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狩留賀浜(巡洋艦磐手終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

狩留賀浜(練習艦磐手終焉の地)巡洋艦磐手は佐世保鎮守府所属の出雲型装甲巡洋艦2番艦として明治34年に就役しました。明治37年におきた日露戦争では日本海海戦でロシア海軍のバルチック艦隊を破る武勲を挙げた艦でもあります。就役当時は装甲巡洋艦でしたが旧式化に伴い大正10年に海防艦へ変更

工僚神社 - 呉市周辺の遺構まとめ

工僚神社広両谷の船津八幡神社の境内にあります。工僚神社は太平洋戦争中に広海軍工廠と第11海軍航空廠で勤務中に殉職、もしくは戦死した方を祀った神社です。太平洋戦争終戦後の昭和21年11月に建立され、以降は広地区工業関係の殉職者と広出身の軍人も合祀されています。太平洋戦争末期に広海軍

呉海軍航空隊飛行場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉海軍航空隊飛行場跡呉海軍航空隊飛行場は、現在の虹村公園の一部からクリーンセンターの辺りにあった海軍の飛行場現在は工業団地となっていますが、太平洋戦争終戦までここに呉海軍航空隊の飛行場があり、X字型の滑走路が存在していました。呉海軍航空隊は大正14年に『佐世保航空隊広分遣隊』とし

黄幡山九郎山機銃砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

黄幡山機銃砲台跡黄幡山(おうばんやま)は旧広海軍工廠会計部(現米軍広弾薬庫)の南にある標高61mの山ここには太平洋戦争中に広海軍工廠・第11海軍航空廠防衛のため防空機銃砲台が構築されました。黄幡山機銃砲台は太平洋戦争後期の昭和19年1月に着工し当初は『25mm連装機銃』2基が配備

螺山砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

螺山砲台跡螺山(つぶやま)は長浜集落と白岳住宅地の間にある標高238mの山かつてここに広海軍工廠防衛のための螺山防空砲台が作られました。螺山防空砲台は太平洋戦争前の昭和12年に竣工しており開戦時には『四〇口径三年式8cm高角砲』2門が配備されていました。開戦後は聴音機が追加され、

明磯神社の鳥居 - 呉市周辺の遺構まとめ

明磯神社の鳥居明磯(めいそ)神社は津久茂町にある神社ここには太平洋戦争末期の昭和20年5月の旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠への空襲で折れてしまった鳥居があります。爆風か衝撃により鳥居の3か所に亀裂が入っておりカスガイや金具で補強された跡があります。呉市街地の亀山神社にも焼夷弾で

戦艦大和上部第二兵員室の木製腰掛け - 呉市周辺の遺構まとめ

戦艦大和上部第二兵員室の木製腰掛け呉ポートピアパーク内にある飲食店『乙女椿』に展示してある戦艦大和兵員室の長椅子戦闘時の火災を防ぐため「燃えやすい物は徹底的には排除すべし」という理由で寄港時に外され、廃材として天応の民家の壁として使われていました。太平洋戦争終戦後、民家を解体する

呉線の廃トンネル - 呉市周辺の遺構まとめ

呉線呉線は広島市と呉市の間の輸送力強化のために建設された鉄道広島市には日清戦争開戦に備えて山陽本線がすでに開通しており、広島市から軍港呉を結ぶ軍用鉄道として明治36年に開通しました。このころの国営鉄道には『甲』『乙』『丙』という3つの階級付けがされていましたが、呉線は軍用鉄道であ

警固屋町の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

警固屋町の防空壕跡鍋桟橋跡近くの国道487号線沿いにあります。防空壕跡と思われますが詳細不明です。 備考 ・近くに鍋桟橋跡と宇佐神社がある ・少し離れているが巡洋艦青葉終焉の地がある 住所 広島県呉市警固屋4丁目5

千人湯跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

千人湯跡千人湯はかつての大坪谷(現在の阿賀北3丁目)にあった銭湯太平洋戦争中は同じ読みで漢字をあてて「仙人湯」の通称で親しまれていました。呉市は太平洋戦争終戦まで人口40万人の大都市でしたが、水源が限られていたため毎年夏になると水不足で断水するなど水道事情がよくありませんでした。

