海軍第二門跡 - 呉市周辺の遺構まとめ
海軍第二門跡海軍第二門は呉海軍病院と現在の清水ヶ丘高等学校の間にあった市街地と呉海軍工廠の境界の衛門太平洋戦争終戦まで呉鎮守府や呉海軍工廠は軍用地であり市民は立入禁止でした。また、市街地と軍用地は塀で仕切られており現在と異なり自由に出入りすることはできませんでした。この海軍第二門
海軍第二門跡海軍第二門は呉海軍病院と現在の清水ヶ丘高等学校の間にあった市街地と呉海軍工廠の境界の衛門太平洋戦争終戦まで呉鎮守府や呉海軍工廠は軍用地であり市民は立入禁止でした。また、市街地と軍用地は塀で仕切られており現在と異なり自由に出入りすることはできませんでした。この海軍第二門
倉井(空母阿蘇終焉の地)倉橋島東部の倉井空母阿蘇は雲龍型空母5番艦として昭和18年6月に呉海軍工廠で着工しました。しかし、着工したのが太平洋戦争中期であったため既存艦の修理等が優先され建造は遅々として進みませんでした。昭和19年11月に呉海軍工廠最後の軍艦として進水したものの、戦
岬沖海戦)に戦没したため「戦艦大和の艦暦は太平洋戦争の歴史そのもの」といわれています。また、戦艦大和の建造は非常に秘密裏に進められたため、呉海軍工廠の造船技術はもちろん呉市民の生活にも非常に影響を与えました。『歴史の見える丘』という名称は「軍港都市から近代造船都市としての道を歩ん
どが残っています。また、外壁のレンガは明治時代に作られたにしては非常に綺麗に見えますが、これはレンガの表面を研磨してあるためで年代的には旧呉海軍工廠砲熕部精密兵器工場のレンガと変わりません。平成11年にドーム部分が復元され往年の姿へ戻りました。内部裏側第一庁舎は正面から見ると平面
が、これは昭和12年に勃発した日中戦争を受けて制定された『呉軍港防諜規程』により設置されたものです。目隠し板の目的は、呉湾に錨泊中の艦艇や呉海軍工廠で建造中の艦艇、呉鎮守府などの軍事施設を見えなくすることです。なお、同じ昭和12年に呉呉海軍工廠で戦艦大和の建造が開始されていたため
跡の上の畑に空気孔が残っています。通常、市街地にある市民向けの防空壕には空気孔がついていないものがほとんどです。もしかすると防空壕ではなく呉海軍工廠の地下工場や倉庫の可能性もあります。太平洋戦争末期の呉海軍工廠周辺では、空襲を避けて兵器製造を継続するため多くの地下工場が作られまし
第11海軍航空廠殉職者之碑広公園の中にあります。広海軍工廠と第11海軍航空廠で勤務中に殉職した方を祀った慰霊碑です。元々は津久茂にありましたが、広海軍工廠を拡張する工場の際に現在の場所に移築されました。後ろの銘板が取り外されていますが、どういう理由で取り外されたのか、いつ取り外さ
水道』の一つ呉鎮守府水道の水源地としてはめずらしく、ダムではなく地下水を水源とするさく井型(井戸)の水源です。三坂地水源地は、大正10年の呉海軍工廠広支廠建設と同時にその工業用水の水源地として築造されました。当初、海軍はここに3つのさく井を掘り水源としました。これが現在の三坂地水
に「P基地」と呼ばれる特殊潜航艇の工場や搭乗員の訓練施設がありました。正確には呉鎮守府第二特攻戦隊と呉鎮守府第十特攻戦隊大浦突撃隊、それに呉海軍工廠造船部大浦分工場を合わせてP基地と呼ばれていました。呉海軍工廠造船部大浦分工場は昭和17年10月から極秘裏に建設された特殊潜航艇『甲
分析山分析山は旧呉海軍工廠の後ろにある山で太平洋戦争後期の昭和19年6月に応急機銃砲台が作られました。当初は13mm連装機銃2基のみでしたが、25mm連装機銃2基と25mm単機銃6基が追加され最終的に合計10基が配備されました。また、となりの串山と同じく空襲を避けて兵器製造を継続
長浜の地下壕口(広海軍工廠第二十三号隧道・第二十一号隧道)黄幡山の南側にある地下壕口この地下壕口は、北にある広海軍工廠の地下工場で、空襲が激しくなった太平洋戦争末期に召集された女学生が中で航空機の部品を作っていました。壕口は全部で9つあり、現在は5つが現存しています。
いません。しかし、この山荘も取り壊されてしまい現在建物の姿はありません。また、資料によっては『観音崎砲台』と記載されているものもあります。呉海軍工廠冠崎作業場跡冠崎砲台跡の真下にあります。空襲が激しくなってきた太平洋戦争末期に兵器生産を継続するために朝鮮人労働者を使って作られた地
