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呉共済病院(旧呉海軍共済病院) - 呉市周辺の遺構まとめ

呉共済病院(旧呉海軍共済病院)呉共済病院は呉海軍工廠の医療機関として設立された病院当初は『海軍工廠職工共済会病院』といい、最盛期には約10万人が勤務する呉海軍工廠を医療面で支える病院として明治37年に作られました。呉は軍港という土地柄、海軍関連の病院が多数建設されましたがこの海軍

雑魚場疎開地跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

雑魚場疎開地跡雑魚場町(ざこばちょう)は、現在の広島市中区国泰寺町の一部と小町の一部の旧地名雑魚場町のとなりには広島市役所があります。太平洋戦争中の市役所は空襲時の消火・避難指揮所として機能するため、市役所への火災の延焼を防ぐ目的で雑魚場町は建物疎開地となりました。『建物疎開』と

二河川橋梁 - 呉市周辺の遺構まとめ

二河川橋梁二河川橋梁(にこうがわきょうりょう)は二河川にかかる呉線の鉄道橋呉線で呉駅から西(広島駅方面)に向かうと最初に渡る鉄道橋です。具体的な建設時期は不明ですが、橋脚部分がレンガもしくはレンガ化粧で作られていることから、おそらく戦前に建設されたものと考えられます。呉線には他に

第六潜水艇遭難之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

第六潜水艇遭難之碑鯛の宮神社の境内にあります。第六潜水艇は改ホランド級潜水艇として潜水艦黎明期の明治39年に就役しました。初の国産潜水艦として建造されましたが、特殊潜航艇を除けば国産潜水艦としては最小でお世辞にも性能が良いとは言えない艦艇でした。明治43年、岩国市装港沖で半潜航訓

平原浄水場低区配水池 - 呉市周辺の遺構まとめ

平原浄水場低区配水池灰ヶ峰の南麓にある『呉鎮守府水道』の浄水場平原浄水場低区排水池は、同じ呉鎮守府水道の本庄水源地の関連施設として本庄水源地と同じく大正7年に操業を開始しました。当初本庄水源地は軍用水道である呉鎮守府水道の水源地として建設されたため呉市民は水道を使うことはできませ

レンガの積み方 - 呉市周辺の遺構まとめ

レンガの積み方明治時代の建築素材として広く使われている煉瓦(レンガ)呉市の旧呉鎮守府や旧呉海軍工廠、広島市の広島陸軍被服支廠跡など呉市周辺にはレンガ造りの遺構が多く存在します。レンガ建築には積み方によって大きく分けて『イギリス積み』と『フランス積み』に分かれます。明治時代に日本に

呉医療センター(旧呉海軍病院) - 呉市周辺の遺構まとめ

国立病院機構呉医療センター(旧呉海軍病院)呉医療センターは呉市市街地にある総合病院元々は呉海軍病院といい呉鎮守府開庁の明治22年に海軍の病院として開院しました。呉は軍港という土地柄、呉鎮守府や海軍工廠関係の病院が多く作られましたがこの呉海軍病院は最も古い軍属病院になります。明治年

アレイからすこじま公園(旧潜水艦桟橋) - 呉市周辺の遺構まとめ

アレイからすこじま公園(旧潜水艦桟橋)元々は明治28年に呉海軍工廠の前身である呉鎮守府造船部が神戸からここに移転された際、花崗岩で作られた切石積護岸が築かれたのが始まりです。そのころ烏小島(からすこじま)という小さな島が南西の沖にあり、その烏小島が現在の公園の名前の由来となりまし

入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎) - 呉市周辺の遺構まとめ

入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎)旧呉鎮守府近くにある呉鎮守府司令長官の邸宅呉鎮守府司令長官官舎は洋風建築と和風建築が一つの建物に見事におさまっているというめずらしい建物です。洋館は司令長官と来客用、和館は主に使用人のために使われていました。洋館部分は明治の日本海軍がお手本と

呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) - 呉市周辺の遺構まとめ

呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)呉の観光といえばここというくらい有名な観光地大和ミュージアムの正式名称は『呉市海事歴史科学館』といいます。戦艦大和だけでなく呉海軍工廠で建造された艦艇の様々な展示がされています。また、東洋一の軍港といわれた呉市の歴史や造船技術についても展示が

