大平山公園(大平山砲台跡) - 呉市周辺の遺構まとめ
大平山公園(大平山砲台跡)大平山(おおひらやま)はとびしま海道の一つである下蒲刈島(しもかまがりじま)にある標高275mの山江戸時代から朝鮮通信使の寄港地として栄えた下蒲刈島ですが、太平洋戦争前は呉鎮守府より呉軍港要塞地帯に指定され地図から消される事もありました。太平洋戦争直前の
大平山公園(大平山砲台跡)大平山(おおひらやま)はとびしま海道の一つである下蒲刈島(しもかまがりじま)にある標高275mの山江戸時代から朝鮮通信使の寄港地として栄えた下蒲刈島ですが、太平洋戦争前は呉鎮守府より呉軍港要塞地帯に指定され地図から消される事もありました。太平洋戦争直前の
軍艦榛名出雲戦没者留魂碑小用港で大破し終戦を迎えた戦艦榛名と練習艦出雲の慰霊碑です。江田島の艦艇慰霊碑はおおむね終焉の地のそばにありますが、戦艦榛名と練習艦出雲は小用港を見下ろせる丘の上の公園に建立されています。元々ここは海軍秋月火薬庫の敷地であったのが理由の一つかと思われます。
御手洗町簡易水道配水池跡風待ち・潮待ちの港として栄えた大崎下島の御手洗歴史的な街並みが残る御手洗町並み保存地区から歴史の見える丘公園に登る途中に、かつての御手洗簡易水道の配水池跡があります。『簡易水道』とは農山漁村など小さな集落で101人以上5000人以下の人々へ給水することを目
県道204号安登停車場線呉市が誇る日本一の1つ「日本一短い県道」こと県道204号安登停車場線です。横断歩道からマンホールまでの県道で全長はなんと7mです。ちなみに幅は14mあるので全長より幅の方が大きいという道路です。 備考 ・呉線安登駅の目の前にある ・
浜田橋郷原町の黒瀬川にかかる橋で資料によると明治33年竣工です。金属製の橋げたやアスファルトはもちろん後世のものでしょうが、橋脚がすごく古そうなのでもしかしたら当時のものかもしれません。郷原町は呉市の北東部に位置し、歴史は意外と古く荘園時代の記録に名前が残っていますが呉市に吸収合
二河橋二河橋は呉の主要河川である二河川(にこうがわ)に架けられた橋当初は明治41年に木造橋として建設され呉市電の線路もこの橋の上を通っていました。しかし、二河橋は往来の激しい市街地の幹線道路であったため老朽化が早く、竣工からわずか24年後に現在の橋に架け替えられました。歩道部分の
工兵第五連隊跡旧太田川と京橋川の分かれるたもと白島公園にあります。現在の安田学園の辺りは太平洋戦争終戦まで工兵第五連隊の駐屯地でした。工兵とは土木・建築・通信など技術的作業で他兵種の戦闘を助ける兵種のことです。工兵第五連隊の前身は工兵第五大隊といい、陸軍第五師団所属部隊として大正
安浦海兵団安浦海兵団は戦争後期に本土防衛のため呉鎮守府が設立した新兵教育組織呉鎮守府の新兵教育組織である海兵団は、すでに呉海兵団がありましたが国際情勢の緊迫化を受け、兵力増強のため兵員養成地の拡充が決定されます。昭和14年に安浦町が海兵団新設の候補地にあがりますが、誘致で大竹市に
己斐調整場送水ポンプ室昭和7年竣工の水道施設広島市水道開通当初、太田川から取水した水道水は牛田水源地で処理をされ送水されていました。しかし、ここ西広島まで水道が伸びてくると水圧が足らなくなり、また己斐・古田・草津・三篠など高台の住宅等にも配水する必要がでたため再度水圧をかけ直す『
※2019年7月1日改訂今回はコメント頂いた刀盾兵と弓騎馬について考察したいと思います。【兵種性能】・刀盾兵・弓騎兵上図のステータス値を見ても強いのか弱いのかイメージしづらいと思いますので全兵種で比較した結果を下記に記します。【兵種性能】上のグラフは秒間攻撃力÷コス
吉浦宮花町の防空壕跡吉浦宮花町は戦前から海軍の燃料庫(旧海軍軍需部乙廻燃料置場)があった関係か防空壕跡が残っています。こちらは住宅地の中にある防空壕跡で、両側を石で補強してありますが高さは低く大人はしゃがんで入るのがやっとの大きさです。地元の人のよると「当時はもっと深く掘ってあっ
青山宿舎(旧呉鎮守府軍法会議所)の防空壕跡海上自衛隊青山宿舎の敷地内にある壕口跡ここには太平洋戦争終戦まで呉鎮守府法務部軍法会議所がありました。軍法会議所とは軍令や軍紀に違反した軍人を裁くための旧日本軍の司法機関です。防空壕跡と思われる壕口は3つありますが、防空壕なのかまたは隧道
