三世はセロ朝を廃してノア=セロ朝を開きヴィストヴィレッジを即位させた。

 

 

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