「Googlemap」を含むwiki一覧 - 2ページ

小用港(戦艦榛名終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

小用港「江田島の玄関」と呼ばれる江田島中部にある港広島市から海上約7.5km、呉市からは海上約6kmと広島市と呉市の中間に位置する港です。江田島は倉橋島にある音戸大橋と早瀬大橋を経由すれば本州と陸続きになりますが、広島市や呉市街地から見るとかなり遠回りになるため旅客船を利用する人

海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団)海兵団とは海軍に入隊した新兵を教育する施設現在の海上自衛隊呉教育隊は太平洋戦争終戦まで『呉海兵団』と呼ばれる海軍の教育施設でした。呉海兵団の歴史は古く、明治22年の呉鎮守府開庁と同時に『呉鎮守府海兵団』として創設されました。翌明治23年に海兵団内に

両城の200階段 - 呉市周辺の遺構まとめ

両城の200階段呉市の隠れ名所明治22年の呉鎮守府開庁以来、呉市の人口は増加の一途をたどり最盛期の昭和18年には広島市を超えて40万人に達しました。しかし、坂の街ゆえ平地部分は海軍施設や行政機関などの建物が占めており、市民の多くはこのような急傾斜に住宅を建てて生活していました。こ

呉市戦災遭難者供養塔と和庄防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉市戦災遭難者供養塔寺西公園にあります。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲で亡くなった人を供養する地蔵尊です。第二次呉軍港空襲は市街地へ爆撃が最も大規模に行われた空襲で、呉市は火の海となり民間人だけでも約2000人が亡くなりました。ほとんどの人は防空壕に逃げ込みましたが、太平洋戦争

重極湾(巡洋艦北上終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

重極湾(巡洋艦北上終焉の地)巡洋艦北上は佐世保鎮守府所属の球磨型軽巡洋艦3番艦として大正時代に就役し、太平洋戦争直前に魚雷での戦闘を得意とする重雷装艦に改装されました。しかし、太平洋戦争は空母や航空機による航空戦の時代となり、前線で活躍の機会もなく輸送や護衛任務に従事しました。太

中町港(巡洋艦利根終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

中町港(巡洋艦利根終焉の地)巡洋艦利根は横須賀鎮守府所属の利根型重巡洋艦の1番艦として昭和13年に就役しました。巡洋艦利根は水上機での索敵を得意する重巡洋艦で、太平洋戦争緒戦の真珠湾攻撃から索敵で活躍した功労艦でした。戦争末期の昭和20年3月、南方での激戦から帰還し練習艦磐手他の

三津防空監視哨跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

三津防空監視哨跡東広島市安芸津の正福寺山公園にあります。三津防空監視哨は、防空法が制定された昭和12年8月(日中戦争中)という広島県内の防空監視哨としてはかなり早い時期に作られた防空監視哨です。世羅にある甲山防空監視哨と同じ尾道防空監視隊所属でした。当初は三津町役場に設置されてい

東郷平八郎邸跡と東郷坂 - 呉市周辺の遺構まとめ

東郷平八郎邸跡明治23年から明治24年まで呉鎮守府参謀長として呉に在任していた東郷平八郎が住んでいた邸宅跡です。現在は空き地となっています。また、石造りの基礎がありますが東郷平八郎邸のものなのか不明です。離れ座敷離れ(はなれ)とは一定の広さを持つ屋敷にある付属建物。母屋とは別にあ

瀬野機関区跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

瀬野機関区跡瀬野機関区は明治27年の山陽本線開通当初から置かれた機関車の操車場瀬野駅と八本松駅の間には22.6%(1kmの間に22.6mの高低差がある)という全国屈指の急勾配(通称「セノハチ峠」)があり、開通当初の蒸気機関車ではパワー不足で峠を登りきれませんでした。特に重量のある

空鞘稲生神社と空鞘町防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

空鞘稲生神社空鞘稲生神社(そらさやいなおじんじゃ)は太田川沿いにある神社空鞘稲生神社は天文年間に創建された五穀の神を祀る神社で、戦国大名の毛利輝元からも厚い崇敬を受け社領を授かったという由緒ある神社です。大正8年に社殿を新改築した際は南舟入・中島(現在の広島平和記念公園)・吉島の

