「呉鎮守府」を含むwiki一覧 - 1ページ

海上自衛隊呉総監部(旧呉鎮守府) - 呉市周辺の遺構まとめ

呉鎮守府呉鎮守府は明治19年に制定された海軍条例に基づき設置された海軍の根拠地の1つ富国強兵の明治時代に、国防のため日本沿岸や海を5つの海軍区に分けて海軍の軍港を設置する計画が決まりました。呉鎮守府は横須賀の次に置かれた2番目の鎮守府で、佐世保鎮守府と同じ明治22年に開庁しました

入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎) - 呉市周辺の遺構まとめ

入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎)旧呉鎮守府近くにある呉鎮守府司令長官の邸宅呉鎮守府司令長官官舎は洋風建築と和風建築が一つの建物に見事におさまっているというめずらしい建物です。洋館は司令長官と来客用、和館は主に使用人のために使われていました。洋館部分は明治の日本海軍がお手本と

二河峡取水口(呉鎮守府水道) - 呉市周辺の遺構まとめ

呉鎮守府水道呉に鎮守府が置かれた理由は「島や高山に囲まれて守りやすく呉湾の水深が深く大型船の往来が容易である」という説が有力です。しかし、こと水道においてはあまり事情は良くありませんでした。元々この二河峡取水口は江戸時代に慢性的な水不足に悩んでいた地元の庄屋が、呉の名勝二河峡から

平原浄水場低区配水池 - 呉市周辺の遺構まとめ

平原浄水場低区配水池灰ヶ峰の南麓にある『呉鎮守府水道』の浄水場平原浄水場低区排水池は、同じ呉鎮守府水道の本庄水源地の関連施設として本庄水源地と同じく大正7年に操業を開始しました。当初本庄水源地は軍用水道である呉鎮守府水道の水源地として建設されたため呉市民は水道を使うことはできませ

石内浄水場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

石内浄水場跡「呉市で一番高い山」こと野呂山のふもとにある浄水場で『呉鎮守府水道』の1つ太平洋戦争末期になっても広海軍工廠と第11海軍航空廠の工業用水は不足しており、二級ダムから広海軍工廠と第11海軍航空廠への送水量増強のためここ石内に浄水場が造られました。石内浄水場は鬼坂調整池と

海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団) - 呉市周辺の遺構まとめ

新兵を教育する施設現在の海上自衛隊呉教育隊は太平洋戦争終戦まで『呉海兵団』と呼ばれる海軍の教育施設でした。呉海兵団の歴史は古く、明治22年の呉鎮守府開庁と同時に『呉鎮守府海兵団』として創設されました。翌明治23年に海兵団内に呉海軍軍楽隊が設置され、7年後の明治29年に呉海兵団へ改

眼鏡橋(海軍第一門跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

がこの道路の下には眼鏡橋という石造橋があります。眼鏡橋は清水川の土砂を呉湾に流さないための砂防堤として明治20年に海軍によって作られました。呉鎮守府開庁前に着工し呉鎮守府完成と同時に竣工しました。建設中は宮原村と和庄村の堺であったことから『境橋』と命名されましたが、アーチ橋であっ

宮原浄水場低区配水池 - 呉市周辺の遺構まとめ

宮原浄水場低区配水池宮原浄水場の近代的な施設の中でひと際目立つレンガ造りの建物宮原浄水場低区配水池は呉鎮守府開庁の翌年である明治23年に、軍用水道である『呉鎮守府水道』の一部として建設されました。初期の呉鎮守府水道は二河峡取水口から取水した水をこの宮原浄水場で処理し、海軍施設に導

地区別 - 呉市周辺の遺構まとめ

)呉駅周辺(中心部)呉駅周辺(中心部) 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館) 海上自衛隊呉総監部(旧呉鎮守府) 入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎) 海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所) 歴史の見える丘 戦艦大和建造ドック跡 海上

艦隊これくしょん -艦これ- 陽炎、抜錨します! - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

たが、既に進行中だった別メディアミックスと布陣が被っていたため*1、代わりに陽炎型と睦月型を勧められて現在の形になったとのこと。【あらすじ】呉鎮守府から横須賀鎮守府に突然異動となった駆逐艦娘「陽炎」は、転属早々第十四駆逐隊の嚮導艦(駆逐隊の指揮艦)を任されるが、そのメンツは一癖も

