柱島泊地(戦艦陸奥終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ
柱島泊地(戦艦陸奥終焉の地)山口県屋代島と柱島の間にある瀬戸内海の一部呉鎮守府と佐世保鎮守府は距離も近いため合同で作戦や訓練を行っていました。呉と佐世保の艦隊の待ち合わせに場所として使われたのがこの柱島泊地です。地理的には広島湾に位置するため呉の方が圧倒的に近いです。しかし、屋代
柱島泊地(戦艦陸奥終焉の地)山口県屋代島と柱島の間にある瀬戸内海の一部呉鎮守府と佐世保鎮守府は距離も近いため合同で作戦や訓練を行っていました。呉と佐世保の艦隊の待ち合わせに場所として使われたのがこの柱島泊地です。地理的には広島湾に位置するため呉の方が圧倒的に近いです。しかし、屋代
陸奥記念館山口県屋代島にあります。太平洋戦争中期の昭和18年6月、目の前の柱島泊地に警泊していた戦艦陸奥が突然爆発を起こして沈没し乗組員1122名が犠牲になる事故がありました。戦後、海底から引き揚げされた遺品等が展示されている戦艦陸奥の記念館です。実際に引き揚げられた軍需品・日用
大久野島忠海港の沖3kmに位置するリゾート島現在は「ウサギの島」として観光ガイドに載る人気のリゾート地ですが、かつて秘密裏に毒ガス兵器を製造していたことから「地図から消えた島」と呼ばれていました。大久野島は遺構は大きく分けて2種類が現存しています。1つは明治時代に外国艦隊が侵攻し
大平山公園(大平山砲台跡)大平山(おおひらやま)はとびしま海道の一つである下蒲刈島(しもかまがりじま)にある標高275mの山江戸時代から朝鮮通信使の寄港地として栄えた下蒲刈島ですが、太平洋戦争前は呉鎮守府より呉軍港要塞地帯に指定され地図から消される事もありました。太平洋戦争直前の
千田廟公園千田廟公園は広島市南区宇品御幸にある公園明治初期の広島県知事である千田貞暁(せんださだあき)の遺徳を称えるため作られた公園です。旧国泰寺村の一部も同じく千田知事を顕彰した『千田町』という地名があります。千田知事銅像兼宇品港築港記念碑千田貞暁は現在の鹿児島出身の幕末維新志
呉海軍工廠電気実験部跡アレイからすこじま公園(旧潜水艦桟橋)の通りから山手に入り呉海軍工廠員養成所跡を超えたところに旧呉海軍工廠の電気実験部がありました。『実験部』とは電気部以外の部にも置かれている部署で素材や製造の開発を行う開発部門です。呉海軍工廠の電気実験部では主に探照灯や通
ts by motyarutoyoutube主なジャンルBB劇場活動期間略歴 バトル淫夢投稿者、『【劇場版】迫真空手部の掟【バトル淫夢】』はGooglemapすら使いこなすBB劇場の最高峰。代表作 https://www.nicovideo.jp/watch/sm36185503
阿賀峠(呉越峠)呉と広の間に昔からある峠道軍港である呉と航空廠のある広の間には休山という非常に大きな山があります。明治22年に呉に海軍鎮守府が置かれるまでは呉と広の交通は休山を北に迂回する『阿賀峠』と呼ばれる細い道が使われていました。呉に鎮守府が置かれた後の明治33年、ここ阿賀峠
海友舎(旧海軍兵学校下士官集会所)海友舎は旧海軍兵学校の近くにある下士官集会所『下士官』とは兵と士官の間にある軍曹・伍長といった階級の兵士のことでこの施設は旧海軍兵学校の下士官のための福利厚生と娯楽の施設でした。江田島では珍しい洋風木造建築で、明治21年に海軍兵学校が築地から江田
江波山気象館(旧広島地方気象台)江波山にある昭和9年建築の鉄筋コンクリート製の気象観測施設当初の名前は『広島測候所』といい国泰寺村にあった気象観測の施設が移転してきたものでした。5年後の昭和14年に国営移管され文部省の『文部省中央気象台広島測候所』となります。昭和16年12月に太
弾丸列車計画の杭跡弾丸列車計画の杭跡は、戦前の長距離鉄道建設のために買収された用地跡昭和14年に計画された『弾丸列車計画』は正式名称を『広軌幹線』といい、当時日本の植民地であった朝鮮半島や満洲国、さらに昭和12年に勃発した日中戦争による中国大陸への輸送需要増加を受けて立案されまし