旧呉海軍工廠監視哨旧呉海軍工廠造船部の裏にある小型の監視哨跡後部に入口があり銃眼が4つ付いています。何の目的で作られたのか不明ですが、旧呉海軍工廠造船部が見渡せる高台にあることから防空目的かと思われます。元々、監視哨は2つありましたが駐車場を作るため1つは取り壊されました。
長浜の鉄塔長浜集落の入江神社の前にあります。この鉄塔は空襲警報のサイレンを鳴らすのに使った鉄塔で錆ついていますが健在です。北に行けば旧広海軍工廠があるので、太平洋戦争末期の昭和20年3月と5月の広海軍工廠への大空襲では空襲警報のサイレンが鳴ったと思われます。また、呉市電の終点がこ
明磯神社の鳥居明磯(めいそ)神社は津久茂町にある神社ここには太平洋戦争末期の昭和20年5月の旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠への空襲で折れてしまった鳥居があります。爆風か衝撃により鳥居の3か所に亀裂が入っておりカスガイや金具で補強された跡があります。呉市街地の亀山神社にも焼夷弾で
団地となっていますが、太平洋戦争終戦までここは海軍の燃料基地である広燃料置場があり、大量の地中式重油槽がありました。広燃料置場は、海軍艦艇や海軍工廠で使用する燃料である重油を貯蔵する燃料基地として建設されました。大正14年より用地買収が始まり昭和6年に最初の地中式重油槽12基が完
よくありませんでした。貴重な水道水を無駄なく使うため呉市には昔から多くの銭湯があり市民に利用されていました。この神原湯は宮原町にあり目の前に海軍工廠造船部があることから海軍工廠の職人さんたちで賑わっていたそうです。昭和の渋い銭湯として評判で戦後も営業を続けていましたが、残念ながら
二級峡に作られた水道施設で『呉鎮守府水道』の1つ元々、二級峡には明治32年に建設された水力発電所がありました。しかし、太平洋戦争前になると広海軍工廠への送電量増強と工業用水の安定的な確保を求めた海軍の要請によりコンクリート製ダムの建設が決定します。ダムは太平洋戦争開戦の昭和16年
25の旧軍港市転換法により呉市に譲渡され広中央中学校となりました。現在、遺構は残っていません。 備考 ・広駅の近くに旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠がある ・近くに工僚神社と三坂地水源地がある 住所 広島県呉市広吉松
タートしました。しかし、初期の呉鎮守府水道は軍用水道であったため水道を利用できるのは海軍の一部施設に限られていました。その後、明治36年に呉海軍工廠が建設され日露戦争が始まると工業用水が不足したため、海軍は大正7年に本庄水源地を建設して送水量を増やしました。これまで川の水を取水し
、広島湾要塞廃止に伴い、他の砲台と同じく大正15年に廃止されました。太平洋戦争の時代になると、南の高烏台砲台と同じく海軍呉鎮守府に移管され広海軍工廠防衛のための防空砲台に転用されました。高烏台砲台と違うのは、あちらは太平洋戦争が始まった昭和16年に早々に防空砲台に転用されたのに対
なると休山にトンネルが作られますが、このトンネルは軍用鉄道である呉線専用のトンネルであり鉄道以外の道は依然として阿賀峠の県道のみでした。広に海軍工廠が作られた4年後の大正14年、呉-広間の交通量増加を受けようやく新道が完成し路面電車も走れるように道幅が広げられました。太平洋戦争終
期の南方での激戦にも生き残りましたが大破した状態で呉に帰投しました。しかし、資材や人員不足に加えて損傷が大きすぎるため修理の見込みが立たず、海軍工廠では他の艦艇の修理を優先させたため巡洋艦青葉はここ警固屋に係留されました。その後、昭和20年3月の第一次呉軍港空襲では移動できない浮
呉海軍工廠川原石魚雷調整場補給岸壁跡二川公民館の奥にあります。この辺りは海軍軍需部第三区と呉海軍工廠第八区があったところですがこの岸壁が何に使われていたのか不明です。コンクリートの質と金属の具合から戦前もしくは戦中のものと思われます。築地町は旧築地中央工場の辺りも海軍軍需部第二区