旧澤原家住宅(三ツ蔵) - 呉市周辺の遺構まとめ

が、太平洋戦争末期の市街地への空襲では奇跡的に被害を受けませんでした。また、前蔵ばかり有名ですが江戸時代からある前座敷も貴重な建築物で、初代呉鎮守府長官が呉鎮守府長官官舎が完成するまでこの前座敷を仮住居とした記録も残っています。今日では呉鎮守府開庁以前の呉市の文化遺産として非常に

東郷平八郎邸跡と東郷坂 - 呉市周辺の遺構まとめ

東郷平八郎邸跡明治23年から明治24年まで呉鎮守府参謀長として呉に在任していた東郷平八郎が住んでいた邸宅跡です。現在は空き地となっています。また、石造りの基礎がありますが東郷平八郎邸のものなのか不明です。離れ座敷離れ(はなれ)とは一定の広さを持つ屋敷にある付属建物。母屋とは別にあ

二級ダムと二級水源地 - 呉市周辺の遺構まとめ

二級ダム広と郷原町の境にある二級峡に作られた水道施設で『呉鎮守府水道』の1つ元々、二級峡には明治32年に建設された水力発電所がありました。しかし、太平洋戦争前になると広海軍工廠への送電量増強と工業用水の安定的な確保を求めた海軍の要請によりコンクリート製ダムの建設が決定します。ダム

三永水源地 - 呉市周辺の遺構まとめ

三永水源地東広島市の三永川にある『呉鎮守府水道』の1つ呉市からかなり離れていますがここも呉鎮守府水道の一つで呉鎮守府水道の中では最北の水源地です。昭和13年に慢性的な水不足に悩む呉市の水源として着工し太平洋戦争中の昭和18年に完成しました。作られた理由と時期が二級ダムによく似てま

三坂地水源地 - 呉市周辺の遺構まとめ

三坂地水源地海軍が作った軍用水道『呉鎮守府水道』の一つ呉鎮守府水道の水源地としてはめずらしく、ダムではなく地下水を水源とするさく井型(井戸)の水源です。三坂地水源地は、大正10年の呉海軍工廠広支廠建設と同時にその工業用水の水源地として築造されました。当初、海軍はここに3つのさく井

本庄水源地(本庄ダム) - 呉市周辺の遺構まとめ

本庄水源地(本庄ダム)呉市北部の焼山にある『呉鎮守府水道』の1つ呉に鎮守府が開庁された翌年に軍用水道である呉鎮守府水道が整備されました。しかし、日露戦争後、近代化を続ける呉海軍工廠への水道供給は不足しており、また呉に入港する海軍船舶に対する給水量も増加傾向にあったため海軍は新たな

呉医療センター(旧呉海軍病院) - 呉市周辺の遺構まとめ

国立病院機構呉医療センター(旧呉海軍病院)呉医療センターは呉市市街地にある総合病院元々は呉海軍病院といい呉鎮守府開庁の明治22年に海軍の病院として開院しました。呉は軍港という土地柄、呉鎮守府や海軍工廠関係の病院が多く作られましたがこの呉海軍病院は最も古い軍属病院になります。明治年

亀山神社 - 呉市周辺の遺構まとめ

に分類され地元の人からは「八幡さん」とも呼ばれています。元々は宮原村字亀山(現在の入船山記念館)の入船山に御鎮座されていました。明治19年に呉鎮守府開庁準備のため入船山は海軍用地として接収され軍政会議所が建設されることになり、亀山神社は明治23年に現在の場所に移転しました。移転後

二河公園 - 呉市周辺の遺構まとめ

ます。太平洋戦争末期の昭和20年7月第二次呉軍港空襲では、呉市役所の防空本部として使われました。現在は残っておらず記念碑が建てられています。呉鎮守府殉職者招魂碑駐車場にあります。明治26年から昭和20年までの呉鎮守府管下非戦闘員殉職者を祀る慰霊碑です。元々は呉海軍工廠の殉職者を慰

旧呉海軍工廠 - 呉市周辺の遺構まとめ

製造・調達・供給等を行う軍需工場の総称です。明治19年に制定された海軍条例に基づき海軍の根拠地である鎮守府が日本各地に決められ、明治22年に呉鎮守府が設置されます。呉鎮守府創設と同時に呉海軍工廠の原形である呉鎮守府造船部と呉鎮守府兵器部が設置されます。これは呉以外の鎮守府でも同様