桂浜の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

桂浜桂浜(かつらがま)は、倉橋島南部に位置する白砂と松林の海岸桂浜は古くから景勝地として知られており、その風光明媚な景観は多くの人々を魅了してきました。ここから海を眺めて詠まれた和歌が日本最古の歌集である万葉集に収められています。また、桂浜は平安時代に遣唐使船が潮待ちをした場所と

海上自衛隊呉警備隊(旧呉水雷団) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上自衛隊呉警備隊(旧呉水雷団)呉水雷団は呉鎮守府所属の部隊の一つ呉水雷団は軍港呉の防備と機械水雷の敷設・掃海作業・防潜網の設置などを担当しており、麾下に水雷艇隊と水雷敷設隊を有していました。当初は『呉水雷隊』といい呉鎮守府開庁翌年の明治23年に創設されました。その後、明治29年

床下式防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

床下式防空壕跡川原石の古い民家に残るめずらしい床下防空壕跡太平洋戦争初期の防空壕は、各家庭でこのような家屋の床下や庭に家族が入る分の防空壕が作られました。一般的なものは、深さは約1.5mで床下に穴を掘って板を置き土をかぶせるという作り方でした。この防空壕跡も家屋の奥まで続いていま

呉水交社跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉水交社呉水交社は現在の公務員合同宿舎と海上自衛隊幸宿舎にあった海軍の福利厚生施設呉水交社は海軍高級軍人や士官のための宿泊・娯楽などの施設で、呉市街地を一望できる清水川沿いの高台に位置し呉鎮守府司令長官官舎とも隣接していました。また、海軍将校の親睦や研究の場として知られており、海

上長迫の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

上長迫の防空壕跡傷痍之碑のとなりにあります。市街地ですがここより上は山なので取り壊されず現存していると思われます。山の斜面に掘ってあるため中は水が溜まっています。 備考 ・住所は上長迫だが場所的には長迫公園(旧海軍墓地)の上にある ・長迫公園(旧海軍墓地)

傳田弘顕 - ビジネス辞書 Wiki

傳田弘顕(1987―)は、日本の実業家、経営者。東京都狛江市出身、帝京大学経済学部経営学科卒業。渋谷区道玄坂に拠点を置く出版・印刷会社であるトラストの代表者でもある。目次1 人物1.1 生い立ち1.2 学生時代1.3 社会人時代1.4 トラスト設立2 理念3 トラスト3.1 企業

回天特別攻撃隊員和田稔記念碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

回天特別攻撃隊隊員和田稔記念碑山口県熊毛郡上関町の白井田集落にあります。回天特別攻撃隊員和田稔記念碑は、周防灘を挟んで北に位置する光基地で訓練中に亡くなった和田稔少尉の慰霊碑です。 光基地では、太平洋戦争末期の本土決戦に向けて人間魚雷『回天』の訓練が行われていました。太平洋戦争終

鉄管道路 - 呉市周辺の遺構まとめ

鉄管道路鉄管道路は二河川から平原浄水場までの約4kmに作られた水道管この水道管は、二河川から取水した水を平原浄水場へ送るために使用されます。水道管の上に道路が作られたためこの名前が付けられました。竣工時期は不明ですが、平原浄水場が大正6年に作られたためその後の竣工と思われます。鉄

仏様の防空壕 - 呉市周辺の遺構まとめ

仏様の防空壕正福寺の医王殿の裏にあります。防空壕としてはめずらしくレンガ造りの防空壕です。通常、防空壕は少しでも強度を上げるためにレンガよりコンクリートで作られますが実はこの防空壕は人間用ではなく仏像用です。通称「仏様の防空壕」と呼ばれたこの防空壕は、空襲が激化してきた太平洋戦争

広島市医師会原爆殉職碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

広島市医師会原爆殉職碑平和大通りにあります。原子爆弾によって殉職した医師・看護師・医療従事者・医療活動に献身し亡くなった人を追悼する慰霊碑です。昭和20年8月の広島市への原子爆弾投下では、医師298名を含む2168名の医療従事者が被爆死、もしくは終戦後に放射線障害で亡くなりました