螺山砲台跡螺山(つぶやま)は長浜集落と白岳住宅地の間にある標高238mの山かつてここに広海軍工廠防衛のための螺山防空砲台が作られました。螺山防空砲台は太平洋戦争前の昭和12年に竣工しており開戦時には『四〇口径三年式8cm高角砲』2門が配備されていました。開戦後は聴音機が追加され、
まで見えるため用もないのに来ると憲兵が疑ってきたそうです。ここからなら呉湾に錨泊している船の位置、造船部船渠に入渠している艦艇・呉鎮守府・呉海軍工廠・海兵団練兵場・大麗女島・潜水学校まですべて一望できます。ただし、太平洋戦争終戦まで民間人は下士官兵集会所より海岸側に入ることができ
らに8月に『25mm単装機銃』6基が配備されました。若葉クラブのある高台は標高35mと砲台としては良い場所ではありませんが、高台のすぐ下に呉海軍工廠火工部があったために作られたものと思われます。晴海町団地(新宮防空砲台跡)こちらは海岸吉浦本町線道路を挟んで東側にあります。東側は太
A. 呉海軍工廠は、広島県の呉市にある日本の海軍工廠です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%B7%A5%E5%BB%A0
ターは呉市市街地にある総合病院元々は呉海軍病院といい呉鎮守府開庁の明治22年に海軍の病院として開院しました。呉は軍港という土地柄、呉鎮守府や海軍工廠関係の病院が多く作られましたがこの呉海軍病院は最も古い軍属病院になります。明治年間に起こった日清戦争、日露戦争では病床数不足のため軍
三津峰山三津峰山は呉海軍工廠の後ろ、高烏台の北に位置する標高378mの山呉市を囲む9つの連峰の1つとして日佐護山や休山等と連なっていることから景色が良く登山の名所として知られていますが、太平洋戦争中に呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。三津峰山の防空砲台は南部と北部に分けられて
も社内の公募で決められました。名称の由来は「社員一同が大きな和をもって結ばれることを祈願するため大和(だいわ)」となったそうです。境内には旧海軍工廠時代に亡くなった工員の慰霊碑があります。余談ですが、近くにある噫戦艦大和塔は戦艦大和の艦内神社である大和神社から御分霊されたものです
架け替えられ名前も本川橋とされました。しかし、太平洋戦争末期の原子爆弾投下で崩壊し枕崎台風で橋脚を残して完全に崩壊したため、山口県光市の旧光海軍工廠の廃鉄材を利用して昭和24年に修復されました。海田町の九十九橋や呉の旧呉市交通局築地中央工場のように、終戦直後は鉄が貴重だったため海
B-29爆撃機エノラゲイ号に随伴した観測機からパラシュートを付けて4個投下されました。うち3つが日本軍によって回収され、原爆投下の4日後に呉海軍工廠電気部無線工場で分解され調査されました。 備考 ・しっかりした遊歩道が整備されており登山口から遺構まで約20分な
瀬隧道の横穴二級峡自然遊歩道にある黒瀬隧道の非常口戦後すぐに作られたトンネルの非常口とあってまるで防空壕のようです。なお、昭和20年3月の広海軍工廠への大空襲では「作りかけの二級滝隧道へ避難して助かった人々がいた」という記録が残っていますが、黒瀬隧道のことを指しているのか不明です
。飛追山は標高170mと防空砲台を築くには低くまた江田島でも最も陸地が細いところです。しかし、西の江田島湾には海軍兵学校があり東の呉湾には呉海軍工廠があるという戦略的には重要な場所です。秋月防空砲台は太平洋戦争中期の昭和17年8月に起工しましたが、土木工事や兵器配備が当初の予定よ
秋月(空母龍鳳終焉の地)秋月は江田島中部にある集落。位置的に呉海軍工廠の対岸にあります。空母龍鳳は横須賀鎮守府所属の潜水母艦として太平洋戦争前の昭和9年に就役しました。建造時点での艦名は潜水母艦大鯨といい、ロンドン海軍軍縮条約の影響で空母として建造されず「有事の際は空母へ改装でき
A. アメリカ海軍工廠の一つであり、アメリカ独立戦争中に設立され、アメリカ独立戦争や南北戦争など、アメリカの歴史の節目で重要な役割を果たしました。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%
