ファイブ・センチネルの歴史

ページ名:ファイブセンチネルの歴史

ファイブ・センチネルの歴史

先史時代

サリー島に渡った最初の民族についての通説は2つあり、1つはノー大陸のカナン語系ナリファ人が南下して定住したとする説、2つは土着のアス語系リムタ人が海面水位の上昇により南西大陸と切り離されて定住したとする説である。

文字史料が存在しないため詳しいことは未だわかっていないが、ニューサウスキタ沖からリムタ人のものとみられるヤルス(オリーブやブドウを保管しておくための陶器)が発掘され、現在は後者の説が支持されているようである。

英雄ガイウス

小規模集落の係争地であったサリー島南東部ハイエ地方で生を受けたガイウスは、天賦の軍才とカリスマで瞬く間にハイエを統一、弱冠22歳にしてサリー島初の単一王朝となるセロ朝を開いた。

ガイウスの治世を褒め称えた年代記の一節をここに紹介しておこう。

 

「その大君(註:ガイウス)、勇猛さにかけて虎に劣らず、慈愛の心は大海のように広い。大君の治める都は壮麗かつ活気に溢れ、民は彼の凱旋を心待ちにし、臣はその畏敬の目を彼に向けるのである」(『王たちの書』、ヴィロド著)

 

その後も破竹の勢いでサリー島の統一を進めるガイウスであったが、北西に位置する港市都市ホルムスを征服しハイエの居城に帰還した日の夜、何者かに刺殺されこの世を去る。

この暗殺事件の首謀者については現在も歴史家の間で熱い議論が交わされているが、遠征を続け内政を疎かにしがちだったガイウスに密かな不満を抱く者は多かったことだろう。

ともあれ、王を失った家臣たちは慌てふためき、国内は混乱の渦に飲み込まれた。ガイウスには3人の嫡男がいたが、取り急ぎ玉座にについた長男のエバンスは

 

「彼の王(註:エバンス)は、その愛娘を突如として王宮の池に投棄したのであった」(『欽定国記』、著者不詳)

 

と後世の年代記が正直に記しているように重大な精神障害を持ち、まともに政務を執行できるような状態ではなかった。

家臣たちは仕方なく彼を廃位し、棚ぼた式に次男のカムランが玉座についた。末子のマグダラは地方の軍政官を任された。

改革

「北はホルムスまで、南はタイレル(ハイエ地方南部の都市)まで」と呼ばれるほどの広大な版図を引き継いだカムランの使命は、専ら内政であった。彼は在位期間の14年を統治機構の改善と民衆の生活水準向上に費やすことになるのである。

カムランが最初に行ったのは税制の確立であった。彼はその領地を8分割し、それぞれを州として軍政官に治めさせた。さらにこの州を細かく分割し、郡として騎士に与えた。土地を与えられた騎士は在郡騎士と呼ばれ、支配下の郡に属する農村から徴税する権利を得た。

徴税権を持つ騎士たちは農村の収穫の一部を税として取り立て、州の軍政官へ上納する。軍政官はその農作物を換金、貨幣として中央政府に送る、というシステムである。この税制機構はDT暦129年にセントラル大陸にて通貨統一法が可決されるまで続いた。

これに伴って行われたのは全国的な土地調査であった。郡ごとの税収入と資源の状況が調査され、「ワンダウン・ブック」と呼ばれる台帳に整理された。これは当時の農村の生活を知る貴重な史料として現存している。

紛争

領内の安定のために心血を注いだカムランであったが、後継者に関して彼は大きな火種を残していた。即ち、正式な後継ぎを指名せずにその生を終えたのである。

カムランの正室は生涯を通して男子を産まず、彼が死ぬ直前に側室の一人が産んだアラムダスという名の男児は若すぎ、家臣団は彼の弟でタルタ州の軍政官を務めていたマグダラを擁立しようとしたが、これにアラムダスの後見人であったベルガ州(サリー島北西部)軍政官ニールズが反対。後継者問題が勃発した。

ニールズの思惑はアラムダスを傀儡化してその実権を握ることであり、セロ家の王族や王家を古くから支える重臣たちは当然これに対抗した。当のマグダラは平和的な解決を望んでいたようだが、彼の取り巻きは断行の様相を呈し、ニールズの処刑も辞さないといった態度であった。

当初は圧倒的な支持を受けたマグダラ派の勝利で終わるかと見られていたが、ニールズには軍政官時代に築いた広い人脈があった。彼はそれを利用し隣国のマレネオに接近、ヴゥンコ家を後ろ盾としてマグダラ派に抵抗の姿勢を見せた。