朝鮮人帰国記念碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

朝鮮人帰国記念碑安芸津駅構内にあります。太平洋戦争中の昭和19年9月に操業を始めた安芸津造船工場(現在の新来島広島どっく)の作業員不足を補うため、朝鮮人徴用工の受け入れが行われました。その後、太平洋戦争終戦後の昭和30~50年に在日朝鮮人帰還事業が全国的に行われました。碑文から見

東辰川の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

東辰川の防空壕跡辰川バス停の近くの住宅地にあります。コンクリートが打設された斜面にあり奥まで続いているようです。場所と大きさ的に個人用ではなくパブリックな防空壕と思われますが詳細不明です。 備考 ・辰川バス停は辰川線のバスしか行かないので注意 ・少し遠いが

淡水小学校跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

淡水小学校跡淡水小学校は、呉鎮守府海軍将校の子供や家族を教育する学校として創設されました。当初は『呉鎮守府軍政会議所附設私立淡水小学校』といい軍政会議所兼水交社が建てられた翌年の明治23年に、軍政会議所附属舎を校舎として使用しました。現在の小中高校と同じく高等科・尋常科・附属の幼

廿日市天満宮(篠尾山防空監視哨跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

篠尾山防空監視哨跡篠尾山防空監視哨は廿日市天満宮(篠尾山)にあったとされる防空監視監視哨篠尾山防空監視哨は昭和8年の戦時防空計画によって計画されました。昭和8年の時点ではまだ日中戦争も開戦しておらず防空法も制定されていないため、地元自治体が自主的に計画したものと思われます。有事の

長ノ木隧道 - 呉市周辺の遺構まとめ

長ノ木隧道長ノ木隧道は長ノ木町から伏原町に通じるトンネル元々は呉市の環状道路の一部として太平洋戦争中に海軍によって着工されました。しかし、戦局の悪化により工事は中断され未完成のまま放置されていました。工事中断後は海軍軍需部の倉庫として利用され実験用素材・計器類・燃料・工具・食器・

海越小学校跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

海越小学校跡海越(かいごし)小学校はかつて海越集落にあった小さな小学校明治7年に開校した海越小学校は、島嶼部でありながら昭和初期には校舎が増築されました。太平洋戦争中は食糧不足が深刻で、海越のような農村部では自給自足が基本でした。海越小学校でも自給自足を目指し校内に農園を作りサツ

広島水上警察署跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

広島水上警察署跡広島市唯一の木造2階建て被爆遺構水上警察とは、港湾や船舶にかかわる特殊な犯罪を取り締まる警察組織で広島市には明治14年に設置されました。この建物は宇品港が日清・日露戦争で兵站拠点へと発展し、警察業務の拡大に対応するため明治42年に広島水上警察署新庁舎として建てられ

江田島中央の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

江田島中央の防空壕跡江田島中央にある防空壕と思われる壕口この辺りの旧地名は『矢ノ浦』といい近くに矢ノ浦浄水場がありました。矢ノ浦浄水場は海軍兵学校の水道を供給する『江田島海軍水道』の1つで、鹿川水源地で取水した水を処理しするために作られた水道施設でした。もしかするとこの壕口も矢ノ

傷痍之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

傷痍之碑長迫公園(旧海軍墓地)の上にあります。傷痍軍人(しょういぐんじん)とは、戦争や公務によって負傷し身体的・精神的な障害を負った軍人のことでかつては「廃兵」と呼ばれていました。軍隊の士気を維持するため、国のために戦った軍人の傷病は「名誉の負傷」とされ戦後も国から手厚い保護や援

海は忘れない慰霊碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

海は忘れない慰霊碑深江漁港にあります。太平洋戦争終戦後の昭和23年と昭和25年に、米軍が長島沖に敷設した機雷によって犠牲となった民間人26名を慰霊する碑です。慰霊碑にある26名の詳細は不明ですが、記録によると昭和25年7月に長島の北沖で大型機雷が爆発し、漁船6隻が巻き込まれ46名