長迫公園(旧海軍墓地) - 呉市周辺の遺構まとめ

長迫公園(旧海軍墓地)長迫公園は呉鎮守府開庁と同じ明治22年に和庄葬儀場として作られました。翌明治23年に海軍によって買収され『呉海軍墓地』となりました。以来、太平洋戦争終戦までの55年間呉鎮守府管理下で海軍軍人や軍属の墓地として使用されました。しかし、太平洋戦争末期の呉市街地へ

中野村聴音照射所跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

中野村聴音照射所跡広島市と東広島市の市境にある標高514mの東中倉山(大谷山)ここには太平洋戦争終戦まで呉鎮守府所属の防空施設である中野村聴音照射所がありました。中野村聴音照射所は太平洋戦争開戦前の昭和16年に着工し、開戦後の昭和17年4月に竣工しました。ここには空中聴音機や探照

安浦海兵団跡之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

安浦海兵団安浦海兵団は戦争後期に本土防衛のため呉鎮守府が設立した新兵教育組織呉鎮守府の新兵教育組織である海兵団は、すでに呉海兵団がありましたが国際情勢の緊迫化を受け、兵力増強のため兵員養成地の拡充が決定されます。昭和14年に安浦町が海兵団新設の候補地にあがりますが、誘致で大竹市に

海軍第二門跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

海軍第二門跡海軍第二門は呉海軍病院と現在の清水ヶ丘高等学校の間にあった市街地と呉海軍工廠の境界の衛門太平洋戦争終戦まで呉鎮守府や呉海軍工廠は軍用地であり市民は立入禁止でした。また、市街地と軍用地は塀で仕切られており現在と異なり自由に出入りすることはできませんでした。この海軍第二門

青山宿舎(旧呉鎮守府軍法会議所)の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

青山宿舎(旧呉鎮守府軍法会議所)の防空壕跡海上自衛隊青山宿舎の敷地内にある壕口跡ここには太平洋戦争終戦まで呉鎮守府法務部軍法会議所がありました。軍法会議所とは軍令や軍紀に違反した軍人を裁くための旧日本軍の司法機関です。防空壕跡と思われる壕口は3つありますが、防空壕なのかまたは隧道

戦艦大和建造ドック跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

旧呉海軍工廠造船部呉海軍工廠造船部は太平洋戦争終戦まであった海軍の造船工場その歴史は呉鎮守府開庁と同じ明治22年に『呉鎮守府造船部』として海軍艦艇の建造や修理を行うため設置されたのが始まりです。現在のJMUでも設計部と製造部に分かれていますが、この時からすでに計画科と製造科が置か

海上自衛隊呉補給所被服倉庫(旧呉鎮守府軍需部需品庫) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上自衛隊呉補給所被服倉庫(旧呉鎮守府軍需部需品庫)海上自衛隊呉総監部の敷地内にある遺構旧呉鎮守府の時代からある被服倉庫で長さ35.5m幅8.2mの2階建てレンガ造りの倉庫です。当初は4棟ありましたが現在は3棟のみ現存しています。被服とは兵士たちの軍服・軍靴・軍帽・ベルト等の軍服

呉水交社跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

衛隊幸宿舎にあった海軍の福利厚生施設呉水交社は海軍高級軍人や士官のための宿泊・娯楽などの施設で、呉市街地を一望できる清水川沿いの高台に位置し呉鎮守府司令長官官舎とも隣接していました。また、海軍将校の親睦や研究の場として知られており、海軍記念日をはじめとする海軍の祝賀行事はほとんど

板城村聴音照射所跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

板城村聴音照射所跡東広島市の大迫山(標高343m)にある呉鎮守府所属の防空施設ここには太平洋戦争中の昭和19年3月に呉鎮守府所属の特設見張所があり、空中聴音機と探照灯が配備されていました。空中聴音機とは敵機が襲来する際のエンジン音を捉えて索敵する兵器で、レーダー技術の遅れた日本で

淡水小学校跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

淡水小学校跡淡水小学校は、呉鎮守府海軍将校の子供や家族を教育する学校として創設されました。当初は『呉鎮守府軍政会議所附設私立淡水小学校』といい軍政会議所兼水交社が建てられた翌年の明治23年に、軍政会議所附属舎を校舎として使用しました。現在の小中高校と同じく高等科・尋常科・附属の幼