広島大学旧理学部1号館(旧広島文理科大学本館) - 呉市周辺の遺構まとめ

広島大学旧理学部1号館(旧広島文理科大学本館)東千田公園にある被爆遺構当初は広島県初の大学である広島文理科大学の本館として昭和6年に竣工しました。竣工時は鉄筋コンクリート造3階建てでコの字型の建造でしたが、2年後の昭和8年に増築されヨの字型になりました。また、現在の東千田公園と近

広島大学医学資料館(旧広島陸軍兵器支廠) - 呉市周辺の遺構まとめ

広島大学医学部(旧広島陸軍兵器支廠)広島市の『陸軍三支廠』の1つ。兵器支廠とは陸軍の武器・弾薬を保管する施設です。陸軍兵器支廠といえば大学病院というイメージが強いですが、実際は現在の広島大学付属病院・段原中学校・中国四国管区警察学校の3つを合わせた敷地が当時の陸軍兵器支廠で、広島

海上挺進戦隊戦没者慰霊碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

海上挺進戦隊戦没者慰霊碑江田島と言えば海軍のイメージですがここ幸之浦に陸軍海上挺進隊の訓練基地がありました。海上挺進隊は元々は海上輸送を行う陸軍船舶隊から派生した部隊ですが、太平洋戦争末期になると戦局の悪化から直接戦闘を行う部隊となり名前も海上挺進隊と名付けられました。ここには陸

大竹海兵団跡之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

大竹海兵団大竹海兵団は太平洋戦争直前の昭和15年に設立された海軍の新兵教育組織呉鎮守府の新兵教育組織である海兵団は、すでに呉海兵団がありましたが国際情勢の緊迫化を受け、兵力増強のため兵員養成地の拡充が決定されます。昭和14年に大竹市が海兵団設置の候補地にあがり、誘致に非常に積極的

石内浄水場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

石内浄水場跡「呉市で一番高い山」こと野呂山のふもとにある浄水場で『呉鎮守府水道』の1つ太平洋戦争末期になっても広海軍工廠と第11海軍航空廠の工業用水は不足しており、二級ダムから広海軍工廠と第11海軍航空廠への送水量増強のためここ石内に浄水場が造られました。石内浄水場は鬼坂調整池と

鷹ノ巣山高砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

鷹ノ巣山高砲台跡広島県廿日市市にある日本三景の一つ『安芸の宮島』有名な厳島神社の南東(島の反対側)に標高194mの鷹ノ巣山があります。ここには明治33年に陸軍が外国艦隊迎撃のために築いた広島湾要塞の1つ、鷹ノ巣山砲台がありました。鷹ノ巣山砲台は宮島と大那沙美島の間にある那沙美瀬戸

旧岩国陸軍燃料廠 - 呉市周辺の遺構まとめ

岩国陸軍燃料廠岩国陸軍燃料廠は山口県岩国市と玖珂郡和木町の沿岸部にあった陸軍の燃料基地岩国陸軍燃料廠は太平洋戦争直前の昭和14年に創設された陸軍燃料廠によって作られました。陸軍は昭和14年の時点で日中戦争開戦からすでに2年経過しており、長期化する戦争のため燃料の安定供給と管理体制

メニュー - 無料レンタルWiki3(うぃきさん)のガイド

ト追加)を指定 プラグインリファレンス【外部サービスの表示方法】 ニコニコ動画 YouTube Twitter インスタグラム Gyazo GooglemapWIkiモード 利用できるWiki構文 利用できるWiki記法リスト 用途別記述例WikiDB WikiDBとは Wiki

金輪島 - 呉市周辺の遺構まとめ

金輪島広島湾に浮かぶ小さな花崗岩の島人口60人程度の非常に小さな島ですが、陸軍の兵站拠点である宇品港から近いことから似島と同じように陸軍の島でした。金輪島は江戸時代に入植され蠟の栽培や蠟燭の生産などが行われた小さな島でした。明治27年(日清戦争の年)に陸軍が島を買収し輸送や揚陸な

宇品波止場公園(旧陸軍桟橋) - 呉市周辺の遺構まとめ

宇品波止場公園(旧陸軍桟橋)陸軍桟橋は明治35年に建設された軍用の突堤明治22年に築港された宇品港は山陽本線・軍用鉄道宇品線と接続されていることもあり日清・日露戦争を契機に陸軍の一大兵站拠点となりました。その宇品港から人員や物資を沖に待つ輸送船に乗せるために明治35年に建設された

