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春分_郷心というもの
チュー・バイは玉門を離れて以降、山海衆の残党を追い続けていた。残党の根城の一つに辿り着いたチュー・バイは、ある少年と出会う。彼女はその少年がそこに迷い込んでしまっただけであることを確かめた後、彼を家まで送り届けることにした。
母さん、親父殿はまた遠出するの? 今回はどれくらいで帰ってくるの?
凍てついた川面も、そろそろ解ける頃だ。今年は雨量もあって、干ばつも洪水もない一年になりそうだ。
川上に開拓したばかりの土地はそれほど広くはなかったが、水稲を植えれば、一家が食べていくだけの収穫は見込めるだろう。
母さん、もう「商売」なんてしなくていいって、親父殿に言ってあげたらどうかな? 私は新しい服も綺麗な飾りもいらないもん。家族がみんなで無事に暮らせることの方が大事だよ。
それに、少しだけ怖い……
貧しき一郷富みし一郷に来たりて、青苗と荒草と一頭に長ず。
芒鞋の踏破すること千里にして、山の高きと水の闊(ひろ)きをして一郷を成す。
[慌てふためく少年] ハァ──ハァ──
[慌てふためく少年] この先は……崖か……
[慌てふためく少年] クソッ、クソッ! これじゃ逃げらんないじゃん……
[慌てふためく少年] いや、慌てちゃダメだ……あの女に勝てないかもしれないけど、途中に仕掛けておいた罠はそれなりに足止めになるはず。
[慌てふためく少年] あいつをとっ捕まえたら、嫌ってほど痛い目を見せてやらなきゃ。この俺を見くびりやがって……
[チュー・バイ] とうとうバテましたか?
[慌てふためく少年] あんた、どうやって──
[慌てふためく少年] 来るな!
[チュー・バイ] 幼い割にはなかなか小細工が達者ですね。しかし狩りの師匠からこう教わりませんでしたか? 野獣を仕留める罠を人に対して使ってはならない、と。
[チュー・バイ] 万が一、他の誰かが罠にかかりでもしたら、故意に人を傷つけた罪も加わるんですよ?
[慌てふためく少年] 笑わせんな……何が人を傷つけた罪だ。俺はもっとたくさんの悪事を働いてきたんだ……いちいち挙げてたらキリがないくらいさ!
[チュー・バイ] それはつまり、ここで殺されたとしても、自業自得だと?
[慌てふためく少年] そうだ!
[慌てふためく少年] いや……違う違う!
[慌てふためく少年] やめろ、来んなって!
[慌てふためく少年] この袋が見えるか? こいつは爆薬だ。あと一歩でも近付いたら、導火線に火をつけるからな。あんたの武術がどんなにすごくても、こいつが爆発すりゃ俺たち二人とも木っ端みじんさ!
[チュー・バイ] ……
[チュー・バイ] ではこれ以上は近寄らないので、私の質問に答えてください。
[慌てふためく少年] 俺から何か聞き出せると思うなよ!
[チュー・バイ] 洞窟内のならず者どもとは、どうやって知り合ったんですか?
[慌てふためく少年] どうやっても何も、俺が奴らの頭(かしら)だよ。
[慌てふためく少年] 手下どもは全員あんたにやられちまったけど、いい気になんなよ。あいつらの仇はこの俺が取ってやるからな!
[チュー・バイ] 頭? あなた、いくつですか?
[慌てふためく少年] ハッ、子供だからって舐めてんじゃねぇぞ? この辺りの村や町で訊いてみな。この俺、「方小石(ファン・シャオシー)」様の悪名を知らない奴なんて一人もいないぜ!
[慌てふためく少年] 俺様の偉業を聞いたら、死ぬほど驚くぞ!
[チュー・バイ] 馬鹿馬鹿しい……
半日前
[慌てる山海衆メンバー] シャオシー! おい、シャオシー!
[ファン・シャオシー] なんだなんだ、どっかのバカが敵討ちにでも来たの?
[ファン・シャオシー] ついに、よその連中とケンカをおっぱじめる時が来たんだな? 今度は俺も連れてってよ!
[慌てる山海衆メンバー] バカはお前だ! 玉門に行った奴らが、どういうわけだか鬼みてぇに強い女に目をつけられちまったんだよ。ほとんどの奴らがその女の手にかかっちまった!
[慌てる山海衆メンバー] 荷物をまとめてる暇もねぇ、今すぐ逃げるぞ!