国安牧場(海軍航空隊可部基地飛行場跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

め滑走路を建設しやすいことが理由でした。正式名称は『海軍航空隊可部基地飛行場』ですが隠語で「国安牧場」や「秘匿国安牧場」と呼ばれました。海軍呉鎮守府の命令により昭和20年6月下旬に着工しました。着工から完成まで約20日の突貫工事で、建設には呉鎮守府設営隊の他に三次市や庄原市の周辺

海上自衛隊呉警備隊(旧呉水雷団) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上自衛隊呉警備隊(旧呉水雷団)呉水雷団は呉鎮守府所属の部隊の一つ呉水雷団は軍港呉の防備と機械水雷の敷設・掃海作業・防潜網の設置などを担当しており、麾下に水雷艇隊と水雷敷設隊を有していました。当初は『呉水雷隊』といい呉鎮守府開庁翌年の明治23年に創設されました。その後、明治29年

萬願寺 - 呉市周辺の遺構まとめ

船部船渠の中まで見えるため用もないのに来ると憲兵が疑ってきたそうです。ここからなら呉湾に錨泊している船の位置、造船部船渠に入渠している艦艇・呉鎮守府・呉海軍工廠・海兵団練兵場・大麗女島・潜水学校まですべて一望できます。ただし、太平洋戦争終戦まで民間人は下士官兵集会所より海岸側に入

牛田浄水場(旧牛田水源地) - 呉市周辺の遺構まとめ

た。広島軍用水道は全国で5番目の近代水道として完成し、特に外国船に給水する港以外では初めての軍用水道でした。ちなみに、軍用水道としては呉市の呉鎮守府水道から7年遅れて完成ですが、呉鎮守府水道が市民に「余剰分」として水道を提供したのは明治36年と遅かったのに対し、広島市の広島軍用水

海上保安大学校(旧呉海軍工廠火工部) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上保安大学校(旧呉海軍工廠火工部)現在は海上保安官を育成する学校ですが終戦までは呉海軍工廠の一部でした。明治22年の呉鎮守府開庁と同時に呉鎮守府吉浦火薬庫がここに置かれたのが始まりです。その後、明治36年に対岸に呉海軍工廠が建設されると呉海軍工廠造兵部第六工場の火薬庫となりまし

戸坂取水場(旧戸坂水源地) - 呉市周辺の遺構まとめ

戸坂取水場(旧戸坂水源地)太田川沿いにある水道施設で『呉鎮守府水道』の1つ戸坂水源地は呉市の慢性的な水不足を解消するため、広島県一の流水量を誇る広島市の太田川に海軍によって作られた水源地です。二級ダムと同じ太平洋戦争開戦の昭和16年着工ですが、こちらは1年遅れて昭和19年竣工とな

高烏台公園(高烏台砲台跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

には大きく分けて2種類の砲台跡があります。1つは明治34年に陸軍が広島湾要塞の1つとして築いた『高烏台砲台』。もう1つは陸軍砲台廃止後に海軍呉鎮守府が昭和16年に呉防衛のために転用構築した『高烏台防空砲台』です。現在、陸軍時代の砲台跡は公園となっているため多数残っていますが、海軍

大浦崎公園(P基地跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

基地跡)大浦崎公園は倉橋島の北東にある半島ここには太平洋戦争中に「P基地」と呼ばれる特殊潜航艇の工場や搭乗員の訓練施設がありました。正確には呉鎮守府第二特攻戦隊と呉鎮守府第十特攻戦隊大浦突撃隊、それに呉海軍工廠造船部大浦分工場を合わせてP基地と呼ばれていました。呉海軍工廠造船部大

呉湾 - 呉市周辺の遺構まとめ

水路軍機第232號 呉湾昭和7年に海軍省水路部から発行された海軍の軍事機密が記載された呉湾の地図当時の市販地図では白く塗りつぶされている呉鎮守府・海兵団・水雷団・軍需部・海軍工廠引き込み線・二河川より海側が記載されています。さらに、太平洋戦争中の昭和19年に艦艇の錨泊場所も追記さ

