第21章 (前) 博多弁および福岡弁で
(1970-90年代の福岡市中央区〜博多区にて習得)
キツネの出てきたとは、そのときやった。
「何しよらすと」とキツネがいった。
「何もしよらんですばってん」と王子くんはていねいにへんじをして、ふりかえったけど、なんにもおらんやった。
「ここよ。」と、こえがきこえる。「リンゴの木の下たい……」
「どなたさんでござらすでしょうか?」と王子くんはいった。「えらいかわいらしかばってん……」
「おいら、キツネ。」とキツネはこたえた。
「こっちぃきて、いっしょにあそばれんですか?」と王子くんがさそった。「ぼく、ひどくせつないとです……」
「あーね、いっしょにはあそべんっちゃが」とキツネはいった。「おいら、きみになつけられとらんけんが。」
「あ! すまんでした。」と王子くんはいった。
でも、じっくりかんがえてみて、こうつけくわえた。
「〈なつける〉って、どげんな事でっしょう?」
「このあたりのひとやなかごたぁるね。」とキツネがいった。「なにかさがしよるっちゃろうか?」
「ひとばさがしよるです。」と王子くんはいった。「〈なつける〉っちゃ、どげんこつでっしょ?」
「ひと。」とキツネがいった。「あいつら、てっぽうばもって、かりばしよる。いいめいわくやが! ニワトリもかいよるばってん、そいだけがあいつらのとりえたい。ニワトリはさがしよると?」
「うんにゃ。」と王子くんはいった。「友だちばさがしよるですよ。〈なつける〉っちゃ、どげんなことでっしょう?」
「もうだれもわすれっしまったばってん、」とキツネはいう。「〈きずなばつくる〉っちゅうことよ……」
「きずなばつくるですか?」
「そげんたい。」とキツネのいう。「おいらにしてみりゃ、きみはほかのおとこの子10まんにんと、なんのかわりのないっちゃが。きみのおらんならつまらんっちゅうこともない。きみでちゃ、おいらのおらんやったらつまらんっちゅうことも、たぶんないっちゃないかな。きみにしてみりゃ、おいらはほかのキツネ10まんびきと、なんのかわりもないっちゃけん。ばってん、きみのおいらばなつけんしゃったら、おいらたちはおたがい、あいてにおってほしい、っておもうようになるけん。きみは、おいらにとって、せかいにひとりだけになる。おいらも、きみにとって、せかいで1ぴきだけいなる……」
「わかってきた。」と王子くんはいった。「いちりんの花のあるっちゃけど……あの子は、ぼくをなつけたんやないかとおもう……」
「そげんかしれんね。」とキツネはいった。「ちきゅうじゃ、どげんなことでちゃおきよるけん……」
「えっ! ちきゅうの話やなかですよ。」と王子くんはいった。
キツネはとってもふしぎがった。
「ちがう星の話?」
「うん。」
[翻訳者紹介]
しぇからーしか
1972年 福岡市生まれ 戦後引揚の家庭に産まれた事もあり家庭内では標準語の生活。小学校で初めて方言に接するが、当時はまだ本格的な訛り(「せんせい」を「しぇんしぇい」など)を維持する年配者が居たが、明らかな減少傾向にあった。また、博多弁と福岡弁の差も薄まりつつあったが、中洲を越えるとまだ明確な違いが感じられた。
そしてKBCラジオ「パオ〜ンぼくらラジオ異星人」により中高生の共通の方言として「バリ」や「ちかっぱ」などが定着したほか、若者を中心とした北部九州の方言の共通化が進んだように思う。
研究職であり文章を書く機会、人前で話す機会が多いが、何十年経過しても訛りやイントネーションはもとより助詞(が、の、に、を)や「行く」と「来る」の使い分けの曖昧さ、否定時に反射的に出る「んにゃ」という福博由来の特徴を周囲から指摘され続けている。
[ことばの解説]
登場人物の関係性や距離感を表現するにあたり、博多弁や福岡弁における敬語的言い回しを反映させたかったが、話し言葉を文字に起こした際の違和感に悩まされた。何より私自身が東京在住で、現在進行形の博多弁、福岡弁の言い回しから離れているため、現在の目から見ると違和感を覚える部分も多いかもしれない。

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