世界平和記念聖堂世界平和記念聖堂は市内市街地にある教会正式名称は『カトリック幟町教会世界平和記念聖堂』といい、ドイツ人神父フーゴー・ラッサールによって建てられたキリスト教の聖堂です。元々ここには明治35年に建てられた幟町天主公教会がありましたが、昭和20年8月の原子爆弾投下により
分析山分析山は旧呉海軍工廠の後ろにある山で太平洋戦争後期の昭和19年6月に応急機銃砲台が作られました。当初は13mm連装機銃2基のみでしたが、25mm連装機銃2基と25mm単機銃6基が追加され最終的に合計10基が配備されました。また、となりの串山と同じく空襲を避けて兵器製造を継続
大須山防空砲台跡大須山は江田島の北西部にある大須港の南に位置する山ここには太平洋戦争中に呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。大須山防空砲台は昭和16年に着工し昭和17年7月に竣工しました。標高259mの山ですが砲台跡があるのは標高200m付近です。砲台施設は林道を挟んで南側と北
平郡島平郡島(へいぐんとう)は山口県柳井市の南約20kmの伊予灘に浮かぶ人口約600人程の細長い島平地が少ないため主な産業は漁業と牧畜で島内には牛が放牧されており木造建物が多く残っているのどかな島です。駆逐艦梨慰霊碑平郡島中部の高月鼻と風無鼻の間にあります。駆逐艦梨は橘型駆逐艦の
Microsoft Flight Simulator 2020フライトトレーニング日本語解説私を含め、フライトシミュレーターの初心者の方は飛行機をどうやって飛ばせば良いのかよく分かんないと思うんですよね。それにいろんな機能がありすぎて、どういう時に何を使えば良いのかとか、そのあた
冠崎砲台跡冠崎(かぶらざき)は阿賀南にある集落で大入魚雷遠距離発射場跡の南にあります。集落の南に「観音崎」と呼ばれる小高い岬がありここに太平洋戦争中に防空砲台が置かれていました。冠崎砲台は戦艦大和を対空改装した際に余剰となった砲塔を使って作られた応急防空砲台で昭和19年11月に着
陸軍吉島飛行場跡中区南部の吉島にあった戦前では広島市唯一の飛行場元々太田川の中州にあった吉島地区は江戸時代から埋め立てが盛んな土地でした。明治・大正・昭和と何度も埋め立てが進み太平洋戦争前年の昭和15年にほぼ現在の海岸線まで埋め立てられました。その後、太平洋戦争中の昭和18年に陸
金毘羅公園(旧両城防空機銃砲台)大歳神社の下にある公園元々ここには讃岐出身の海軍工廠職人が作った金毘羅宮がありましたが大歳神社遷座の際に合祀され無くなりました。太平洋戦争中の昭和19年5月に防空機銃砲台が設置され『25mm連装機銃』3門が配備されました。砲台は大抵山の上など高いと
日新製鋼若葉クラブ(旧新宮防空機銃砲台)若葉町にある日新製鋼の若葉クラブここには太平洋戦争中の昭和17年に防空砲台が作られました。砲台は海岸吉浦本町線道路を挟んで東西に構築され西側が現在の若葉クラブのある高台にありました。西側には防空機銃が配備され昭和17年9月に『40mm単装機
戸田本店音頭の瀬戸の倉橋島側にある明治28年創業の老舗料亭創業120年以上は広島県内でも最古の類に入る料亭です。呉鎮守府をはじめ日本海軍の高官がよく利用していた料亭で、連合艦隊司令長官山本五十六も常連だったという名実ともに「海軍さんの料亭」です。また、海軍士官の手記等にもよく名前
幸之浦の防空壕跡幸之浦説教所の近くにあります。海上挺進戦隊の宿舎・燃料庫から徒歩8分のところにあります。現在は民家の用具入れになっています備考 毎年事故のあった4月15日に慰霊祭が行われる 神社に上がるには結構な数の階段がある 鯛の宮神社の下に旧海軍工廠長邸宅があるが個人所有の邸
本川小学校平和資料館(旧本川尋常高等小学校旧校舎)本川小学校(旧本川尋常高等小学校)は原爆ドームから相生橋を挟んで対岸にある「爆心地から1番近い学校」です。昭和3年竣工した旧校舎は広島市内初の鉄筋コンクリート製校舎で、地上3階地下1階のブロックプランにホールやアーチ形の正面玄関を
中野村聴音照射所跡広島市と東広島市の市境にある標高514mの東中倉山(大谷山)ここには太平洋戦争終戦まで呉鎮守府所属の防空施設である中野村聴音照射所がありました。中野村聴音照射所は太平洋戦争開戦前の昭和16年に着工し、開戦後の昭和17年4月に竣工しました。ここには空中聴音機や探照