これに危機感を抱いたマグダラ派の宰相ギリアンはアイモク共和国に協力を要請したが、伝統的に平和主義であったアイモクの政府は他国のしがらみに関与するのを避けるため要請を拒否。これを好機と見たニールズはマグダラ派に宣戦布告した。

DT暦12年、オリエントブルー・マレネオ国沿岸にてマグダラ派の将軍ムーファスの艦船とヴゥンコ家の商船が衝突、すぐさまニールズの艦隊とマレネオ本土からの戦艦が駆けつけ一大海戦に発展した。元来海上貿易で栄えていたマレネオ国の海軍力の前にムーファス隊は為す術もなく完敗し、ムーファス以下64人の乗組員が捕虜として捕らえられる。

ギリアンは捕虜の返還と引き換えにベルガ州の全てをアラムダスの領地とするベルガ公国の成立を認可。ニールズはアラムダスをベルガ公アラムダス1世として擁立、自らは宰相の位につき、後継者紛争は一先ずの解決を見た。以後、サリー島には実質的に2つの国が分立することとなる。

海の時代

アラムダスの即位から間も無く、セロ朝とベルガ公国の間に和約が結ばれ、2国の境界に存在するソリオ州が緩衝地帯となった。長い安定期の始まりである。

戦争の終結と共に繁栄の兆しを見せたのは商業であった。商人たちはマレネオから得た造船技術を駆使し、新たな販路を求めてオリエントブルーに乗り出した。

以前から交流を持っていたマレネオ国は言わずもがな、ジャポン・アイモク共和国・ヤノサト王国・ノア王国にまでサリー島の商人が影響力を持つようになり、本土の定期市には多種多様な舶来品が並び、サリー島の経済は空前絶後の興隆を迎えることになった。

これを看過しなかったのはジャポン沿岸で活動していた海賊たちである。彼らは以前からジャポンやアイモク共和国の商船を襲い略奪行為を繰り返していたが、サリー島商人の進出により海上貿易が活発化したことで彼らの活動もより一層広がりを見せた。

当時のベルガ公国宰相を務めていたピルキスは早々に対抗策を打ち出した。マレネオ・ベルガ公国・ジャポン3国の海軍から成る混成部隊を結成し、これを海賊の鎮圧に充てようとしたのである。これには貿易に関するベルガ公国の優越をジャポンに認めさせようとするピルキスの思惑が絡んでいた。

海賊を全てオリエントブルーから追い払うには至らなかったが、略奪被害を受けた商船の数は混成部隊の結成以前に比べて激減していた。退去を余儀なくされた海賊の一部は北海帝国沿岸に渡ったようである。

ジャポンは部隊の宗主であったベルガ公国の貿易に関する優越を認め、結果的にベルガ・マレネオの両国がジャポン販路を独占、アイモク共和国とセロ朝の船はジャポンの港から強制的に退去させられた。領土の広さでセロ朝に劣っていたベルガ公国であるが、経済力に関してはこの時点でセロ朝を越した。

中洋化

経済的にめざましい発展を遂げたベルガ公国と時を同じくし、セロ朝においてもある種の変革が起ころうとしていた。マグダラの死没を受けて即位した嫡男ジロールが宰相を罷免し、親政を開始したのである。

この突飛とも思えるジロールの行動には当時のセントラル大陸の情勢が大きく関わっている。ヤノサト王国国王ドメシタン=テンキスト・サトールが強大な影響力をしてセントラル大陸全土を牛耳り、その余波がサリー島にも届いてきていたのだ。

ジロールは宰相の罷免から間もなくノア王国の高級官僚であったロールザンヌを招聘、大法官の地位を与えて厚遇した。ロールザンヌに任されたのは地方法令の整備と慣習法の成分化であった。

DT暦59年、セロ朝初の地方法令集が制定される。これによって州軍政官及び在郡騎士の徴税活動を監視する役職(地方書記官)が確立され、軍人の権限が抑えられて王権が更なる強化を受けた。

セントラル大陸に倣って中央集権化を推し進める活動のことを「中洋化運動」と呼ぶが、ジロールの行なった改革は正にその典型例であった。これを契機とし、ジャポンを除くオリエントブルー全域に中洋化の波が広がっていくことになる。

内乱

ジロールの覇権はそう長く続かなかった。中洋化を快く思わない者たちの反発を受け、彼の治世の後半はその鎮圧のために費やされることになるのであった。

DT暦64年、ハイエ州テリアス郡を治めていた下級騎士マニフスが配下の私兵と農民を率いて蜂起。テリアスに隣接していたサロワ郡及びキンメリア郡の在郡騎士もこれに共鳴し、サリー島史上最大の反乱に発展した。

