串山公園(旧串山防空機銃砲台) - 呉市周辺の遺構まとめ
串山公園(旧串山防空機銃砲台)串山は旧呉海軍工廠本部の後ろにある山山と言っても標高は63mしかなく簡単に登れる山ですが太平洋戦争中の昭和17年に防空機銃砲台が作られました。串山防空機銃砲台は当初『坪ノ内機銃砲台』として昭和17年8月に完成し13mm4連装機銃2基が配備されました。
串山公園(旧串山防空機銃砲台)串山は旧呉海軍工廠本部の後ろにある山山と言っても標高は63mしかなく簡単に登れる山ですが太平洋戦争中の昭和17年に防空機銃砲台が作られました。串山防空機銃砲台は当初『坪ノ内機銃砲台』として昭和17年8月に完成し13mm4連装機銃2基が配備されました。
アレイからすこじま公園駐車場(呉海軍工廠技手養成所・職工教習所・工員養成所跡)串山のとなりにあります。呉海軍工廠職工教習所は、呉海軍工廠で働く技術者を育成するための教育機関で大正7年に創設されました。元々ここではなく呉海軍工廠製鋼部や砲熕部の近くにあり、2年制の課程教育が行われま
二河公園二河(にこう)公園は二河峡の下流にある二河川沿いの公園元々は海軍が明治30年頃に作った射撃場の一部でしたが大正5年に呉市に払い下げられ、大正天皇御即位の記念として公園として整備されました。昭和9年に発行された呉軍港案内では音楽堂・海光館・図書館・擇善館・慰霊碑の他、野球グ
海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所)下士官兵集会所は呉港に艦隊が寄港した際に艦隊勤務の下士官が福利厚生を受けるため施設下士官とは兵卒と準士官の間にある軍曹・伍長といった階級のことです。下士官より上の準士官には海友社、その上の士官には水交社と呼ばれる別の福利厚生施設がありま
音戸渡船(おんどとせん)音戸渡船は、本州と倉橋島の間にある音戸の瀬戸約120mの海を行き来する渡し船で、かつて呉市が誇る日本一の1つ「日本一短い航路」でした。現在は音戸大橋のおかげで倉橋島と本州は陸路でつながっていますが、昭和36年の開通以前は倉橋島に行くには船で行くしかありませ
呉鎮守府呉鎮守府は明治19年に制定された海軍条例に基づき設置された海軍の根拠地の1つ富国強兵の明治時代に、国防のため日本沿岸や海を5つの海軍区に分けて海軍の軍港を設置する計画が決まりました。呉鎮守府は横須賀の次に置かれた2番目の鎮守府で、佐世保鎮守府と同じ明治22年に開庁しました
噫戦艦大和塔国道487号沿いにある歴史の見える丘にあります。眼前の戦艦大和建造ドックで建造された戦艦大和の記念塔で進水30周年を記念して昭和44年7月に建立されました。建立には戦艦大和の艦内神社である大和神社(奈良県)から、艦内神社と同じように御分霊されました。記念塔には戦艦大和
入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎)旧呉鎮守府近くにある呉鎮守府司令長官の邸宅呉鎮守府司令長官官舎は洋風建築と和風建築が一つの建物に見事におさまっているというめずらしい建物です。洋館は司令長官と来客用、和館は主に使用人のために使われていました。洋館部分は明治の日本海軍がお手本と
大和神社大和神社(だいわじんじゃ)はIHIの社内神社IHIといえば戦艦大和を建造したドックのあるJMU(ジャパンマリンユナイテッド)の関連会社ですが、この神社は社内神社であり、昭和39年竣工と太平洋戦争終戦後に作られた神社であるため戦艦大和と直接関係はありません。大和神社はHI呉
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)呉の観光といえばここというくらい有名な観光地大和ミュージアムの正式名称は『呉市海事歴史科学館』といいます。戦艦大和だけでなく呉海軍工廠で建造された艦艇の様々な展示がされています。また、東洋一の軍港といわれた呉市の歴史や造船技術についても展示が
海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)屋外に展示されている「てつのくじら」こと潜水艦あきしおが有名な資料館で、正式名称は『海上自衛隊呉資料館』です。「日本初の実物潜水艦が展示されている」ことで有名ですが、館内は潜水艦以外にも掃海艇や海上自衛隊の歴史などの展示物があり、実物大の魚雷や