宇和木新開の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

宇和木新開の防空壕跡大谷橋の近くにある防空壕跡橋の西側の道路沿いに3つ残っています。付近には軍事施設はなく宇和木集落の外れにあるため、恐らく宇和木集落の住人のための防空壕かと思われます。 備考 ・大向釣士田港線(県道283号線)沿いにある ・近くにある地蔵

ふりかえりの塔 - 呉市周辺の遺構まとめ

ふりかえりの塔爆心地から約1.8kmの鷹野橋商店街の入口にあります。広島市内によくある地区の原爆犠牲者の慰霊碑でこの千田町1丁目では200名以上が犠牲となりました。この慰霊碑の名前の由来は「火の海と化した自分の町をふりかえりながら避難した」という悲しい意味が込められています。この

呉湾 - 呉市周辺の遺構まとめ

水路軍機第232號 呉湾昭和7年に海軍省水路部から発行された海軍の軍事機密が記載された呉湾の地図当時の市販地図では白く塗りつぶされている呉鎮守府・海兵団・水雷団・軍需部・海軍工廠引き込み線・二河川より海側が記載されています。さらに、太平洋戦争中の昭和19年に艦艇の錨泊場所も追記さ

旧愛宕跨線橋 - 呉市周辺の遺構まとめ

旧愛宕跨線橋愛宕跨線橋(あたごこせんきょう)は広島駅の近くにあった鉄道陸橋愛宕跨線橋は山陽鉄道(現在の山陽本線)の線路を南北に行き来する歩行者専用陸橋として大正14年に建設されました。太平洋戦争末期の昭和20年8月の原子爆弾投下の際も倒壊せず、太平洋戦争終戦後も含めて約80年利用

海軍第二門跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

海軍第二門跡海軍第二門は呉海軍病院と現在の清水ヶ丘高等学校の間にあった市街地と呉海軍工廠の境界の衛門太平洋戦争終戦まで呉鎮守府や呉海軍工廠は軍用地であり市民は立入禁止でした。また、市街地と軍用地は塀で仕切られており現在と異なり自由に出入りすることはできませんでした。この海軍第二門

福山城の石垣 - 呉市周辺の遺構まとめ

福山城福山城は広島県東部の都市、福山市にある城江戸時代に建てられた城ですが、当時西国における江戸幕府の守りの要所として作られたため三の丸に濠まで持つ大型の城でした。現在の福山駅も福山城の城内の一部でした。その後、明治6年の廃城令により廃城され濠も埋め立てられました。空襲で破損した

呉YWCA - 呉市周辺の遺構まとめ

呉YWCA(旧水交社?)YWCAとは「Young Women's Christian Association」の略で、キリスト教を基盤に女性の社会参画を進めて世界平和実現を目指す団体です。その歴史は古く江戸時代の安政元年にイギリスで結成されました。呉におけるYWCAは、太

太田川漁業協同組合(旧亀山水力発電所) - 呉市周辺の遺構まとめ

太田川漁業協同組合(旧亀山水力発電所)亀山発電所は正式名称は『広島電燈亀山水力発電所』といい、広島県安佐郡亀山村(現在の広島県広島市安佐北区可部町)にあった太田川の水力発電所です。太田川は1年を通して水量が豊富で水源として利用されますが、電源地帯としても古くから使われており現在も

三津峰山防空砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

三津峰山三津峰山は呉海軍工廠の後ろ、高烏台の北に位置する標高378mの山呉市を囲む9つの連峰の1つとして日佐護山や休山等と連なっていることから景色が良く登山の名所として知られていますが、太平洋戦争中に呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。三津峰山の防空砲台は南部と北部に分けられて

桐原容器工業所の被爆レンガ壁 - 呉市周辺の遺構まとめ

桐原容器工業所の被爆レンガ壁桐原容器工業所はダンボールや紙袋を製造する明治33年創業の老舗梱包材会社明治35年頃に現在地に工場を建設し当時はセメント樽の製造を行っていました。昭和20年8月の原爆投下の際は爆心地から2.4kmの距離にあり工場の屋根は吹き飛ばされました。明治30年代