臨時帝国議会仮議事堂跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

臨時帝国議会仮議事堂跡臨時帝国議会仮議事堂は広島市に作られた国会議事堂明治27年7月に日清戦争が開戦すると広島市は臨時の首都となりました。その広島市で帝国議会を開催されるために建設された仮設の国会議事堂で「東京以外に建設された唯一の国会議事堂」です。当時は通信技術が発達しておらず

牛田浄水場(旧牛田水源地) - 呉市周辺の遺構まとめ

広島軍用水道広島市はデルタ地帯(川の中心に砂が溜まってできる三角州)にできた都市で交通・海運の要所でありましたが、水道においては事情が良くありませんでした。海に近いデルタ地帯であるため、井戸を掘っても出るのは塩水ばかりで当初市民は川の水をそのまま飲んでいました。しかし、大雨が降れ

似島 - 呉市周辺の遺構まとめ

似島広島港の南3kmに位置する島広島市の島の中では最大の面積で人口も1100人と多く、島のシンボル的な山である安芸小富士(標高278m)が広島市内からでもよく見えます。また、同じ陸軍の島である金輪島より沖にあり広島市と江田島の中間に位置します。日清戦争の時に戦地から帰還した兵士か

比治山陸軍墓地 - 呉市周辺の遺構まとめ

比治山陸軍墓地比治山に戦前からある陸軍軍人の墓地明治の西南戦争から太平洋戦争までの陸軍軍人の慰霊碑や墓石約3500基があります。また、北清事変・北清事変・第一次世界大戦により広島市で亡くなったフランス人、ドイツ人、中国人も埋葬されています。「死んでも突撃ラッパを口から放さなかった

三坂地水源地 - 呉市周辺の遺構まとめ

三坂地水源地海軍が作った軍用水道『呉鎮守府水道』の一つ呉鎮守府水道の水源地としてはめずらしく、ダムではなく地下水を水源とするさく井型(井戸)の水源です。三坂地水源地は、大正10年の呉海軍工廠広支廠建設と同時にその工業用水の水源地として築造されました。当初、海軍はここに3つのさく井

江波山公園(江波山高射砲陣地跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

江波山公園(江波山高射砲陣地跡)江波山にある陸軍の高射砲陣地跡江波山はかつて『江波島』と呼ばれる広島湾の島でしたが江戸時代に干拓で埋め立てられ次第に陸続きとなりました。その後、明治31年に公園に指定され遊歩道が整備されました。昭和8年に決定した広島工業港構想の一環として江波山以南

休石砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

休石砲台跡休石砲台は明治時代に陸軍が広島湾要塞の1つとして音戸の瀬戸に作った砲台音戸の瀬戸に作られた砲台としては観光地として有名な高鳥砲台がありますが、休石砲台も高鳥砲台と同じく外国艦隊から音戸の瀬戸を防衛するため明治34年に建設されました。その後も同じく大正15年に廃止されまし

広島第二陸軍病院跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

広島第二陸軍病院跡第二陸軍病院は広島城を囲む陸軍施設の一つ広島市の陸軍病院の歴史は古く第五師団がまだ広島鎮台と呼ばれていた明治初期に『広島鎮台病院』として創設されました。広島城周辺には第一と第二の2つの陸軍病院がありました。第一陸軍病院は現在の基町の辺りに、第二陸軍病院はここ旧太

T       - 20202010a

・ここ此処(Page1)をEDIT━page2(予定ページ)・edit2━page2.5(旅行)━page4(メモページ)・edit4━━▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓ クラブツーリズムパス退会AI MontaEnglish KindleCloudReader ━メモWeb■学

長浜の地下壕口 - 呉市周辺の遺構まとめ

長浜の地下壕口(広海軍工廠第二十三号隧道・第二十一号隧道)黄幡山の南側にある地下壕口この地下壕口は、北にある広海軍工廠の地下工場で、空襲が激しくなった太平洋戦争末期に召集された女学生が中で航空機の部品を作っていました。壕口は全部で9つあり、現在は5つが現存しています。