[ファン・シャオシー] 何言ってんだよ。相手はたった一人なんでしょ?
[ファン・シャオシー] 俺が勝負を挑んだ時、あんたらにゃ全然歯が立たなかったんだぜ。それが全員でかかってもたった一人を倒せないなんて……
[慌てる山海衆メンバー] うるせぇ!
[慌てる山海衆メンバー] 無駄口叩いてんじゃねぇ。お前が世話してた駄獣はどこだ!?
[ファン・シャオシー] ああ、あれね……もう売っちゃったよ。
[慌てる山海衆メンバー] 売ったぁ!?
[ファン・シャオシー] 食糧に換えてこいって言ったのはあんただろ?
[慌てる山海衆メンバー] アホか! 俺は駄獣に乗って町まで行って、俺らが奪ってきた宝石を換金しろって言ったんだ。なのに駄獣まで売っちまっただと!?
[ファン・シャオシー] 宝石ってあの石ころのことかよ? 肉屋の親父はあんなもんで肉を分けちゃくれねーよ。
[ファン・シャオシー] でも、あの駄獣はがっしりした体つきをしてるからって、良い値段で買ってくれたんだ。半分を金に換えて、もう半分は干し肉と交換してもらった。
[慌てる山海衆メンバー] てめぇ──!
[ファン・シャオシー] 俺たちが山ん中にこもり始めてから、もうずいぶん経ったよ? 駄獣なんか飼ってたって、俺より大飯食らいだし、今度は牙獣をおびき寄せてきちゃうか分かんないし……
[慌てる山海衆メンバー] *炎国スラング*、こんな役立たずのガキを仲間に入れたのが運の尽きだ。このガキ、全部てめぇのせいだぞ! ぶっ殺してや──
[チュー・バイ] なぜ子供が……?
[ファン・シャオシー] だ……誰だよあんた……?
[チュー・バイ] 負傷はしていないようですし、玉門の件とは別口のようですね。
[チュー・バイ] 山海衆が極悪非道な連中だというのは知っていましたが、まさかこんな子供まで巻き込むなんて……想像以上に見境がないようです。
[ファン・シャオシー] 何言ってんだか分かんねーよ!
[ファン・シャオシー] あんた、もうちょっと利口になった方がいいよ。今日あんたが俺の手下どもを捕えたことについては、大目に見てやってもいいよ。
[ファン・シャオシー] 大人しくそこをどいてくれれば、あんたとは会わなかったことにしとく。だから今後俺たちはお互いの道を行こ──
[チュー・バイ] 私は行っていいとは言ってませんが。
[ファン・シャオシー] 寄るなっつってるだろ!
[ファン・シャオシー] 警告しとくぜ。この爆薬は……
一陣の風が吹き抜けるのを少年が感じた時には、既に懐の布袋は断ち切られ、中身の干し肉などが地面に散らばっていた。
散らばった物の中には、木札でできたお守りをぶら下げた銑鉄製の鍵があった。木札には「謀善村(ぼうぜんそん)」という三文字が手書きの赤い文字ではっきりと書かれていた。
[チュー・バイ] お守り……謀善村?
[ファン・シャオシー] 返せよ!
[チュー・バイ] これ、あなたの家の鍵ですか?
[ファン・シャオシー] あんたには関係ねーだろ!
[チュー・バイ] ……帰る家を持っている子供なら、尚更あちこちぶらつくのはよくありません。
[チュー・バイ] まだ幼いから、自分がどういう類の人間と関わっているのか分からないのは仕方ないですが……せめて善悪の区別くらいはつけなくてはいけませんよ。
[チュー・バイ] たとえ奴らの陰謀に深く関わっていなかったとしてもです。万が一この先、奴らの仲間があなたの元を訪れでもしたら、どうなるか分かりますか?
[ファン・シャオシー] 善悪の区別がなんだって? あんた俺に説教するなんて何様だよ。
[チュー・バイ] このまま近くの役所に引き渡して、自分で後始末をつけさせても一向に構いませんが。
[チュー・バイ] 私としても、それは面倒ですね……
[チュー・バイ] 家まで送って、家族に引き渡すとしましょう。
[ファン・シャオシー] 嫌だ!
[ファン・シャオシー] 死んでも帰らないからな!
[チュー・バイ] あなたが決めることではありません。
少年は腰から短刀を引き抜いた。腕はまっすぐに伸ばしていたが、その切っ先はぷるぷると震えている。
[ファン・シャオシー] お、俺に構うんじゃねぇー!