旧呉海軍工廠造船部呉海軍工廠造船部は太平洋戦争終戦まであった海軍の造船工場その歴史は呉鎮守府開庁と同じ明治22年に『呉鎮守府造船部』として海軍艦艇の建造や修理を行うため設置されたのが始まりです。現在のJMUでも設計部と製造部に分かれていますが、この時からすでに計画科と製造科が置か
大和波止場大和波止場は実物大戦艦大和の甲板を再現した公園別名「恋人の聖地」といいます。戦艦大和の甲板実物大の戦艦大和の前甲板左半分を再現した広場戦艦大和は全長263mでサッカーグラウンド2.5面分の長さがあります。これは「前甲板の左半分」なので実際の4分の1ですが、こうして見ると
宮原浄水場低区配水池宮原浄水場の近代的な施設の中でひと際目立つレンガ造りの建物宮原浄水場低区配水池は呉鎮守府開庁の翌年である明治23年に、軍用水道である『呉鎮守府水道』の一部として建設されました。初期の呉鎮守府水道は二河峡取水口から取水した水をこの宮原浄水場で処理し、海軍施設に導
レンガの積み方明治時代の建築素材として広く使われている煉瓦(レンガ)呉市の旧呉鎮守府や旧呉海軍工廠、広島市の広島陸軍被服支廠跡など呉市周辺にはレンガ造りの遺構が多く存在します。レンガ建築には積み方によって大きく分けて『イギリス積み』と『フランス積み』に分かれます。明治時代に日本に
国立病院機構呉医療センター(旧呉海軍病院)呉医療センターは呉市市街地にある総合病院元々は呉海軍病院といい呉鎮守府開庁の明治22年に海軍の病院として開院しました。呉は軍港という土地柄、呉鎮守府や海軍工廠関係の病院が多く作られましたがこの呉海軍病院は最も古い軍属病院になります。明治年
亀ヶ首倉橋島の東端に位置する曲がりくねった半島の先端部分。その形から『亀ヶ首』と呼ばれています。昔から瀬戸内海の船乗りたちは航海の目印として動物の名前を地形に付けており、他にも女猫の瀬戸などの地名が残っています。亀ヶ首射撃実験場跡亀ヶ首射撃実験場は艦艇に搭載する艦載砲の試験施設と
旧呉海軍工廠引き込み線跡呉海軍工廠引き込み線は呉駅と呉海軍工廠を結ぶ軍用貨物鉄道の線路引き込み線とは、主要な鉄道路線から分岐して工場や施設内に入るための線路のことです。工場内で製造された物資や機材の輸送や工場への原材料の供給などに使用されます。また、呉海軍工廠のような軍需工場の場
戦艦大和の主錨(レプリカ)蔵本通りにある戦艦大和の主錨レプリカこのレプリカは高さ5.5m、重さは15トンあります。戦艦大和の錨については詳細な記録が残っていないため、このレプリカが原寸大だったのかは不明ですが、諸説ある中の一番大きなサイズの説に基づいて再現されています。
長迫公園(旧海軍墓地)長迫公園は呉鎮守府開庁と同じ明治22年に和庄葬儀場として作られました。翌明治23年に海軍によって買収され『呉海軍墓地』となりました。以来、太平洋戦争終戦までの55年間呉鎮守府管理下で海軍軍人や軍属の墓地として使用されました。しかし、太平洋戦争末期の呉市街地へ
高烏台公園(高烏台砲台跡)平清盛が厳島神社を建てるため太陽を呼んだことで有名な景勝地音戸の瀬戸の本州側にある高烏台公園ここには明治時代から太平洋戦争終戦までの砲台跡があります。高烏台公園には大きく分けて2種類の砲台跡があります。1つは明治34年に陸軍が広島湾要塞の1つとして築いた
萬願寺日佐護山のふもとにあるお寺境内最上の五重の塔から呉湾が一望できるため、太平洋戦争中は諜報活動を警戒して憲兵が常駐していました。戦前戦中は要塞地帯の近くで測量・撮影・模写などを禁止する『要塞地帯法』という法律がありました。特にこの萬願寺は造船部船渠の中まで見えるため用もないの
浜田橋郷原町の黒瀬川にかかる橋で資料によると明治33年竣工です。金属製の橋げたやアスファルトはもちろん後世のものでしょうが、橋脚がすごく古そうなのでもしかしたら当時のものかもしれません。郷原町は呉市の北東部に位置し、歴史は意外と古く荘園時代の記録に名前が残っていますが呉市に吸収合
安浦海兵団安浦海兵団は戦争後期に本土防衛のため呉鎮守府が設立した新兵教育組織呉鎮守府の新兵教育組織である海兵団は、すでに呉海兵団がありましたが国際情勢の緊迫化を受け、兵力増強のため兵員養成地の拡充が決定されます。昭和14年に安浦町が海兵団新設の候補地にあがりますが、誘致で大竹市に
