福屋八丁堀本店 - 呉市周辺の遺構まとめ
福屋八丁堀本店中心部の繁華街にある老舗百貨店福屋は昭和4年10月、広島発のデパートメントとして広島市中心部に当時としてはめずらしい鉄筋コンクリート4階建てで創業しました。6年後の昭和10年に東洋一の軍港といわれていた呉市に支店をオープンします。当時の呉海軍工廠の給料日には買い物を
福屋八丁堀本店中心部の繁華街にある老舗百貨店福屋は昭和4年10月、広島発のデパートメントとして広島市中心部に当時としてはめずらしい鉄筋コンクリート4階建てで創業しました。6年後の昭和10年に東洋一の軍港といわれていた呉市に支店をオープンします。当時の呉海軍工廠の給料日には買い物を
倉井(空母阿蘇終焉の地)倉橋島東部の倉井空母阿蘇は雲龍型空母5番艦として昭和18年6月に呉海軍工廠で着工しました。しかし、着工したのが太平洋戦争中期であったため既存艦の修理等が優先され建造は遅々として進みませんでした。昭和19年11月に呉海軍工廠最後の軍艦として進水したものの、戦
澎湃館(旧呉海軍工廠第一弾薬庫)澎湃館は旧呉海軍工廠にあるお土産屋さんこの辺りは太平洋戦争終戦まで呉海軍工廠の倉庫(通称:赤レンガ倉庫)があり、この建物も呉海軍工廠の弾薬庫の一部でした。元々は『呉海軍造兵廠予備艦兵器庫並預兵器庫』という名称で呉海軍工廠設立前の明治33年に建設され
竹原市歴史民俗資料館(旧竹原書院)昭和初期に作られた図書館元々江戸時代中期ころはこの周辺には町人学者が多く町人や子供達に学問を教える学問所『竹原書院』がありました。その後、竹原書院は文政3年に火災で焼失してしまい昭和4年に有志の手により図書館として再建されました。昭和47年に図書
旧新納鉄工溶鉱炉跡山陽本線線路沿いのレンガ造りの遺構近所の方にお伺いすると、元々ここには新納鉄工という鋳物屋がありその溶鉱炉跡だそうです。当初は建物も複数残っていましたが、木造であったため経年による風化とシロアリ被害により溶鉱炉跡以外はすべて無くなってしまったそうです。なお、新納
灯火管制塗装された木造住宅『灯火管制』とは戦時中に夜間の電灯やろうそく等の明かりの使用を制限する制度のこと灯火管制されていない都市は夜間上空から見ると位置がハッキリわかってしまうため、夜間の空襲を防ぐため日本以外の諸外国でも用いられました。日本では日中戦争が始まった昭和12年に防
呉芸南病院呉芸南病院は安芸阿賀駅近くにある病院呉芸南病院は昭和14年に建てられた民間の病院ですが詳しい歴史等は不明です。昭和14年当時は軍縮条約や軍縮会議の影響で航空機の研究が進み、広海軍工廠に勤務する労働者やその家族が増えたため広や阿賀は大都市となりました。大都市の医療を支える
ひとつ川橋の防空壕跡ひとつ川橋にある防空壕跡大型の防空壕跡が国道沿いに残っています。近くに海上自衛隊第11海上訓練指導隊がありますが、ここは太平洋戦争終戦後に埋め立てられた土地で戦前からある海軍施設の付属防空壕ではないようです。宮ノ原集落の外れにあるため、集落の住民の防空壕であっ
電信第二連隊跡比治山の南にあります。陸軍通信隊は通称「軍通(ぐんつう)」と呼ばれ軍司令部と師団司令部、もしくは連隊間の通信を担う部隊です。通信といっても現在の電話のようなものは無く、電気信号のON/OFFで・(トン)とー(ツー)を組み合わせて48文字を作り送信します。受信側は送ら
眼鏡橋旧下士官兵集会所の前、国道487号線と呉線の高架が交差する道路現在は暗渠となっていますがこの道路の下には眼鏡橋という石造橋があります。眼鏡橋は清水川の土砂を呉湾に流さないための砂防堤として明治20年に海軍によって作られました。呉鎮守府開庁前に着工し呉鎮守府完成と同時に竣工し
品覚寺品覚寺(ほんかくじ)は津久茂にある海軍ゆかりのお寺天正5年に竹林を切り開いて作られたお寺で元々は真言宗でしたが浄土真宗に改宗されています。日露戦争中の明治37年5月、巡洋艦吉野と巡洋艦春日が濃霧の中で衝突する事故が起こり、巡洋艦吉野が沈没し乗組員300名以上が犠牲なりました
海軍第四門跡海軍第四門は串山の裏にあった市街地と呉海軍工廠の境界の衛門太平洋戦争終戦まで呉鎮守府や呉海軍工廠は軍用地であり市民は立入禁止でした。また、市街地と呉海軍工廠は塀で仕切られており今と違い自由に出入りすることはできませんでした。この海軍第四門は串山の裏(山側)にあり呉海軍
宮原9丁目の防空壕跡宮原9丁目にある防空壕跡坂の町である呉市特有の階段住宅の斜面に掘られた防空壕です。現在は更地や空き家が多くなりましたが、位置的に旧呉海軍工廠の裏にあるので在りし日は住宅が多く人口密集地域であったと思われます。となりに燈籠やレンガ造りの基礎があるので神社仏閣やお
宮原7丁目の防空壕跡宮原9丁目にある防空壕跡坂の街呉特有の階段住宅の斜面に掘られた防空壕跡です。宮原町には他にも複数の防空壕跡がありますが、ここの壕口は非常に大きく他の防空壕の2.5倍ほどあります。もしかしたら防空壕ではなく倉庫や地下工場の入口かもしれませんが詳細不明です。現在は