[ファン・シャオシー] 俺は漢なんだ。死んだら死んだ、だ。誰が命惜しさに頭なんて下げるもんか!
[ファン・シャオシー] 何と言われようと、ついていく気はねぇかんな。どうしてもって言うなら、俺を殺してから──
[チュー・バイ] いいでしょう──
女は間違いなく少年から二メートル以上離れた場所にいたが、次の瞬間には彼女の涼やかな声が、少年の耳元で響いていた。それと同時に少年の体半分が痺れて動けなくなった。
少年が反応するよりも早く、喉元にぴたりと氷のように冷たい刃があてがわれていた。
[ファン・シャオシー] ……
[チュー・バイ] 威勢のいい啖呵を切っても、死ぬのは怖いと見えます。
[チュー・バイ] 良いことですね。そこまで愚かでもないらしい。
[チュー・バイ] 人は自分の言葉に責任を持たなくてはなりません。大口を叩くのは誰にでもできますが、幸運とは誰にでも訪れるものではありませんよ。
[ファン・シャオシー] 俺を……どうするつもりなの……?
[チュー・バイ] 案内をしなさい。家まで送ります。
ここは山に入る前の最後の町。外からの者が足を休める客桟(きゃくさん)は、一軒きりだが存在していた。
そう広くない客桟の隅の方に、二人は腰を下ろした。
席に着くや否や、左右をきょろきょろと見回す少年の姿を、隣の客が不審そうな目で見つめる。
チュー・バイは、事も無げにテーブルの上に剣を置いた。
[チュー・バイ] 助けは来ません。諦めなさい。
[ファン・シャオシー] はいはい、分かってるっての。毎度毎度その物騒なもん見せつけて脅かすなよ。
二人が知り合ってから既に半月。追いかけっこや、すったもんだを繰り返している内に、両人の間にはある種の「暗黙の了解」が生じていた。
[店員] 町を出てまっすぐ北に歩き、荒れ果てた林を抜ければ、ずっと北の方に河が見えるはずです。その河を渡ると山間部に入ります。その山には道が一本しかありませんから、道沿いに行けば大丈夫です。
[店員] 山には村がいくつかあるはずなんですけど、確か近年は引き払ったところが多いんじゃなかったかなぁ。お探しの「謀善村」ってのがまだ残ってるかどうかは分かりませんね。
[チュー・バイ] 大体あとどれくらいの道のりですか?
[店員] 山道は歩きにくいですからね。急いでも一週間くらいかかるんじゃないでしょうか。
[店員] 春先で気温も高くなってきて、野獣が活動し始めてる頃です。道中は十分注意してくださいね。
[チュー・バイ] ありがとうございます。
[チュー・バイ] 「江湖で己を試すため」に出てきたと言っていましたが、さほど家から遠く離れたというわけではなさそうですね……てっきりわざと私を反対の方へ向かわせることくらいはすると思っていました。
[ファン・シャオシー] ついてなかったんだよ。江湖――世間ってやつはとんでもなく広いのに、故郷から外に出てあんま離れない内に、あんたみたいな災難にぶち当たったんだから……
[ファン・シャオシー] それに俺はバカじゃないからね。人けのない場所へ連れて行ったりして、飢え死にするわけにゃいかないだろ?
[ファン・シャオシー] 逃げるにしたって、何か別の方法を考えるよ。
[チュー・バイ] 案外、分別がありますね。
[チュー・バイ] まずは食事を取りましょう。町を出たら、次にまともな食事にありつけるのはいつになるか分かりません。
[チュー・バイ] 食べたいものがあれば、自分で頼んでください。
[ファン・シャオシー] 何でもいいの? あんたが払ってくれるんだよね?
[チュー・バイ] 手持ちはあまり多くありません。もし足りなければ、あなたをここに置いて皿洗いでもさせます。
[店員] お客さん、ご冗談を。こんな片田舎の料理屋で出せるのは、腹を膨らます程度のものしかありませんよ。
[ファン・シャオシー] チッ、遠慮なんかしないからね。品書き見せてよ!
[ファン・シャオシー] これと、これと、あとこれ……全部出して!
[店員] お客さん、お二人でこんな量を頼んでも……
[ファン・シャオシー] (お茶を使ってテーブルに文字を書く)
[店員] え……?
[ファン・シャオシー] (「誘拐された」)
[店員] ──!
[ファン・シャオシー] (「役人に知らせて」)
[チュー・バイ] 注文は終わりましたか?