ハイエ州は全国8ヶ州の中で最も王の影響力が強い地域であったため常備軍の到着は素早く、鎮圧も時間の問題かと思われたが、ハイエ州の軍政官であったリッチモンドが私兵団を連れて反乱軍に加わったことで状況は一変、常備軍は窮地に立たされた。

焦ったジロールはハイエの北にあるセリア州に援軍を要請するなど打開策を講じたが叶わず、反乱の規模は日増しに拡大し、約90日間に渡る死闘の果てに常備軍は壊滅。結果的にハイエ州は反乱軍の手に落ちた。この反乱の最中、反乱軍が農村を襲う→土地を失った農民が反乱軍に加わる、といった負の連鎖が頻発しており、これも内紛を長期化させた理由の一つであると考えられている。

この反乱の原因は主に2つあった。1つは地方に駐在していた軍人の影響力が中洋化改革に伴う王権の強大化によって低下していたこと、2つは領内の情勢が安定したことで戦争が減り、騎士の活躍の場が減っていたことである。

セロ朝で巻き起こった混乱を見逃さなかったのは、他でもなくベルガ公国であった。アラムダス1世の座を継いだアラムダス2世は和約を一方的に破棄しソリオ州に侵攻、約40年間に渡って守られていた均衡状態はついに破られた。

セロ朝の常備軍は反乱の鎮圧に忙殺され疲弊しきっており、まともな戦闘も行われないままソリオ州は降伏、続いてその東に隣接していたタルタ州もベルガ公国の版図に加えられることになった。

兵糧の不足を理由にしてベルガ公国は一旦兵を引いたが、態勢を立て直し再び攻めてくることは明白であった。そこでジロールは大法官ロールザンヌのコネクションを利用してノア王国に援軍を要請、約20万の兵力がノア王国本土から届けられた。

DT暦71年夏、ベルガ公国はセロ朝への侵攻を再度開始するが、ノア王国から到来した大軍に苦戦。軍事技術の差も浮き彫りになりベルガ公国軍は屈辱的な敗北を喫した。アラムダス2世はタルタ州の返還を取り決めた和約に調印し、セロ朝の内外紛争は決着した。

帝王の誕生

ようやく領内の安定が復活したかと思われたが、ジロールは例によって後継者の指名を行わずに死亡。これはセロ朝滅亡の要因の一つとなり、またサリー島に新たな風を吹かせる契機にもなった。

ジロールの正室は2人の男子を産んでから若くして死に、長男のフランジが後を継ぐとみられていたが、ここで問題が勃発した。ジロールはあろうことかノア王国国王クルアーン3世の王妃であったイザベラを正室として再婚し、その間に1人の男子を残したのである。その男こそ、後に「帝王」と崇められることになるウェストヴィレッジであった。

本来ならイザベラとの婚約は不正であり、ウェストヴィレッジは婚外子扱いで平常通りフランジが玉座につくはずであったが、ウェストヴィレッジを通じてセロ朝に影響力を持ちたいと考えるクルアーン3世がこれに反発。それは後継者戦争の始まりを意味していた。

クルアーン3世は早々にノア王国軍をサリー島本土へ上陸させ、港湾都市の集まるミーグ州を攻略して橋頭堡を確保。その勢いを保持したままタルタ州を降伏させた。

ジロールはベルガ公国のアラムダス2世に挟撃の提案を持ちかけたが、先の戦争でノア王国の軍事力を思い知っていたアラムダス2世は沈黙を決め込み、交渉は失敗に終わった。

DT暦74年、ノア王国の将軍ケイオスはセリア州リール川流域にてフランジが直々に率いるセロ朝常備軍と対決。若く軍事経験の浅いフランジはケイオス軍に翻弄されハイエ州のマーヴリッツ城に撤退。これによってセロ朝の敗北は決定的となった。

同年にケイオスはマーヴリッツ城を包囲、フランジとその弟メリスを含む計134人を捕虜としてノア王国本土へ連れ帰り、後継者戦争はノア王国の圧倒的な勝利で完結した。

クルアーン3世はセロ朝を廃してノア=セロ朝を開き、ウェストヴィレッジをウェストヴィレッジ1世として即位させた。捕らえられたフランジとメリスが再びサリー島の土を踏むことはなかった。ノア=セロ朝の開幕は、同時に帝王の覇道が始まった瞬間でもあった。