広島アンデルセン(旧帝国銀行広島支店) - 呉市周辺の遺構まとめ

広島アンデルセン(旧帝国銀行広島支店)市街地中心部の商店街にある被爆遺構地元ではベーカリーとして有名な建物ですが元々は『三井銀行広島支店』として大正14年に建築されました。旧日本銀行広島支店と同じように当時の流行であった欧州風建築の銀行として建てられ、石造りの大きな正面入口と内部

二葉山砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

二葉山二葉山は広島駅の北にある標高139mの山広島市は太田川に流れる砂が溜まってできた三角州の都市で、元々島であったところを除けば旧市内の山はこの二葉山が最南端のとなります。山としては小さな山で20分程度で登頂できます。また、江戸時代より広島東照宮や金光稲荷神社が作られ広島駅から

海軍秋月火薬廠の壁跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

米陸軍秋月弾薬庫江田島中部の秋月にある在日米軍基地正式名称は米陸軍第83兵器大隊秋月弾薬廠秋月弾薬庫といいます。秋月弾薬廠には他にも呉市広にある広弾薬庫と東広島市八本松にある川上弾薬庫という分所があります。元々ここは久村と呼ばれる干拓地帯でしたが、明治時代に海軍が買収し海軍秋月弾

旧日本製鋼所ドック跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

旧日本製鋼所日本製鋼所は明治40年に英国の技術を導入して国産の兵器を製造する会社として設立されました。元々は北海道で設立された会社で、日本初の航空機のエンジンを製造したりと早くから国産兵器の製造を行った会社です。また、戦艦陸奥の主砲も日本製鋼所で作られたものがあります。大正9年に

両城の旧海軍士官邸宅 - 呉市周辺の遺構まとめ

両城の旧海軍士官邸宅坂の街呉特有の階段住宅の一つ最盛期は広島市よりも人口が多かった呉市ですが、坂の町であるがゆえ平地部分は海軍や行政機関などの建物が建てられており、市民の多くはこのような急傾斜に住宅を建てて生活していました。ここ両城の階段住宅には海軍士官・将校や軍属商人が多く住ん

五月荘 - 呉市周辺の遺構まとめ

五月荘明治34年創業の呉市街地に残る数少ない老舗料亭市街地に残る創業100年以上料亭は呉市内でもめずらしく明治時代より「海軍さんの料亭」として海軍軍人に愛されてきました。旧海軍の公式文章によるとこの五月荘は潜水艦乗りたちが常連だったそうです。通常、海軍の兵士たちは階級ごとに行きつ

広中央中学校(旧第11海軍航空廠紫工場) - 呉市周辺の遺構まとめ

広中央中学校(旧第11海軍航空廠紫工場)吉松山のふもとにある第11海軍航空廠の一つ広の街の中では北に位置しますが、太平洋戦争中の広はほとんどが工廠か工員宿舎・工員訓練所となっており町全体が海軍の航空機工場でした。この工場で何が製造されていたのか、どのような由来で紫工場という名前に

奥小路浄水場(旧奥小路水源池) - 呉市周辺の遺構まとめ

奥小路浄水場(旧奥小路水源池)古鷹山の南のふもとにある水源地で『江田島海軍水道』の最初の水源地奥小路水源池は明治26年に開校した海軍兵学校の水源地として翌明治27年に建設されました。江田島海軍水道は江田島に初めて開通した水道であり、奥小路水源池の完成により江田島の水道の歴史がスタ

吉浦中学校(旧呉海軍工廠女子動員学徒狩留賀寄宿舎) - 呉市周辺の遺構まとめ

吉浦中学校(旧呉海軍工廠女子動員学徒狩留賀寄宿舎)かるが浜駅の裏にあります。現在は吉浦中学校となっていますが太平洋戦争終戦まで呉海軍工廠の動員学徒寄宿舎がありました。寄宿舎は元々太平洋戦争前の昭和15年に『呉海軍工廠狩留賀寄宿舎』として建設されました。約800名の工員(当初は男性