[ファン・シャオシー] うん、とりあえずこれでお願い!
[店員] わ……分かりました……
[チュー・バイ] どこへ?
[ファン・シャオシー] 便所だよ。ついて来る?
[チュー・バイ] ……
[チュー・バイ] 妙なことは考えないように。
[店員] 先ほど子供がこっそり伝えてきたんです。自分は誘拐されたと……
[店員] 入ってきた時には特におかしい点はありませんでした。ごく普通の姉弟とばかり……どういうことなのかは分かりませんが……
[役人] その者たちはどこに?
[チュー・バイ] ……
[ファン・シャオシー] ふぅ──
[ファン・シャオシー] ここまで来れば……あの女も追いつけないだろ……
[ファン・シャオシー] ふん! 俺を捕まえようなんて、一昨日きやがれってんだ。
[ファン・シャオシー] ほんとツイてねー……
[ファン・シャオシー] 何が「山海衆」だ。てっきりすごいでっかい組織に入れたと思ったのに、まさかたった一人にやられちゃうなんて。その上、俺まで命からがら逃げ延びるハメになったし……
[ファン・シャオシー] 一銭も稼げなけりゃ、武術も学べなかった。何とか持ち出した干し肉も、あの女に台無しにされちゃったしな……
ファン・シャオシーはその場に座り込んだ。硬く冷たい氷のような地面が彼を出迎えた。
さらに二言三言罵声を上げた後、彼の腹から大きな音が鳴った。
身一つで江湖を渡り歩く、空きっ腹の少年。その頭上には澄み渡るような空、足下には大地が広がっている。
[ファン・シャオシー] どうせならタダ飯を食ってから出てくればよかったなぁ。ここじゃどこで食いもん探したらいいかも分かんねーや……
[チュー・バイ] 三度目はないと言ったはずですが。
[ファン・シャオシー] あんたどうやって──
[チュー・バイ] 私の我慢にも限界があります。
[ファン・シャオシー] どうして放っといてくれないんだ!?
[チュー・バイ] 子供を一人荒野に放っておいたら、命を落とすでしょう。
[ファン・シャオシー] 死ぬ時ゃ死ぬんだ。あんたには関係ない!
[ファン・シャオシー] 子供の頃から、俺の生死に構う奴なんて誰もいなかったのに……
[チュー・バイ] 自分の命を粗末にするような者の生死に構う人が、いるとでも思っているんですか?
[ファン・シャオシー] あんたに何が分かる……
[ファン・シャオシー] 子供の頃からあちこち流れて、誰の手も借りず一人で生きてきたことなんてないくせに……
[チュー・バイ] ……
[ファン・シャオシー] 善人ぶるなよ! あんたみたいな腕っぷしだけの剣客に、何が分か──
[ファン・シャオシー] ──!
振り返った時、少年はこの林の中で腹を空かせている生き物が自分だけではないということにようやく気付いた。まだらに落ちた木々の影の中から、一頭の牙獣がゆっくりとその姿を現したのだ。
牙獣の真っ赤な目玉は、まるで夜闇に浮かぶ蝋燭の明かりのように見えた。低いうなり声が草木を震わせる。
[ファン・シャオシー] た、助け──
[チュー・バイ] 動くな!
[ファン・シャオシー] 動いてなんか……
[チュー・バイ] 声を出すな。駆け出したりもするなよ。奴に背を向けてはだめだ。
[チュー・バイ] 慌てず、ゆっくりこっちに来い、私の後ろへ……
[ファン・シャオシー] そ……そんなこと言われても……
[チュー・バイ] 危ない──
足元の柔らかい落ち葉を踏んだせいか、あまりの緊張からか、少年はよろめいて地面に倒れ込んでしまった。
牙獣は恐怖の匂いを嗅ぎつけ、捕食のチャンスを逃さなかった。牙獣が勢いよく飛び出したのと、剣客がひと呼吸に前へ踏み出したのは、ほぼ同時であった。
戦場で向けられる鋭い刀剣に比べれば、牙獣の爪などチュー・バイにとっては何の脅威にもなり得ない。
しかしそれは、背後に守るべき子供がいなかった場合の話だ。
[チュー・バイ] ほら、食べておきなさい。
[チュー・バイ] 干し肉を台無しにしたお詫びに、獣肉を焼きました。
[ファン・シャオシー] 大丈夫なの……?
[チュー・バイ] というと?