板城村聴音照射所跡東広島市の大迫山(標高343m)にある呉鎮守府所属の防空施設ここには太平洋戦争中の昭和19年3月に呉鎮守府所属の特設見張所があり、空中聴音機と探照灯が配備されていました。空中聴音機とは敵機が襲来する際のエンジン音を捉えて索敵する兵器で、レーダー技術の遅れた日本で
己斐調整場送水ポンプ室昭和7年竣工の水道施設広島市水道開通当初、太田川から取水した水道水は牛田水源地で処理をされ送水されていました。しかし、ここ西広島まで水道が伸びてくると水圧が足らなくなり、また己斐・古田・草津・三篠など高台の住宅等にも配水する必要がでたため再度水圧をかけ直す『
吉浦宮花町の防空壕跡吉浦宮花町は戦前から海軍の燃料庫(旧海軍軍需部乙廻燃料置場)があった関係か防空壕跡が残っています。こちらは住宅地の中にある防空壕跡で、両側を石で補強してありますが高さは低く大人はしゃがんで入るのがやっとの大きさです。地元の人のよると「当時はもっと深く掘ってあっ
青山宿舎(旧呉鎮守府軍法会議所)の防空壕跡海上自衛隊青山宿舎の敷地内にある壕口跡ここには太平洋戦争終戦まで呉鎮守府法務部軍法会議所がありました。軍法会議所とは軍令や軍紀に違反した軍人を裁くための旧日本軍の司法機関です。防空壕跡と思われる壕口は3つありますが、防空壕なのかまたは隧道
介護リンク集介護リンク集工事中ですもうしばらくお待ちください介護のニュースサイト JOINTわかりやすく、介護関連のニュースをまとめているサイト最近の介護の動向を知りたい方は下記へどうぞhttps://www.joint-kaigo.com/介護サービス情報公表システム全国約21
女猫の瀬戸瀬戸(せと)とは海峡の意味で『女猫の瀬戸』は川尻町(本州)と下蒲刈島の間にある小さな海峡のことです。同じ瀬戸でも音戸の瀬戸と違ってここは海峡の幅が1.1kmあり東西の幅も実に7kmあります。海峡の本州寄りに小島があり、猫がうずくまっているように見えることから航海者の間で
広島逓信病院旧外来棟逓信省(ていしんしょう)とは明治時代に作られた通信や運輸を管轄する政府の省庁で、現在のNTT(旧電信電話株式会社)と郵便局を合わせたような事業を行っていました。広島市に広島逓信局が設立したのは大正8年のことでした。当時は電話はまだ一般的なものではなく郵便が主な
呉海軍工廠川原石魚雷調整場補給岸壁跡二川公民館の奥にあります。この辺りは海軍軍需部第三区と呉海軍工廠第八区があったところですがこの岸壁が何に使われていたのか不明です。コンクリートの質と金属の具合から戦前もしくは戦中のものと思われます。築地町は旧築地中央工場の辺りも海軍軍需部第二区
軍艦榛名出雲戦没者留魂碑小用港で大破し終戦を迎えた戦艦榛名と練習艦出雲の慰霊碑です。江田島の艦艇慰霊碑はおおむね終焉の地のそばにありますが、戦艦榛名と練習艦出雲は小用港を見下ろせる丘の上の公園に建立されています。元々ここは海軍秋月火薬庫の敷地であったのが理由の一つかと思われます。
御手洗町簡易水道配水池跡風待ち・潮待ちの港として栄えた大崎下島の御手洗歴史的な街並みが残る御手洗町並み保存地区から歴史の見える丘公園に登る途中に、かつての御手洗簡易水道の配水池跡があります。『簡易水道』とは農山漁村など小さな集落で101人以上5000人以下の人々へ給水することを目
国立病院機構賀茂精神医療センター(旧海軍賀茂病院)賀茂精神医療センターは太平洋戦争後期の昭和19年5月に竣工した海軍病院呉海軍病院の系列病院として着工当初は『呉海軍第三病院』と命名される予定でしたが海軍賀茂病院として開院します。その後、太平洋戦争末期の昭和20年4月に賀茂海軍衛生
二河川橋梁二河川橋梁(にこうがわきょうりょう)は二河川にかかる呉線の鉄道橋呉線で呉駅から西(広島駅方面)に向かうと最初に渡る鉄道橋です。具体的な建設時期は不明ですが、橋脚部分がレンガもしくはレンガ化粧で作られていることから、おそらく戦前に建設されたものと考えられます。呉線には他に
第六潜水艇遭難之碑鯛の宮神社の境内にあります。第六潜水艇は改ホランド級潜水艇として潜水艦黎明期の明治39年に就役しました。初の国産潜水艦として建造されましたが、特殊潜航艇を除けば国産潜水艦としては最小でお世辞にも性能が良いとは言えない艦艇でした。明治43年、岩国市装港沖で半潜航訓