おまえモナー視点最後のタイマンバトルのレベルが高すぎる。
女猫の瀬戸瀬戸(せと)とは海峡の意味で『女猫の瀬戸』は川尻町(本州)と下蒲刈島の間にある小さな海峡のことです。同じ瀬戸でも音戸の瀬戸と違ってここは海峡の幅が1.1kmあり東西の幅も実に7kmあります。海峡の本州寄りに小島があり、猫がうずくまっているように見えることから航海者の間で
本川小学校平和資料館(旧本川尋常高等小学校旧校舎)本川小学校(旧本川尋常高等小学校)は原爆ドームから相生橋を挟んで対岸にある「爆心地から1番近い学校」です。昭和3年竣工した旧校舎は広島市内初の鉄筋コンクリート製校舎で、地上3階地下1階のブロックプランにホールやアーチ形の正面玄関を
大須山防空砲台跡大須山は江田島の北西部にある大須港の南に位置する山ここには太平洋戦争中に呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。大須山防空砲台は昭和16年に着工し昭和17年7月に竣工しました。標高259mの山ですが砲台跡があるのは標高200m付近です。砲台施設は林道を挟んで南側と北
広島逓信病院旧外来棟逓信省(ていしんしょう)とは明治時代に作られた通信や運輸を管轄する政府の省庁で、現在のNTT(旧電信電話株式会社)と郵便局を合わせたような事業を行っていました。広島市に広島逓信局が設立したのは大正8年のことでした。当時は電話はまだ一般的なものではなく郵便が主な
阿賀峠(呉越峠)呉と広の間に昔からある峠道軍港である呉と航空廠のある広の間には休山という非常に大きな山があります。明治22年に呉に海軍鎮守府が置かれるまでは呉と広の交通は休山を北に迂回する『阿賀峠』と呼ばれる細い道が使われていました。呉に鎮守府が置かれた後の明治33年、ここ阿賀峠
弾丸列車計画の杭跡弾丸列車計画の杭跡は、戦前の長距離鉄道建設のために買収された用地跡昭和14年に計画された『弾丸列車計画』は正式名称を『広軌幹線』といい、当時日本の植民地であった朝鮮半島や満洲国、さらに昭和12年に勃発した日中戦争による中国大陸への輸送需要増加を受けて立案されまし
幸之浦の防空壕跡幸之浦説教所の近くにあります。海上挺進戦隊の宿舎・燃料庫から徒歩8分のところにあります。現在は民家の用具入れになっています備考 毎年事故のあった4月15日に慰霊祭が行われる 神社に上がるには結構な数の階段がある 鯛の宮神社の下に旧海軍工廠長邸宅があるが個人所有の邸
江波山気象館(旧広島地方気象台)江波山にある昭和9年建築の鉄筋コンクリート製の気象観測施設当初の名前は『広島測候所』といい国泰寺村にあった気象観測の施設が移転してきたものでした。5年後の昭和14年に国営移管され文部省の『文部省中央気象台広島測候所』となります。昭和16年12月に太
呉海軍工廠川原石魚雷調整場補給岸壁跡二川公民館の奥にあります。この辺りは海軍軍需部第三区と呉海軍工廠第八区があったところですがこの岸壁が何に使われていたのか不明です。コンクリートの質と金属の具合から戦前もしくは戦中のものと思われます。築地町は旧築地中央工場の辺りも海軍軍需部第二区
板城村聴音照射所跡東広島市の大迫山(標高343m)にある呉鎮守府所属の防空施設ここには太平洋戦争中の昭和19年3月に呉鎮守府所属の特設見張所があり、空中聴音機と探照灯が配備されていました。空中聴音機とは敵機が襲来する際のエンジン音を捉えて索敵する兵器で、レーダー技術の遅れた日本で
比治山陸軍墓地比治山に戦前からある陸軍軍人の墓地明治の西南戦争から太平洋戦争までの陸軍軍人の慰霊碑や墓石約3500基があります。また、北清事変・北清事変・第一次世界大戦により広島市で亡くなったフランス人、ドイツ人、中国人も埋葬されています。「死んでも突撃ラッパを口から放さなかった
金輪島広島湾に浮かぶ小さな花崗岩の島人口60人程度の非常に小さな島ですが、陸軍の兵站拠点である宇品港から近いことから似島と同じように陸軍の島でした。金輪島は江戸時代に入植され蠟の栽培や蠟燭の生産などが行われた小さな島でした。明治27年(日清戦争の年)に陸軍が島を買収し輸送や揚陸な