[チュー・バイ] 牙獣に引っかかれた傷のことでしょうか? それとも、あなたが私の機嫌を損ねた件ですか?
[ファン・シャオシー] これ……あげる。
[ファン・シャオシー] 親父から教わって作った薬なんだ。親父は狩りの時にいつもこれを持ち歩いてた。野獣の引っかき傷とか噛み傷にすごく効くんだよ。
[チュー・バイ] これが毒薬ではないという保証は?
[ファン・シャオシー] ……
少年は短刀を引き抜くと、腕にやや深い傷を作り、薬瓶から粉末を取り出して傷口につけた。
痛みに歯を食いしばったが、声を上げることはなかった。
[ファン・シャオシー] これで信用できる?
[チュー・バイ] ……
[ファン・シャオシー] グズグズすんなよ。俺はあんたのことを侠客だって認めてやったんだぞ。
[ファン・シャオシー] ふん、牙獣の肉ってこんな味なのか……ペッ、硬い上に生臭いな。
[チュー・バイ] 野外で火の通った肉が食えるんです。文句は肉と一緒に飲み込みなさい。
[ファン・シャオシー] それもそうか……あいつらと洞窟にこもってた時は、何ヶ月も肉にありつけなかったこともあったし。
[チュー・バイ] 例の「手下」たちのことですか? どこの町にもその名を轟かせる大悪党が、満足に食事にすらありつけないんですね。
[ファン・シャオシー] 何笑ってんだよ……
[チュー・バイ] あなたくらいの年頃で、家族とケンカして家出した子供は何人も見てきましたが、自分が大悪党だと頑なに主張する子を見るのは初めてなもので。
[ファン・シャオシー] ……俺は舐められたくないんだ。
[ファン・シャオシー] 善人だろうが、悪人だろうが、誰もが恐れる人間にならない限り、いじめられるだけだ。
[チュー・バイ] 誰がそんな捻くれたことを教えたんですか?
[ファン・シャオシー] 俺が自分で気付いたんだよ……経験談さ!
[チュー・バイ] 半分は正解ですね。
[チュー・バイ] ですが誰もが恐れる人間になった時、気づくことになるでしょう。自分をいじめる人間が消えたとしても、今度は皆が手を組んで自分を目の敵にするだけだとね。
[チュー・バイ] 敵をなくす唯一の方法は、他人を敵と見なさないことです。
[ファン・シャオシー] ねぇ……一つ訊いてもいい?
[ファン・シャオシー] あんたのそのすごい武術は、誰から習ったの?
[チュー・バイ] この程度の武術なら、江湖で五年間ほど揉まれてた後に、戦場へと五年間ばかり放り込まれて、なお生きていられれば身に付きます。
[チュー・バイ] ……それと、私はとてつもなく優れた武術の使い手に出会ったことがあって、その人から教わりました。
[ファン・シャオシー] あんたよりも強いの?
[チュー・バイ] 比べるべくもありません。
[ファン・シャオシー] そんじゃ、俺が今から武術の鍛錬を始めたら、あんたくらいの強さになるまでどれくらいかかるかな?
[チュー・バイ] 十年。
[ファン・シャオシー] 十年!?
[チュー・バイ] 生き延びられればの話ですがね。
[ファン・シャオシー] ね……姉ちゃん。
[チュー・バイ] ……今何と?
[ファン・シャオシー] 女侠(じょきょう)の姉ちゃん……俺を弟子にしてくれないか?
[ファン・シャオシー] これからは姉ちゃんについて行く。江湖を渡り歩くのもいいし、義の道を行って人助けするのも悪くない。姉ちゃんこそ俺の師匠だ!
[チュー・バイ] 弟子は取りません。ましてや安易に人に武術を教えるなどもってのほかです。
[チュー・バイ] あなたのように不誠実な者に武術を教えて、それを使って悪事でも働かれたら、それは私の罪になるでしょう?
[ファン・シャオシー] 武術を教わって姉ちゃんと同じくらい強くなったら、もう誰にもいじめられずに済むんだよ。そうなったら、俺も姉ちゃんみたいに良い人になるって約束するから。
[チュー・バイ] 私が良い人だと思っているのですか?
[ファン・シャオシー] そ……そうだろ……多分……
[ファン・シャオシー] なんてったって俺を助けてくれたし、食いもんもくれたし……
[ファン・シャオシー] そんな腕っぷしを持っていながら、人から物を奪ったりせずにお金を払って買うじゃないか。あいつらとは全然違うよ……
[チュー・バイ] 完全に善悪の区別がつかないわけではないようですね。
[ファン・シャオシー] でもやっぱり、姉ちゃんがどうして俺を助けてくれたのかがよく分からないんだ……
[ファン・シャオシー] 姉ちゃんみたいな侠客は、みんな「お節介焼き」なの?