海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)屋外に展示されている「てつのくじら」こと潜水艦あきしおが有名な資料館で、正式名称は『海上自衛隊呉資料館』です。「日本初の実物潜水艦が展示されている」ことで有名ですが、館内は潜水艦以外にも掃海艇や海上自衛隊の歴史などの展示物があり、実物大の魚雷や

福の神武将ランキング(2018年7月8日) - 三国天武を考察する

例年通りであれば12日頃から開催予定の福の神イベントで取得出来る「福の神武将」について考察したいと思います。【スキルダメージ、体力一覧】 武将名 総スキルダメージ 体力 発動間隔 (※)秒間ダメージ 典韋 58993 10828

歴史の見える丘 - 呉市周辺の遺構まとめ

噫戦艦大和塔国道487号沿いにある歴史の見える丘にあります。眼前の戦艦大和建造ドックで建造された戦艦大和の記念塔で進水30周年を記念して昭和44年7月に建立されました。建立には戦艦大和の艦内神社である大和神社(奈良県)から、艦内神社と同じように御分霊されました。記念塔には戦艦大和

海上自衛隊呉総監部(旧呉鎮守府) - 呉市周辺の遺構まとめ

呉鎮守府呉鎮守府は明治19年に制定された海軍条例に基づき設置された海軍の根拠地の1つ富国強兵の明治時代に、国防のため日本沿岸や海を5つの海軍区に分けて海軍の軍港を設置する計画が決まりました。呉鎮守府は横須賀の次に置かれた2番目の鎮守府で、佐世保鎮守府と同じ明治22年に開庁しました

旧呉海軍工廠引き込み線跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

旧呉海軍工廠引き込み線跡呉海軍工廠引き込み線は呉駅と呉海軍工廠を結ぶ軍用貨物鉄道の線路引き込み線とは、主要な鉄道路線から分岐して工場や施設内に入るための線路のことです。工場内で製造された物資や機材の輸送や工場への原材料の供給などに使用されます。また、呉海軍工廠のような軍需工場の場

戦艦大和の主錨 - 呉市周辺の遺構まとめ

戦艦大和の主錨(レプリカ)蔵本通りにある戦艦大和の主錨レプリカこのレプリカは高さ5.5m、重さは15トンあります。戦艦大和の錨については詳細な記録が残っていないため、このレプリカが原寸大だったのかは不明ですが、諸説ある中の一番大きなサイズの説に基づいて再現されています。

長迫公園(旧海軍墓地) - 呉市周辺の遺構まとめ

長迫公園(旧海軍墓地)長迫公園は呉鎮守府開庁と同じ明治22年に和庄葬儀場として作られました。翌明治23年に海軍によって買収され『呉海軍墓地』となりました。以来、太平洋戦争終戦までの55年間呉鎮守府管理下で海軍軍人や軍属の墓地として使用されました。しかし、太平洋戦争末期の呉市街地へ

大和波止場 - 呉市周辺の遺構まとめ

大和波止場大和波止場は実物大戦艦大和の甲板を再現した公園別名「恋人の聖地」といいます。戦艦大和の甲板実物大の戦艦大和の前甲板左半分を再現した広場戦艦大和は全長263mでサッカーグラウンド2.5面分の長さがあります。これは「前甲板の左半分」なので実際の4分の1ですが、こうして見ると

戦艦大和建造ドック跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

旧呉海軍工廠造船部呉海軍工廠造船部は太平洋戦争終戦まであった海軍の造船工場その歴史は呉鎮守府開庁と同じ明治22年に『呉鎮守府造船部』として海軍艦艇の建造や修理を行うため設置されたのが始まりです。現在のJMUでも設計部と製造部に分かれていますが、この時からすでに計画科と製造科が置か

大和神社 - 呉市周辺の遺構まとめ

大和神社大和神社(だいわじんじゃ)はIHIの社内神社IHIといえば戦艦大和を建造したドックのあるJMU(ジャパンマリンユナイテッド)の関連会社ですが、この神社は社内神社であり、昭和39年竣工と太平洋戦争終戦後に作られた神社であるため戦艦大和と直接関係はありません。大和神社はHI呉