灰ヶ峰展望台(灰ヶ峰防空砲台跡)呉市の象徴的な山である灰ヶ峰「呉市で2番目に高い山」こと灰ヶ峰ですが太平洋戦争中は山頂に呉鎮守府所属の防空砲台がありました。砲台は基本的に山の上に作られますがここ灰ヶ峰は標高737mと周りの山に比べて飛び抜けて高い山です。しかし、海軍の砲台があるこ
情島(戦艦日向終焉の地)倉橋島大浦崎公園の沖合に位置する小さな島戦艦日向は伊勢型戦艦2番艦として大正時代に就役し、太平洋戦争中に後部を空母に改造した世界でもめずらしい航空戦艦です。戦争末期に南方での戦闘を終え呉に帰投しました。当初は呉湾内に停泊していましたが昭和20年3月の第一次
呉鎮守府水道呉に鎮守府が置かれた理由は「島や高山に囲まれて守りやすく呉湾の水深が深く大型船の往来が容易である」という説が有力です。しかし、こと水道においてはあまり事情は良くありませんでした。元々この二河峡取水口は江戸時代に慢性的な水不足に悩んでいた地元の庄屋が、呉の名勝二河峡から
倉橋本浦(駆逐艦樫終焉の地)駆逐艦樫は佐世保鎮守府所属の松型駆逐艦10番艦として、太平洋戦争後期の昭和19年9月に就役しました。松型駆逐艦は戦局悪化による戦力不足を補うため性能を落とす代わりに建造期間を短くした戦時急造型の駆逐艦で、梨も起工からわずか4ヵ月で就役した艦艇でした。就
阿賀北の防空壕跡阿賀峠の東側にある防空壕跡かなり大型の防空壕ですが近所の方にお聞きすると人の手で掘られた素掘りの防空壕だそうです。その御仁も空襲警報が鳴ると一目散にここに逃げ込んだらしいですが、戦争末期になるとここより南の街はすべて空襲で焼かれてしまったとのことです。また、太平洋
呉海軍工廠長郷地下工場跡長郷は音戸の瀬戸と安芸阿賀の間にある瀬戸内海沿いの小さな集落空襲が激しくなってきた太平洋戦争末期に呉海軍工廠の兵器生産を継続するため朝鮮人労働者を使って作られた地下工場です。呉海軍工廠と名前がついていますが呉海軍工廠とはかなり離れたところにあります。太平洋
安浦港防波堤(武智丸)武智丸は太平洋戦争末期に建造されたコンクリート製輸送船。建造された造船所の名前を取って武智丸と命名されました。日本は太平洋戦争開戦直前の昭和16年にすでに金属類の輸入禁止を受けていましたが、戦争末期になると鋼材不足が深刻化し軍需物資を輸送する船の建材が尽き始
渡子の防空壕跡倉橋島北部の坪井から渡子(とのこ)の間の国道487号線沿いにあります。太平洋戦争の防空壕跡は呉市各地にありますが入口が塞いでないものはめずらしいです。艦艇終焉の地には防空壕が多く残っていますが、渡子は戦艦伊勢終焉の地である坪井と空母天城・空母葛城の終焉の地である三ツ
大入魚雷遠距離発射場跡大入(だいにゅう)魚雷遠距離発射場は戦前阿賀南の海岸沿いにあった海軍の魚雷開発施設魚雷遠距離発射場は元は呉海軍工廠魚雷実験部の1つで呉湾から大正時代に移転してきました。この施設では海軍が開発した魚雷の試験を行っており、元々呉湾を出入りする船舶が増えたため危険
県道204号安登停車場線呉市が誇る日本一の1つ「日本一短い県道」こと県道204号安登停車場線です。横断歩道からマンホールまでの県道で全長はなんと7mです。ちなみに幅は14mあるので全長より幅の方が大きいという道路です。 備考 ・呉線安登駅の目の前にある ・
得蔵寺得蔵寺は倉橋島南部にあるお寺桂浜のある倉橋漁港が見える上河内の集落にあります。ここには倉橋本浦で空襲を受けた駆逐艦楓の慰霊碑があります。駆逐艦楓戦没者慰霊碑駆逐艦楓は横須賀鎮守府所属の松型駆逐艦17番艦として、太平洋戦争後期の昭和19年10月に就役しました。松型駆逐艦は戦局
川尻トンネル呉市が誇る日本一の1つ安芸川尻駅そばにある川尻トンネルは「日本一短い鉄道トンネル」です。元々は群馬県の吾妻線樽沢トンネルが日本一でしたが、廃線となってしまったため繰り上がりで川尻トンネルが日本一になりました。上に道路が通っていてトンネルというより陸橋に見えますが、条件
米空軍勇士之碑倉橋島中部の丸子山にあります。倉橋島・江田島に隠れている日本海軍残存艦艇を狙った昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の際に、機体に損傷を受け藤の脇の民家に墜落しに亡くなった米兵の墓です。正確には空母艦載機のパイロットであるため米『海軍』勇士の碑とするが正しいのですが、当