[チュー・バイ] 随分と質問が多いですね。
[ファン・シャオシー] ……弟子にしてくれないってんならそれでもいい。勝手に姉ちゃんについて行くだけだから。でもさ、どこへ行こうと構わないけど、俺を家に帰すのだけは勘弁してくれよ。
[チュー・バイ] 私も一つ訊きたいことがあります。
[チュー・バイ] ずっと家の鍵を身に着けておきながら、なぜ頑なに帰ろうとしないんですか?
[ファン・シャオシー] ……まだ帰る時じゃないからだよ。
[ファン・シャオシー] 必ず、どデカいことを成し遂げてから帰るんだって、家を出る時に決心したんだから。
[チュー・バイ] 家に家族は?
[ファン・シャオシー] 母さんには物心ついてから会ったことはないけど、親父はまだいるはず……他の家族はいない。
[チュー・バイ] なおさら帰るべきです。父に心配かけたくはないでしょう?
[ファン・シャオシー] 俺が帰っても親父は喜ばないよ……俺は村の皆から嫌われてたし、バカにされてたし、いじめられてたし……言っても姉ちゃんにはよく分かんないだろうけど。
[チュー・バイ] さっき言ったでしょう。他人と仲良くしたければ、敵と見なさないことです。
[チュー・バイ] ましてやあなたのような子供が誰かと揉め事を起こしたところで、買う恨みなどたかが知れているでしょう。
[ファン・シャオシー] 俺がやった悪事を聞いたら、死ぬほど驚くって言っただろ?
[ファン・シャオシー] とにかく、俺は何も成し遂げられず平凡に生きていくくらいなら、死んだ方がマシだと思ってんだ。
[チュー・バイ] この大地には、生きるために必死にあがいてもどうにもならない人が一体どれだけいることか、知っていたらそんな言葉は出てこないはずです。
[ファン・シャオシー] もういいよ、姉ちゃんにはケンカでも口でも勝てないんだし。好きに言えば。
[ファン・シャオシー] でも一つだけ教えてよ。どうして俺を連れてってくれないの?
[チュー・バイ] 江湖の旅には危険が付きものだからです。あなたのような子供は、誰の助けもなしに一人で外を彷徨うよりも、家に帰った方がいい。
[ファン・シャオシー] じゃあ姉ちゃんの家は? どこにあるの?
[チュー・バイ] ……私にはもう家はありません。
[ファン・シャオシー] どういうこと? 天災に遭ったとか、移動都市の経路上にあるってことで引き払っちゃったとか?
[チュー・バイ] ないと言ったらないんです。場所自体がなくなり、住んでいる人もいなくなりました。
[ファン・シャオシー] 俺があんだけ自分のことを語ったんだから、姉ちゃんもちょっとくらいは教えてくれたっていいだろ? そうだ、まだ名前を聞いてなかった!
[チュー・バイ] 仇白(チュー・バイ)。仇討ちの仇に、白雪の白と書きます。
[チュー・バイ] 名の知れた者でもなし。話すことなどありません。
[ファン・シャオシー] まぁ話したくないってんなら別にいいよ。あんたみたいな侠客ってのは、わざと謎を作りたがるもんだってことは分かってるからさ。
[チュー・バイ] 話さないのは、聞いたところで面白い話ではないからです。
[チュー・バイ] 食べ終わったなら休んでください。まだそれなりに距離があるので体力を温存しておくことです。
「林を抜け、河を渡れば、もう山だ。」
それは山というよりは、山で作られた林みたいだった。
山々が連なり、一つの山の頂上がまた別の山の麓に繋がっている。頂は望めず、道も見当たらなかった。
ここはまるで外界から切り離され、一切の影響が及ばない地であるかのようだった。相当な距離で隔たれており、ややもすれば時の流れすらも異なるように見えた。
[ファン・シャオシー] もうすぐだ! きっとここだよ!
[チュー・バイ] わざわざ遠回りしてこんな山を登るなんて、一体何が目的ですか?
[ファン・シャオシー] 聞いたことあるんだ! この山の頂に立てば、玉門(ユーメン)が見えることがあるって!