宇品波止場公園(旧陸軍桟橋)陸軍桟橋は明治35年に建設された軍用の突堤明治22年に築港された宇品港は山陽本線・軍用鉄道宇品線と接続されていることもあり日清・日露戦争を契機に陸軍の一大兵站拠点となりました。その宇品港から人員や物資を沖に待つ輸送船に乗せるために明治35年に建設された
臨時帝国議会仮議事堂跡臨時帝国議会仮議事堂は広島市に作られた国会議事堂明治27年7月に日清戦争が開戦すると広島市は臨時の首都となりました。その広島市で帝国議会を開催されるために建設された仮設の国会議事堂で「東京以外に建設された唯一の国会議事堂」です。当時は通信技術が発達しておらず
広島軍用水道広島市はデルタ地帯(川の中心に砂が溜まってできる三角州)にできた都市で交通・海運の要所でありましたが、水道においては事情が良くありませんでした。海に近いデルタ地帯であるため、井戸を掘っても出るのは塩水ばかりで当初市民は川の水をそのまま飲んでいました。しかし、大雨が降れ
似島広島港の南3kmに位置する島広島市の島の中では最大の面積で人口も1100人と多く、島のシンボル的な山である安芸小富士(標高278m)が広島市内からでもよく見えます。また、同じ陸軍の島である金輪島より沖にあり広島市と江田島の中間に位置します。日清戦争の時に戦地から帰還した兵士か
三坂地水源地海軍が作った軍用水道『呉鎮守府水道』の一つ呉鎮守府水道の水源地としてはめずらしく、ダムではなく地下水を水源とするさく井型(井戸)の水源です。三坂地水源地は、大正10年の呉海軍工廠広支廠建設と同時にその工業用水の水源地として築造されました。当初、海軍はここに3つのさく井
江波山公園(江波山高射砲陣地跡)江波山にある陸軍の高射砲陣地跡江波山はかつて『江波島』と呼ばれる広島湾の島でしたが江戸時代に干拓で埋め立てられ次第に陸続きとなりました。その後、明治31年に公園に指定され遊歩道が整備されました。昭和8年に決定した広島工業港構想の一環として江波山以南
休石砲台跡休石砲台は明治時代に陸軍が広島湾要塞の1つとして音戸の瀬戸に作った砲台音戸の瀬戸に作られた砲台としては観光地として有名な高鳥砲台がありますが、休石砲台も高鳥砲台と同じく外国艦隊から音戸の瀬戸を防衛するため明治34年に建設されました。その後も同じく大正15年に廃止されまし
中野村聴音照射所跡広島市と東広島市の市境にある標高514mの東中倉山(大谷山)ここには太平洋戦争終戦まで呉鎮守府所属の防空施設である中野村聴音照射所がありました。中野村聴音照射所は太平洋戦争開戦前の昭和16年に着工し、開戦後の昭和17年4月に竣工しました。ここには空中聴音機や探照
原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)公園の北東端にある世界一有名な被爆遺構建設時の名前は『広島県物産陳列館』といい広島県の物産品の販売促進のため大正4年に建設されました。地上5階・地下1階・高さ25mと当時としては巨大な建物で、欧州風建築がめずらしかった広島市では完成当初から市のシン
長浜の地下壕口(広海軍工廠第二十三号隧道・第二十一号隧道)黄幡山の南側にある地下壕口この地下壕口は、北にある広海軍工廠の地下工場で、空襲が激しくなった太平洋戦争末期に召集された女学生が中で航空機の部品を作っていました。壕口は全部で9つあり、現在は5つが現存しています。
広島赤十字・原爆病院(旧広島赤十字病院)広島赤十字・原爆病院は昭和14年『日本赤十字社広島県支部病院』として開業しました。しかし、開業わずか3ヵ月で陸軍に接収され『広島陸軍病院赤十字病院』となりました。その後、太平洋戦争中の昭和18年に『広島赤十字病院』と改名します。昭和20年8
旧広島県庁舎跡旧広島県庁舎は元々広島城内にありましたが、第五師団が設置される関係で明治11年に水主町(現在の加古町)に移転してきました。敷地面積約70000坪に及ぶルネサンス様式の木造2階建ての庁舎が作られ、明治43年には同じような西洋風の県議会議事堂も南に建てられました。昭和2