広島平和記念公園 - 呉市周辺の遺構まとめ

原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)公園の北東端にある世界一有名な被爆遺構建設時の名前は『広島県物産陳列館』といい広島県の物産品の販売促進のため大正4年に建設されました。地上5階・地下1階・高さ25mと当時としては巨大な建物で、欧州風建築がめずらしかった広島市では完成当初から市のシン

市街地の被爆遺構 - 呉市周辺の遺構まとめ

旧広島県庁舎跡旧広島県庁舎は元々広島城内にありましたが、第五師団が設置される関係で明治11年に水主町(現在の加古町)に移転してきました。敷地面積約70000坪に及ぶルネサンス様式の木造2階建ての庁舎が作られ、明治43年には同じような西洋風の県議会議事堂も南に建てられました。昭和2

旧日本銀行広島支店 - 呉市周辺の遺構まとめ

旧日本銀行広島支店旧日本銀行広島支店は市街地にある被爆遺構元々は明治38年に水主町に開店した日本銀行広島出張所が、昭和11年に業務拡大のため日本銀行広島支店に昇格し新築移転してできた建物でした。広島市に残る貴重な戦前欧州風建築の一つで、外から見るとコンパクトに見えますが地上3階建

広島赤十字原爆病院(旧広島赤十字病院) - 呉市周辺の遺構まとめ

広島赤十字・原爆病院(旧広島赤十字病院)広島赤十字・原爆病院は昭和14年『日本赤十字社広島県支部病院』として開業しました。しかし、開業わずか3ヵ月で陸軍に接収され『広島陸軍病院赤十字病院』となりました。その後、太平洋戦争中の昭和18年に『広島赤十字病院』と改名します。昭和20年8

工兵橋と工兵第五連隊跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

工兵第五連隊跡旧太田川と京橋川の分かれるたもと白島公園にあります。現在の安田学園の辺りは太平洋戦争終戦まで工兵第五連隊の駐屯地でした。工兵とは土木・建築・通信など技術的作業で他兵種の戦闘を助ける兵種のことです。工兵第五連隊の前身は工兵第五大隊といい、陸軍第五師団所属部隊として大正

二河橋 - 呉市周辺の遺構まとめ

二河橋二河橋は呉の主要河川である二河川(にこうがわ)に架けられた橋当初は明治41年に木造橋として建設され呉市電の線路もこの橋の上を通っていました。しかし、二河橋は往来の激しい市街地の幹線道路であったため老朽化が早く、竣工からわずか24年後に現在の橋に架け替えられました。歩道部分の

三永水源地 - 呉市周辺の遺構まとめ

三永水源地東広島市の三永川にある『呉鎮守府水道』の1つ呉市からかなり離れていますがここも呉鎮守府水道の一つで呉鎮守府水道の中では最北の水源地です。昭和13年に慢性的な水不足に悩む呉市の水源として着工し太平洋戦争中の昭和18年に完成しました。作られた理由と時期が二級ダムによく似てま

海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)「江田島といえば術科学校」というほど有名な海上自衛隊施設イギリスのダートマス、アメリカのアナポリスと並んで「世界三大兵学校」と称される海上自衛隊の学校で、呉の海上自衛隊呉総監部と並んで映画のロケ地としてもよく登場します。歴史もかなり古く、前身

中国憲兵隊司令部跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

中国憲兵隊司令部跡中国憲兵隊司令部は広島市中心部の電車通りにあった陸軍の施設憲兵とは、陸海軍の兵科の1つで軍隊内の犯罪調査や風紀の維持、軍隊内の反戦運動の取り締まり等を行う警察のような組織です。また、戦時下には民間人に対しても軍事機密の保持や防諜のための取り締まりを行います。ここ

シビレ峠 - 呉市周辺の遺構まとめ

シビレ峠小用港と秋月の間にある峠峠なので見晴らしがよく対岸の呉市まで見渡すことができるため、太平洋戦争前は対岸の呉海軍工廠造船船渠で建造中の戦艦大和が見えたらしいです。余談ですが、地名の由来は「景色がしびれるほど美しい」ということからきてるそうですが恐らく俗説かと思われます。この