[チュー・バイ] ……
少年は必死に爪先立ちをして、崖の上から西の方を眺めてみたが、果てしなく続く枯れ草の彼方に見えるのは、ぼんやりと黒みを帯びた黄色い何かだけだった。少年の顔に落胆の表情が浮かんだ。
だがチュー・バイは知っていた。この視界の外には傷ついた移動都市があり、今この時も荒野の奥深くで這いつくばって、忙しなく傷口を舐めているということを。
[チュー・バイ] 数年前にここを通った時は、もう少し寂れた雰囲気だったと記憶していますが。
[ファン・シャオシー] 来たことがあるの?
[チュー・バイ] 昔のことです。
[ファン・シャオシー] きっと馳道(ちどう)のおかげだよ! 見て!
崖の反対側にある灰色の道路は、荒野の上でかえって目を引いた。それは地形に沿ってぐねぐねと、見えなくなるまで続いていた。
「馳道」。災害を避けたり、資源を輸送したり、辺ぴな地域に住むの人々を救済することを目的として、炎国が推し進めた道路敷設計画である。
無数に存在するこういう道路が、全国の百余の移動都市に繋がっており、果てしない荒野にまで続いている。
その道は獰猛な山肌に描かれ、窪地に橋をかけて越えていく。道沿いに設置された補給所は、まるで均整の取れた竹の節のように、道に繋がるあらゆる場所に向けて養分である物資を届けていた。
もし神がこの茫茫たる不毛の地を見捨てたというのであれば、人々はそこに新たな血管を敷設するしかない。
たとえ天地が永久不変のものであろうとも、力の及ぶ限り努力するより他にないのだ。
[ファン・シャオシー] 家を出た後で、たまたま馳道の施工隊を見かけたことがあるんだけどさ、こんな道路を作って何の役に立つっていうんだろうな?
[ファン・シャオシー] 移動都市みたいにあちこち駆け回れるわけじゃないんだし、天災が来たら壊滅するだけだろ?
[チュー・バイ] 移動都市がたどり着けない場所は、この道路を頼って行くしかありません。
[チュー・バイ] 壊れたらまた新しいのを作ればいい。必要なことだから物的資源は惜しまないはずです。
[チュー・バイ] しかし、こういった仕事に勤しむ人々が常に存在するということを多くの者は知らない上に……記憶に留める者もまた少ないのです。
今より少し前、天災がこの山道を掠めて玉門へ向かい、街に少なからぬ損失を与えたが、同時に英雄の逸話も残していった。
しかしここは街からも遠く、死傷者や建物の損傷もなかったので、何が起きたか知る者はほとんどいない。
今、ここで名もなき馳道を修繕するために四苦八苦しているのは、施工隊だけである。
[ファン・シャオシー] 噂じゃこの道をまっすぐ西に行けば玉門に着くらしい。あんたは色んな場所に行ったって聞いたけど、玉門に行ったことはある?
[チュー・バイ] ええ。
[ファン・シャオシー] そういえばあいつらといた時、人を集めて玉門で大仕事をやるんだとか言ってたっけ。でもあいつら、俺が弱くて戦えないからって、連れてってくれなかったんだ。
[チュー・バイ] 自分の運の良さを喜ぶべきですよ、行かなくて正解です。
[ファン・シャオシー] 玉門ってどんなとこなの? びっくりするぐらい強い侠客がいっぱいいるとか、すげー軍隊とか、武器がたくさんあったりするの?
[チュー・バイ] いえ……普通の人が普通の仕事をしていることの方が多いですね。
[チュー・バイ] 玉門は砂漠の上を走っていて、強風と砂が常に傍にあるような場所ですよ。そんな都市に住む人たちが、楽に生活できるはずがないでしょう?
[ファン・シャオシー] デカいことを成し遂げられるなら、辛い生活なんてへっちゃらさ……あんな山にこもってるよりはずっとマシだ。
[ファン・シャオシー] とにかく、俺の志は変わらないかんな……今は姉ちゃんの言うこと聞いて家に帰ってやるけど、準備が整ったら、俺様は絶対また山を出て行くんだ!
[ファン・シャオシー] 誓ってやるぜ。次にここへ立った時、ファン・シャオシーはきっと遠くまで──いや、天下に名を轟かせる侠客になってやるってな!