ダイクレ興産第2工場(旧呉海軍工廠砲熕部精密兵器工場) - 呉市周辺の遺構まとめ

ダイクレ興産第2工場(旧砲熕部精密兵器工場)精密兵器工場は呉海軍工廠砲熕部の工場の1つ『砲熕部』とは海軍の兵器を生産する部署で、他の海軍工廠には無い呉海軍工廠のみに設置された独自部門です。この工場では艦艇に搭載する艦載砲や機銃の組み立てを行っていました。この辺りは明治22年に呉鎮

串山公園(旧串山防空機銃砲台) - 呉市周辺の遺構まとめ

串山公園(旧串山防空機銃砲台)串山は旧呉海軍工廠本部の後ろにある山山と言っても標高は63mしかなく簡単に登れる山ですが太平洋戦争中の昭和17年に防空機銃砲台が作られました。串山防空機銃砲台は当初『坪ノ内機銃砲台』として昭和17年8月に完成し13mm4連装機銃2基が配備されました。

灰ヶ峰展望台(灰ヶ峰防空砲台跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

灰ヶ峰展望台(灰ヶ峰防空砲台跡)呉市の象徴的な山である灰ヶ峰「呉市で2番目に高い山」こと灰ヶ峰ですが太平洋戦争中は山頂に呉鎮守府所属の防空砲台がありました。砲台は基本的に山の上に作られますがここ灰ヶ峰は標高737mと周りの山に比べて飛び抜けて高い山です。しかし、海軍の砲台があるこ

螺山砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

螺山砲台跡螺山(つぶやま)は長浜集落と白岳住宅地の間にある標高238mの山かつてここに広海軍工廠防衛のための螺山防空砲台が作られました。螺山防空砲台は太平洋戦争前の昭和12年に竣工しており開戦時には『四〇口径三年式8cm高角砲』2門が配備されていました。開戦後は聴音機が追加され、

明磯神社の鳥居 - 呉市周辺の遺構まとめ

明磯神社の鳥居明磯(めいそ)神社は津久茂町にある神社ここには太平洋戦争末期の昭和20年5月の旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠への空襲で折れてしまった鳥居があります。爆風か衝撃により鳥居の3か所に亀裂が入っておりカスガイや金具で補強された跡があります。呉市街地の亀山神社にも焼夷弾で

黄幡山九郎山機銃砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

黄幡山機銃砲台跡黄幡山(おうばんやま)は旧広海軍工廠会計部(現米軍広弾薬庫)の南にある標高61mの山ここには太平洋戦争中に広海軍工廠・第11海軍航空廠防衛のため防空機銃砲台が構築されました。黄幡山機銃砲台は太平洋戦争後期の昭和19年1月に着工し当初は『25mm連装機銃』2基が配備

呉線の廃トンネル - 呉市周辺の遺構まとめ

呉線呉線は広島市と呉市の間の輸送力強化のために建設された鉄道広島市には日清戦争開戦に備えて山陽本線がすでに開通しており、広島市から軍港呉を結ぶ軍用鉄道として明治36年に開通しました。このころの国営鉄道には『甲』『乙』『丙』という3つの階級付けがされていましたが、呉線は軍用鉄道であ

工僚神社 - 呉市周辺の遺構まとめ

工僚神社広両谷の船津八幡神社の境内にあります。工僚神社は太平洋戦争中に広海軍工廠と第11海軍航空廠で勤務中に殉職、もしくは戦死した方を祀った神社です。太平洋戦争終戦後の昭和21年11月に建立され、以降は広地区工業関係の殉職者と広出身の軍人も合祀されています。太平洋戦争末期に広海軍

戦艦大和上部第二兵員室の木製腰掛け - 呉市周辺の遺構まとめ

戦艦大和上部第二兵員室の木製腰掛け呉ポートピアパーク内にある飲食店『乙女椿』に展示してある戦艦大和兵員室の長椅子戦闘時の火災を防ぐため「燃えやすい物は徹底的には排除すべし」という理由で寄港時に外され、廃材として天応の民家の壁として使われていました。太平洋戦争終戦後、民家を解体する

呉海軍航空隊飛行場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉海軍航空隊飛行場跡呉海軍航空隊飛行場は、現在の虹村公園の一部からクリーンセンターの辺りにあった海軍の飛行場現在は工業団地となっていますが、太平洋戦争終戦までここに呉海軍航空隊の飛行場があり、X字型の滑走路が存在していました。呉海軍航空隊は大正14年に『佐世保航空隊広分遣隊』とし