戸坂取水場(旧戸坂水源地) - 呉市周辺の遺構まとめ

戸坂取水場(旧戸坂水源地)太田川沿いにある水道施設で『呉鎮守府水道』の1つ戸坂水源地は呉市の慢性的な水不足を解消するため、広島県一の流水量を誇る広島市の太田川に海軍によって作られた水源地です。二級ダムと同じ太平洋戦争開戦の昭和16年着工ですが、こちらは1年遅れて昭和19年竣工とな

秋月(空母龍鳳終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

秋月(空母龍鳳終焉の地)秋月は江田島中部にある集落。位置的に呉海軍工廠の対岸にあります。空母龍鳳は横須賀鎮守府所属の潜水母艦として太平洋戦争前の昭和9年に就役しました。建造時点での艦名は潜水母艦大鯨といい、ロンドン海軍軍縮条約の影響で空母として建造されず「有事の際は空母へ改装でき

楠田(空母鳳翔終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

楠田(空母鳳翔終焉の地)楠田の瀬戸内海に面した湾の中が空母鳳翔の終焉の地です。空母鳳翔は横須賀海軍工廠で建造された空母で、起工時から航空母艦として設計された「日本海軍最初の空母」でした。昭和12年より呉鎮守府所属となりましたが、太平洋戦争開戦時にはすでに旧式化しており戦争中はほと

甲山防空監視哨跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

甲山防空監視哨跡世羅郡世羅町の今高野山にあります。ここには太平洋戦争に今高野山城跡の石垣を使って作られた防空監視哨がありました。甲山(こうざん)とは現在の広島県世羅郡世羅町の旧地名で太平洋戦争中はこの辺りは甲山町と呼ばれていました。昭和17年4月に日本本土に初めて空襲があったこと

九十九橋 - 呉市周辺の遺構まとめ

九十九橋九十九橋は海田市駅の近くにある瀬野川に架かるトラス橋昭和20年9月の枕崎台風で流失してしまった元の橋の代わりに山口県光市の光海軍工廠の廃鉄材を利用して造られた橋です。広島市の本川橋や呉の旧呉市交通局築地中央工場のように、終戦直後は鉄が貴重だったため海軍施設の鉄を再利用して

広島陸軍被服支廠跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

広島陸軍被服支廠跡南区にある『陸軍三支廠』の1つで広島市の被爆遺構の中では最大の遺構被服支廠とは兵士たちの軍服・軍靴・軍帽・ベルト等の被服一式を製造・調達・保管する陸軍の施設のことです。元々は明治38年に陸軍の軍服洗濯工場として建設され明治40年に被服支廠に昇格しました。また、軍

広島市郷土資料館(旧宇品陸軍糧秣支廠) - 呉市周辺の遺構まとめ

広島市郷土資料館(旧宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場)南区にある『陸軍三支廠』の1つ糧秣廠とは兵士の食糧・軍馬の餌・飯盒の燃料などを製造もしくは民間から買付する軍需工場のことで、明治30年に『陸軍中央糧秣支廠』としてここより南の宇品海岸通りに開業しました。その後、明治35年に『陸軍糧秣支

第11海軍航空廠殉職者之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

第11海軍航空廠殉職者之碑広公園の中にあります。広海軍工廠と第11海軍航空廠で勤務中に殉職した方を祀った慰霊碑です。元々は津久茂にありましたが、広海軍工廠を拡張する工場の際に現在の場所に移築されました。後ろの銘板が取り外されていますが、どういう理由で取り外されたのか、いつ取り外さ

呉中央桟橋ターミナル(旧海軍第一上陸場) - 呉市周辺の遺構まとめ

呉中央桟橋ターミナル(海軍第一上陸場跡)現在は「呉の海の玄関口」として多くの観光客が訪れる呉中央桟橋ターミナルですが、太平洋戦争終戦までは第一上陸場と呼ばれる海軍専用の港で一般人の立ち入りは禁止されていました。元々この場所には呉水雷団の水雷艇囲場がありましたが、呉水雷団が廃止され

岩国駅前空襲の碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

岩国駅前空襲の碑山口県岩国市は陸軍の燃料廠があったことから米軍の焦土作戦の標的にされ、昭和20年春から夏にかけ9度も空襲を受けました。陸軍燃料廠は元より柱島などの離島も空襲を受け、民家・船舶・駅・農作業中の農夫に至るまで徹底的に狙われ甚大な被害を出しました。昭和20年8月14日(