[チュー・バイ] 侠客の前に善人になることです。「悪名」を轟かせるつもりなら、私はまたあなたを探し出して成敗しないといけません。
[ファン・シャオシー] 姉ちゃんって、水を差してばっかだよな……
[ファン・シャオシー] この山を越えれば謀善村だよ。
[ファン・シャオシー] ここからの道なら分かる。
山あいに立ち込めた霧に朝日が差し込み、かまどから立ち上る煙が風にゆるりとたなびいている。
遠くの山にはまだ溶け残った雪が被さり、麓には田んぼがまばらに見える。
耕している途中で大雨に降られたのだろうか、既にうね状になった柔らかい土が、固まる前に激しい水で押し流されつつあった。
まだ耕されていない土は、よりいっそう硬さを増している。前回の収穫で穂を落とした後の麦が、未だ頭を垂れていた。
春分の三月末、農作業の忙しい時期である。
田んぼの上の村人が手に持った犂(からすき)を置き、体を伸ばしたり腰をもんだりしている。
[畑を耕す村人] やっとこさ日が出てきたか。陽射しも気持ちいいし、今日は良い一日になりそうだ。
[畑を耕す村人] 急いでここらへんの土を耕し直さなきゃ──
[畑を耕す村人] お前は!?
[畑を耕す村人] ファン・シャオシー……? お前、ファン・シャオシーか!
[ファン・シャオシー] あっ、大遠(ダーユァン)おじさん? その通り! 俺様が戻ってきたぞ!
[ファン・シャオシー] そんな目を見開いてどうしたんだよ。あ。そういやあんたんとこの駄獣のエサ箱に、飼料と間違えて肥料をぶち込んじゃったっけか。まさか三年も経ってんのに、まだ恨んでたりしないよね?
[畑を耕す村人] い……生きてたのか?
[ファン・シャオシー] 勝手に殺すなよ。
[ファン・シャオシー] でも見ない間に、おじさんの腰はずいぶん曲がっちゃったね。
[畑を耕す村人] なんてこった……なんてこった!
[畑を耕す村人] 急いで族長に知らせにゃいかん!
[ファン・シャオシー] ほらね。言ったろ、村の連中はみんな俺を嫌ってるって。
[チュー・バイ] 嫌いというよりは、恐れている感じでしたが。
[チュー・バイ] 顔を見ただけであんな風に怖がるなんて、一体どれだけの悪行をしでかしたんですか?
[ファン・シャオシー] そんなことより、どっちが先に手を出したのかを聞いてくれよ。
[ファン・シャオシー] どいつもこいつも同じさ。一番弱い奴を標的にしていじめることしかできないんだから……だけど帰ってきたからには、奴らを怖がったりしない!
[チュー・バイ] ……
[ファン・シャオシー] どしたの? こんなに貧しい村は初めて見たとか?
[チュー・バイ] あなたが見てきた場所もさほど多くはないから、そういう風に言えるんでしょうね。
[ファン・シャオシー] ちぇっ。
[チュー・バイ] しかし、村の入り口に土地廟(とちびょう)を建てている村を見たのは、確かに初めてですね。
[チュー・バイ] その隣に新しい墓があるようですが?
[ファン・シャオシー] 人が死ぬのは珍しいことじゃないでしょ。
[ファン・シャオシー] どこの家の人がなんで土地廟の横に埋められたのかってのは、謎だけど。
[ファン・シャオシー] まぁいいや、誰の墓なのか知らないけど……ここに埋められてるってことは、村の人なんだろうよ。
[ファン・シャオシー] 死ぬのもいいさ。これ以上は苦しまずに済むってことだから。
少年は身をかがめて、墓に向かって頭を下げた。平然とした口調とは裏腹に、その姿勢は真剣だった。
[ファン・シャオシー] 俺の家はすぐそこだよ。
[ファン・シャオシー] ……
[チュー・バイ] 急に止まってどうしたんですか?
[ファン・シャオシー] 俺……
[ファン・シャオシー] ……いや、ぐずぐずしててもしょうがない。怖くなんかないぞ。
[ファン・シャオシー] 親父、ただいま。
狭い木造家屋の中には誰もいなかった。室内は雑多な物が色々と置いてあるが、きちんと整頓されている。
少年はかまどの上に残された食事を見て、安堵の表情を浮かべたようだった。
[ファン・シャオシー] おかしいな、家の物は全部残ってるのに、何で誰もいないんだ?
[ファン・シャオシー] 畑かな……外に行って探してくるよ。
[ファン・シャオシー] 親父……親父?
[ファン・シャオシー] どこ行ったんだ……?
[興奮する村人] 捕まえろ、逃がすんじゃないぞ!
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