艦の乗組員を育成する教育機関で、砲術学校や水雷学校等の技術学校を卒業し艦艇で勤務経験を積んだ士官が入校できる学校です。潜水学校は元々呉市の呉海軍工廠火工部のとなりにありましたが、太平洋戦争中の昭和17年11月ここ大竹市に移転されました。大竹市が選ばれた理由は、すでに大竹海兵団が設
ての輸送船としても利用可能でした。このタイプの曳航式コンクリート製油槽船は昭和18年に5隻建造されました。その中の1隻が太平洋戦争終戦時に呉海軍工廠に係留されており、昭和28年に払い下げられ音戸漁港の防波堤として沈設されました。ただし、安浦町にある武智丸と比べてかなり小さく、防波
と大破着底した戦艦榛名の写真慰霊碑に展示されています。砲弾(?)慰霊碑を囲む砲弾のモニュメント戦艦榛名・練習艦出雲のものなのかは不明です。呉海軍工廠火工部第二装填工場小用作業場火薬事故殉職者慰霊碑太平洋戦争中の昭和18年8月5日に、海軍工廠小用作業所で起きた火薬事故の殉職者を祀る
レンガの積み方明治時代の建築素材として広く使われている煉瓦(レンガ)呉市の旧呉鎮守府や旧呉海軍工廠、広島市の広島陸軍被服支廠跡など呉市周辺にはレンガ造りの遺構が多く存在します。レンガ建築には積み方によって大きく分けて『イギリス積み』と『フランス積み』に分かれます。明治時代に日本に
けており、他にも女猫の瀬戸などの地名が残っています。亀ヶ首射撃実験場跡亀ヶ首射撃実験場は艦艇に搭載する艦載砲の試験施設として、明治33年に呉海軍工廠砲熕実験部の一部として建設されました。亀ヶ首が実験場に選ばれた理由としては「倉橋島の東端で周辺を海に囲まれているため艦載砲の射撃試験
海軍鎮守府のある呉湾の入口に位置し、比較的大きい島であるという理由からの建設でした。太平洋戦争末期には、空襲を避けて兵器製造を継続するため呉海軍工廠造船部大麗女島工場となりました。ここでは特殊潜航艇『蛟龍』の生産されました。蛟龍は元々は『甲標的(こうひょうてき)』という敵の港湾に
二河川公園二河川沿いの呉湾に面した陸地の先端にある公園園内の庭園は明治時代に呉海軍工廠造船部第二船渠を建設する際に掘り出した岩で作られています。また、呉湾を挟んで海上自衛隊呉地方総監部練習艦隊司令部が反対側にあるため、自衛隊の艦艇を真横から見ることができるめずらしいポイントです。
で建物の基礎が残っているそうですが、島外からは確認できません。空母葛城は佐世保鎮守府所属の雲龍型航空母艦の3番艦として、昭和19年10月に呉海軍工廠で建造された「日本海軍最後の空母」です。しかし、就役したころにはすでに搭載する航空機や搭乗員は無く、さらに燃料も不足していため瀬戸内
生き残りでした。太平洋戦争緒戦から活躍した古参艦で戦争末期の南方での激戦にも生き残り、昭和19年12月に呉に帰投しました。当初は修理のため呉海軍工廠付近に停泊していましたが、昭和20年3月の第一次呉軍港空襲を受けてここ小用港の北に移動し、昭和20年7月の第二次呉軍港空襲を受け大破
月で就役した艦艇でした。就役時すでに戦争末期にさしかかっており、戦局の悪化する南方での戦闘に参加し大損害を受けて呉へ帰投しました。帰投後、呉海軍工廠で修理が完了すると大津島で人間魚雷『回天』の目標艦になる訓練に参加しました。その後は、人間魚雷『回天』搭載母艦となる改装がされました
ました。写真2枚目がQ基地からP基地を見たもので、訓練生たちは正面にある情島と小情島の間を通ってP基地へ通っていました。右奥に見えるのは旧広海軍工廠です。特殊潜航艇基地大浦突撃隊大迫支隊跡碑海岸Q基地跡の海岸に建立された記念碑元海軍の軍人によって建てられました。機動艇発着場跡Q基
にある神社日本最古の神社として日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)が祀られています。呉市から遠く離れた奈良県の田舎にありますが、呉海軍工廠で建造された戦艦大和は奈良県の旧国名である『大和国』が起源で、大和神社は戦艦大和の守護神とされており艦内神社に御分霊が祀られていまし
A. チャールストン海軍工廠は、アメリカ海軍の工廠です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E6%B5%B7%E8%