両城の200階段 - 呉市周辺の遺構まとめ

両城の200階段呉市の隠れ名所明治22年の呉鎮守府開庁以来、呉市の人口は増加の一途をたどり最盛期の昭和18年には広島市を超えて40万人に達しました。しかし、坂の街ゆえ平地部分は海軍施設や行政機関などの建物が占めており、市民の多くはこのような急傾斜に住宅を建てて生活していました。こ

大竹海兵団跡之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

大竹海兵団大竹海兵団は太平洋戦争直前の昭和15年に設立された海軍の新兵教育組織呉鎮守府の新兵教育組織である海兵団は、すでに呉海兵団がありましたが国際情勢の緊迫化を受け、兵力増強のため兵員養成地の拡充が決定されます。昭和14年に大竹市が海兵団設置の候補地にあがり、誘致に非常に積極的

エラー猫/エラー娘(艦これ) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

された後タイムリミットそのものが撤廃された(難易度変更に伴うギミックリセットは実装された)。2016年冬イベント『出撃!礼号作戦』開始直後に呉鎮守府サーバがプレイ目的外のアクセス及び国外からの攻撃性の強い不正アクセスにより陥落という事態が発生。編成したら落ちる、補給したら落ちる、

ダイクレ興産第2工場(旧呉海軍工廠砲熕部精密兵器工場) - 呉市周辺の遺構まとめ

工廠には無い呉海軍工廠のみに設置された独自部門です。この工場では艦艇に搭載する艦載砲や機銃の組み立てを行っていました。この辺りは明治22年に呉鎮守府造船部が設置され以降急速に発展しましたが、この建物は明治36年の呉海軍工廠発足と同時に竣工しました。工場はヨーロッパの駅舎をモチーフ

海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校) - 呉市周辺の遺構まとめ

兵学校」と称される海上自衛隊の学校で、呉の海上自衛隊呉総監部と並んで映画のロケ地としてもよく登場します。歴史もかなり古く、前身の海軍兵学校は呉鎮守府より早い明治21年に海軍の士官を養成する教育機関として開校されました。当初、海軍兵学校は東京の築地にありました。しかし繫華街の近い築

呉鎮守府とはなんですか? - クイズwiki

A. 呉鎮守府は、大日本帝国海軍の鎮守府の1つです。広島県呉市に所在し、呉海軍工廠(海軍工廠)を運用していました。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C

甲山防空監視哨跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

島市に原子爆弾を投下したB-29爆撃機エノラゲイ号を発見した防空監視哨の一つで、原子爆弾投下時の爆音と閃光も目撃しています。発見後、ただちに呉鎮守府及び陸軍中国軍管区に報告しましたが2機(実際は観測機を含め3機)との報告だったため、偵察と誤認され空襲警報の発令が遅れてしまい大きな

楠田(空母鳳翔終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

翔の終焉の地です。空母鳳翔は横須賀海軍工廠で建造された空母で、起工時から航空母艦として設計された「日本海軍最初の空母」でした。昭和12年より呉鎮守府所属となりましたが、太平洋戦争開戦時にはすでに旧式化しており戦争中はほとんど瀬戸内海で過ごしました。戦争末期は他の艦艇と同じく燃料不

大久野島(東京第二陸軍造兵廠忠海製造所跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

クリート製の防空壕ですがこの防空壕を使えるのは幹部だけです。一般工員の防空壕は地面に穴を掘っただけの横穴式防空壕(通称「タコツボ」)でした。呉鎮守府の裏にある防空壕跡に似ています。南部探照所跡芸予要塞時代の遺構探照灯とはレーダーが無かった明治時代の夜間の索敵施設です。半地下の探照

柱島泊地(戦艦陸奥終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

柱島泊地(戦艦陸奥終焉の地)山口県屋代島と柱島の間にある瀬戸内海の一部呉鎮守府と佐世保鎮守府は距離も近いため合同で作戦や訓練を行っていました。呉と佐世保の艦隊の待ち合わせに場所として使われたのがこの柱島泊地です。地理的には広島湾に位置するため呉の方が圧倒的に近いです。しかし、屋代

大須山防空砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

大須山防空砲台跡大須山は江田島の北西部にある大須港の南に位置する山ここには太平洋戦争中に呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。大須山防空砲台は昭和16年に着工し昭和17年7月に竣工しました。標高259mの山ですが砲台跡があるのは標高200m付近です。砲台施設は林道を挟んで南側と北