平原浄水場低区配水池灰ヶ峰の南麓にある『呉鎮守府水道』の浄水場平原浄水場低区排水池は、同じ呉鎮守府水道の本庄水源地の関連施設として本庄水源地と同じく大正7年に操業を開始しました。当初本庄水源地は軍用水道である呉鎮守府水道の水源地として建設されたため呉市民は水道を使うことはできませ
旧澤原家住宅(三ツ蔵)旧長ノ木街道に面した国の重要文化財澤原家は江戸時代から続く呉市の庄屋でこの独特の外観の蔵も旧澤原家のものです。灰ヶ峰への入口という市街地寄りの場所にありますが、太平洋戦争末期の市街地への空襲では奇跡的に被害を受けませんでした。また、前蔵ばかり有名ですが江戸時
雑魚場疎開地跡雑魚場町(ざこばちょう)は、現在の広島市中区国泰寺町の一部と小町の一部の旧地名雑魚場町のとなりには広島市役所があります。太平洋戦争中の市役所は空襲時の消火・避難指揮所として機能するため、市役所への火災の延焼を防ぐ目的で雑魚場町は建物疎開地となりました。『建物疎開』と
二河川公園二河川沿いの呉湾に面した陸地の先端にある公園園内の庭園は明治時代に呉海軍工廠造船部第二船渠を建設する際に掘り出した岩で作られています。また、呉湾を挟んで海上自衛隊呉地方総監部練習艦隊司令部が反対側にあるため、自衛隊の艦艇を真横から見ることができるめずらしいポイントです。
呉海軍工廠職工殉職者各霊永供養塔養運寺の境内にあります。詳細不明ですが、碑文から見るに呉海軍工廠で勤務中に亡くなった職人を慰霊するため、大正5年に寄付によって建立された慰霊碑のようです。 備考 ・養運寺の入口は坂の上にあるのでわかりにくいかも ・夜間は境内
呉共済病院(旧呉海軍共済病院)呉共済病院は呉海軍工廠の医療機関として設立された病院当初は『海軍工廠職工共済会病院』といい、最盛期には約10万人が勤務する呉海軍工廠を医療面で支える病院として明治37年に作られました。呉は軍港という土地柄、海軍関連の病院が多数建設されましたがこの海軍
ダイクレ興産第2工場(旧砲熕部精密兵器工場)精密兵器工場は呉海軍工廠砲熕部の工場の1つ『砲熕部』とは海軍の兵器を生産する部署で、他の海軍工廠には無い呉海軍工廠のみに設置された独自部門です。この工場では艦艇に搭載する艦載砲や機銃の組み立てを行っていました。この辺りは明治22年に呉鎮
亀山神社亀山神社は古来から続く呉市の総鎮守創建時期は不明ですが御鎮座は飛鳥時代の大宝3年と伝えられています。当初は『大屋津日売(おおつひめ)神社』と呼ばれており家屋や木の神様の名前の神社でした。呉市の名前由来として船の材料となる呉材が多く採れたことからこの名前になったという説があ
殉国の塔旧呉海軍工廠を見下ろす鍋山第一公園にあります。「呉のひめゆりの塔」といわれるこの慰霊碑は、昭和20年6月の呉海軍工廠空襲により殉職した工員や軍人を慰霊する目的で建立されました。昭和20年6月の呉海軍工廠への空襲では計290機の米軍機が1289発の爆弾を投下し、犠牲者の数は
鍋桟橋跡鍋桟橋はかつて警固屋町にあった桟橋この辺りは中世のころから埋め立てが盛んに行われる場所で、当初はここも海でしたが明治43年に埋め立てられ鍋桟橋が作られました。鍋桟橋の利用者は倉橋島から呉海軍工廠へ通う島嶼部通勤者がほとんで全盛期には通勤ラッシュが起こるほど利用者がいました
警固屋(巡洋艦青葉終焉の地)巡洋艦青葉は佐世保鎮守府所属の青葉型重巡洋艦の1番艦として昭和2年に就役しました。昭和9年から呉鎮守府所属となった巡洋艦青葉は日中戦争から活躍し、太平洋戦争開戦後も緒戦から活躍した歴戦の勇者でした。太平洋戦争末期の南方での激戦にも生き残りましたが大破し
港湾監視所跡アレイからすこじま公園駐車場から宮原13丁目交差点の間にあります。いつごろ、どのような目的で作られたのか不明ですが、呉海軍工廠の後ろにあることから防空監視用か守衛用に作られたものと思われます。余談ですが、ここに配属された兵士たちからは「天蓋付きたこつぼ(屋根付き防空壕
アレイからすこじま公園(旧潜水艦桟橋)元々は明治28年に呉海軍工廠の前身である呉鎮守府造船部が神戸からここに移転された際、花崗岩で作られた切石積護岸が築かれたのが始まりです。そのころ烏小島(からすこじま)という小さな島が南西の沖にあり、その烏小島が現在の公園の名前の由来となりまし