旧日本銀行広島支店旧日本銀行広島支店は市街地にある被爆遺構元々は明治38年に水主町に開店した日本銀行広島出張所が、昭和11年に業務拡大のため日本銀行広島支店に昇格し新築移転してできた建物でした。広島市に残る貴重な戦前欧州風建築の一つで、外から見るとコンパクトに見えますが地上3階建
安浦港防波堤(武智丸)武智丸は太平洋戦争末期に建造されたコンクリート製輸送船。建造された造船所の名前を取って武智丸と命名されました。日本は太平洋戦争開戦直前の昭和16年にすでに金属類の輸入禁止を受けていましたが、戦争末期になると鋼材不足が深刻化し軍需物資を輸送する船の建材が尽き始
情島(戦艦日向終焉の地)倉橋島大浦崎公園の沖合に位置する小さな島戦艦日向は伊勢型戦艦2番艦として大正時代に就役し、太平洋戦争中に後部を空母に改造した世界でもめずらしい航空戦艦です。戦争末期に南方での戦闘を終え呉に帰投しました。当初は呉湾内に停泊していましたが昭和20年3月の第一次
千田廟公園千田廟公園は広島市南区宇品御幸にある公園明治初期の広島県知事である千田貞暁(せんださだあき)の遺徳を称えるため作られた公園です。旧国泰寺村の一部も同じく千田知事を顕彰した『千田町』という地名があります。千田知事銅像兼宇品港築港記念碑千田貞暁は現在の鹿児島出身の幕末維新志
二河公園二河(にこう)公園は二河峡の下流にある二河川沿いの公園元々は海軍が明治30年頃に作った射撃場の一部でしたが大正5年に呉市に払い下げられ、大正天皇御即位の記念として公園として整備されました。昭和9年に発行された呉軍港案内では音楽堂・海光館・図書館・擇善館・慰霊碑の他、野球グ
人獣一覧(公式URL) アレキサンダー アンネローゼ カラミティ・ジェーン キング・プラウン ギュスターヴ13世 クロノス
亀山神社亀山神社は古来から続く呉市の総鎮守創建時期は不明ですが御鎮座は飛鳥時代の大宝3年と伝えられています。当初は『大屋津日売(おおつひめ)神社』と呼ばれており家屋や木の神様の名前の神社でした。呉市の名前由来として船の材料となる呉材が多く採れたことからこの名前になったという説があ
海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所)下士官兵集会所は呉港に艦隊が寄港した際に艦隊勤務の下士官が福利厚生を受けるため施設下士官とは兵卒と準士官の間にある軍曹・伍長といった階級のことです。下士官より上の準士官には海友社、その上の士官には水交社と呼ばれる別の福利厚生施設がありま
呉海軍工廠職工殉職者各霊永供養塔養運寺の境内にあります。詳細不明ですが、碑文から見るに呉海軍工廠で勤務中に亡くなった職人を慰霊するため、大正5年に寄付によって建立された慰霊碑のようです。 備考 ・養運寺の入口は坂の上にあるのでわかりにくいかも ・夜間は境内
宮原浄水場低区配水池宮原浄水場の近代的な施設の中でひと際目立つレンガ造りの建物宮原浄水場低区配水池は呉鎮守府開庁の翌年である明治23年に、軍用水道である『呉鎮守府水道』の一部として建設されました。初期の呉鎮守府水道は二河峡取水口から取水した水をこの宮原浄水場で処理し、海軍施設に導
二河川公園二河川沿いの呉湾に面した陸地の先端にある公園園内の庭園は明治時代に呉海軍工廠造船部第二船渠を建設する際に掘り出した岩で作られています。また、呉湾を挟んで海上自衛隊呉地方総監部練習艦隊司令部が反対側にあるため、自衛隊の艦艇を真横から見ることができるめずらしいポイントです。
旧澤原家住宅(三ツ蔵)旧長ノ木街道に面した国の重要文化財澤原家は江戸時代から続く呉市の庄屋でこの独特の外観の蔵も旧澤原家のものです。灰ヶ峰への入口という市街地寄りの場所にありますが、太平洋戦争末期の市街地への空襲では奇跡的に被害を受けませんでした。また、前蔵ばかり有名ですが江戸時
亀ヶ首倉橋島の東端に位置する曲がりくねった半島の先端部分。その形から『亀ヶ首』と呼ばれています。昔から瀬戸内海の船乗りたちは航海の目印として動物の名前を地形に付けており、他にも女猫の瀬戸などの地名が残っています。亀ヶ首射撃実験場跡亀ヶ首射撃実験場は艦艇に搭載する艦載砲の試験施設と