三木谷医院(旧広海軍共済組合病院) - 呉市周辺の遺構まとめ

三木谷医院(旧広海軍共済組合病院)吉松山のふもと住宅地にある海軍の病院広海軍共済組合病院は広海軍工廠の医療機関として大正10年の広海軍工廠設立と同時に建てられました。その後、太平洋戦争直前の昭和15年にとなりの地区である大新開(現在の広警察署の辺り)へ移転しました。太平洋戦争末期

海上保安大学校(旧呉海軍工廠火工部) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上保安大学校(旧呉海軍工廠火工部)現在は海上保安官を育成する学校ですが終戦までは呉海軍工廠の一部でした。明治22年の呉鎮守府開庁と同時に呉鎮守府吉浦火薬庫がここに置かれたのが始まりです。その後、明治36年に対岸に呉海軍工廠が建設されると呉海軍工廠造兵部第六工場の火薬庫となりまし

呉海軍工廠長郷地下工場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉海軍工廠長郷地下工場跡長郷は音戸の瀬戸と安芸阿賀の間にある瀬戸内海沿いの小さな集落空襲が激しくなってきた太平洋戦争末期に呉海軍工廠の兵器生産を継続するため朝鮮人労働者を使って作られた地下工場です。呉海軍工廠と名前がついていますが呉海軍工廠とはかなり離れたところにあります。太平洋

二河峡取水口(呉鎮守府水道) - 呉市周辺の遺構まとめ

呉鎮守府水道呉に鎮守府が置かれた理由は「島や高山に囲まれて守りやすく呉湾の水深が深く大型船の往来が容易である」という説が有力です。しかし、こと水道においてはあまり事情は良くありませんでした。元々この二河峡取水口は江戸時代に慢性的な水不足に悩んでいた地元の庄屋が、呉の名勝二河峡から

阿賀北の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

阿賀北の防空壕跡阿賀峠の東側にある防空壕跡かなり大型の防空壕ですが近所の方にお聞きすると人の手で掘られた素掘りの防空壕だそうです。その御仁も空襲警報が鳴ると一目散にここに逃げ込んだらしいですが、戦争末期になるとここより南の街はすべて空襲で焼かれてしまったとのことです。また、太平洋

大入魚雷遠距離発射場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

大入魚雷遠距離発射場跡大入(だいにゅう)魚雷遠距離発射場は戦前阿賀南の海岸沿いにあった海軍の魚雷開発施設魚雷遠距離発射場は元は呉海軍工廠魚雷実験部の1つで呉湾から大正時代に移転してきました。この施設では海軍が開発した魚雷の試験を行っており、元々呉湾を出入りする船舶が増えたため危険

大空山公園(大空山砲台跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

大空山公園(大空山砲台跡)安芸阿賀駅の北にある標高205mの大空山ここには明治36年に陸軍が呉防衛のために作った広島湾要塞の1つ、大空山砲台があります。広島湾要塞の砲台は侵攻してくる外国艦隊を迎撃するために作られたものが多いですが、大空山砲台は上陸して背後から攻めてくる敵から呉を

狩留賀浜(巡洋艦磐手終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

狩留賀浜(練習艦磐手終焉の地)巡洋艦磐手は佐世保鎮守府所属の出雲型装甲巡洋艦2番艦として明治34年に就役しました。明治37年におきた日露戦争では日本海海戦でロシア海軍のバルチック艦隊を破る武勲を挙げた艦でもあります。就役当時は装甲巡洋艦でしたが旧式化に伴い大正10年に海防艦へ変更

アレイからすこじま公園駐車場(呉海軍工廠員養成所跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

アレイからすこじま公園駐車場(呉海軍工廠技手養成所・職工教習所・工員養成所跡)串山のとなりにあります。呉海軍工廠職工教習所は、呉海軍工廠で働く技術者を育成するための教育機関で大正7年に創設されました。元々ここではなく呉海軍工廠製鋼部や砲熕部の近くにあり、2年制の課程教育が行われま