音戸漁港のコンクリート船倉橋島北部の音戸漁港にある防波堤音戸漁港のコンクリート船は、安浦町にある武智丸と同じく武智造船所で建造されたコンクリート製輸送船です。太平洋戦争中の鋼材不足から金属ではなくコンクリートで作られた輸送船です。武智丸とは異なり自力で航行するできず潜水艦等で曳航
大浦崎公園(P基地跡)大浦崎公園は倉橋島の北東にある半島ここには太平洋戦争中に「P基地」と呼ばれる特殊潜航艇の工場や搭乗員の訓練施設がありました。正確には呉鎮守府第二特攻戦隊と呉鎮守府第十特攻戦隊大浦突撃隊、それに呉海軍工廠造船部大浦分工場を合わせてP基地と呼ばれていました。呉海
大浦突撃隊大迫支隊(Q基地跡)倉橋島の東端にある大迫港の北ここには太平洋戦争中の昭和19年4月に海軍の訓練基地が建設されました。対岸の大浦崎にあるP基地と対をなして「Q基地」と呼ばれていました。Q基地は海軍陸戦隊が持つ『特四式内火艇』の訓練基地として建設されました。元々は沖にある
大空山公園(大空山砲台跡)安芸阿賀駅の北にある標高205mの大空山ここには明治36年に陸軍が呉防衛のために作った広島湾要塞の1つ、大空山砲台があります。広島湾要塞の砲台は侵攻してくる外国艦隊を迎撃するために作られたものが多いですが、大空山砲台は上陸して背後から攻めてくる敵から呉を
三木谷医院(旧広海軍共済組合病院)吉松山のふもと住宅地にある海軍の病院広海軍共済組合病院は広海軍工廠の医療機関として大正10年の広海軍工廠設立と同時に建てられました。その後、太平洋戦争直前の昭和15年にとなりの地区である大新開(現在の広警察署の辺り)へ移転しました。太平洋戦争末期
宮原11丁目の防空壕跡宮原中学校前の国道487号線沿いにあります。道路沿いに4つの防空壕の入口が並んでいます。このうち3つにはパブリックの防空壕としてはめずらしくT字型やI字型のコンクリート防火壁が付いています。太平洋戦争末期の空襲では『焼夷弾』と呼ばれる火災を発生させる目的の爆
旧呉市交通局築地中央工場(海軍軍需部被服工場跡)二河川の近くにある広島電鉄呉中央営業所元々ここには海軍軍需部第二区として海軍の被服工場と倉庫がありました。太平洋戦争終戦後、昭和25年の旧軍港市転換法により呉市に譲渡され安芸阿賀にあった呉市交通局(呉市営バス)の整備工場がここに移転
魚見山隧道(うおみざんずいどう)魚見山隧道は国道31号線にある川原石と吉浦を結ぶ860mのトンネル。呉市から広島市に向かう道路のトンネルとして長年使われています。元々は太平洋戦争開戦の昭和16年に、軍都広島市と軍港呉を結ぶ道路の一部として着工しました。太平洋戦争末期の昭和20年1
川原石の民家の防空壕跡川原石駅近くにある港町小学校(旧川原石小学校)の下にあります。地元住民の方にお聞きすると民家の防空壕跡とのことです。太平洋戦争中は各家庭に防空壕があり中に食料・水・炭(燃料)などの貴重品を入れておくことが一般的でした。また、緊急時には人も避難できるように作っ
呉線の目隠し板の支柱呉線の吉浦駅と川原石駅の間にあります。呉線の車内から呉港が一望できる線路沿いに建てられた目隠し板のコンクリート製支柱で、太平洋戦争中まで車窓の高さに目隠し板が立てられ車内から呉湾が見れないようになっていました。「景色が良いのになぜ隠す必要があるのか?」という疑
海上保安大学校(旧呉海軍工廠火工部)現在は海上保安官を育成する学校ですが終戦までは呉海軍工廠の一部でした。明治22年の呉鎮守府開庁と同時に呉鎮守府吉浦火薬庫がここに置かれたのが始まりです。その後、明治36年に対岸に呉海軍工廠が建設されると呉海軍工廠造兵部第六工場の火薬庫となりまし
海上自衛隊呉地方総監部練習艦隊司令部(旧呉海軍工廠艤装工場)現在は海上自衛隊の施設ですが、終戦まで呉海軍工廠の一部で艤装工場と艤装組立作業場がありました。艤装とはできあがった船体に内装や最後の仕上げをすることです。海軍工廠造船部では造船船渠の回転率を良くするため造船船渠で建造され
旧呉海軍工廠監視哨旧呉海軍工廠造船部の裏にある小型の監視哨跡後部に入口があり銃眼が4つ付いています。何の目的で作られたのか不明ですが、旧呉海軍工廠造船部が見渡せる高台にあることから防空目的かと思われます。元々、監視哨は2つありましたが駐車場を作るため1つは取り壊されました。