高烏台公園(高烏台砲台跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

高烏台公園(高烏台砲台跡)平清盛が厳島神社を建てるため太陽を呼んだことで有名な景勝地音戸の瀬戸の本州側にある高烏台公園ここには明治時代から太平洋戦争終戦までの砲台跡があります。高烏台公園には大きく分けて2種類の砲台跡があります。1つは明治34年に陸軍が広島湾要塞の1つとして築いた

警固屋(巡洋艦青葉終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

警固屋(巡洋艦青葉終焉の地)巡洋艦青葉は佐世保鎮守府所属の青葉型重巡洋艦の1番艦として昭和2年に就役しました。昭和9年から呉鎮守府所属となった巡洋艦青葉は日中戦争から活躍し、太平洋戦争開戦後も緒戦から活躍した歴戦の勇者でした。太平洋戦争末期の南方での激戦にも生き残りましたが大破し

殉国の塔 - 呉市周辺の遺構まとめ

殉国の塔旧呉海軍工廠を見下ろす鍋山第一公園にあります。「呉のひめゆりの塔」といわれるこの慰霊碑は、昭和20年6月の呉海軍工廠空襲により殉職した工員や軍人を慰霊する目的で建立されました。昭和20年6月の呉海軍工廠への空襲では計290機の米軍機が1289発の爆弾を投下し、犠牲者の数は

鍋桟橋跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

鍋桟橋跡鍋桟橋はかつて警固屋町にあった桟橋この辺りは中世のころから埋め立てが盛んに行われる場所で、当初はここも海でしたが明治43年に埋め立てられ鍋桟橋が作られました。鍋桟橋の利用者は倉橋島から呉海軍工廠へ通う島嶼部通勤者がほとんで全盛期には通勤ラッシュが起こるほど利用者がいました

萬願寺 - 呉市周辺の遺構まとめ

萬願寺日佐護山のふもとにあるお寺境内最上の五重の塔から呉湾が一望できるため、太平洋戦争中は諜報活動を警戒して憲兵が常駐していました。戦前戦中は要塞地帯の近くで測量・撮影・模写などを禁止する『要塞地帯法』という法律がありました。特にこの萬願寺は造船部船渠の中まで見えるため用もないの

港湾監視所跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

港湾監視所跡アレイからすこじま公園駐車場から宮原13丁目交差点の間にあります。いつごろ、どのような目的で作られたのか不明ですが、呉海軍工廠の後ろにあることから防空監視用か守衛用に作られたものと思われます。余談ですが、ここに配属された兵士たちからは「天蓋付きたこつぼ(屋根付き防空壕

音戸渡船 - 呉市周辺の遺構まとめ

音戸渡船(おんどとせん)音戸渡船は、本州と倉橋島の間にある音戸の瀬戸約120mの海を行き来する渡し船で、かつて呉市が誇る日本一の1つ「日本一短い航路」でした。現在は音戸大橋のおかげで倉橋島と本州は陸路でつながっていますが、昭和36年の開通以前は倉橋島に行くには船で行くしかありませ

宮原11丁目の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

宮原11丁目の防空壕跡宮原中学校前の国道487号線沿いにあります。道路沿いに4つの防空壕の入口が並んでいます。このうち3つにはパブリックの防空壕としてはめずらしくT字型やI字型のコンクリート防火壁が付いています。太平洋戦争末期の空襲では『焼夷弾』と呼ばれる火災を発生させる目的の爆

旧呉市交通局築地中央工場(海軍軍需部被服工場跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

旧呉市交通局築地中央工場(海軍軍需部被服工場跡)二河川の近くにある広島電鉄呉中央営業所元々ここには海軍軍需部第二区として海軍の被服工場と倉庫がありました。太平洋戦争終戦後、昭和25年の旧軍港市転換法により呉市に譲渡され安芸阿賀にあった呉市交通局(呉市営バス)の整備工場がここに移転

魚見山隧道 - 呉市周辺の遺構まとめ

魚見山隧道(うおみざんずいどう)魚見山隧道は国道31号線にある川原石と吉浦を結ぶ860mのトンネル。呉市から広島市に向かう道路のトンネルとして長年使われています。元々は太平洋戦争開戦の昭和16年に、軍都広島市と軍港呉を結ぶ道路の一部として着工しました。太平洋戦争末期の昭和20年1