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狂人号_SN-ST-1_古井戸
今や訪問者も滅多にいない海辺の町、グランファーロ。しかしその場所へ、ロドスの人々とイベリア人、そしてアビサルハンターやAUSまでもが集まり始めている。どうやら、嵐が近付いているようだ。
「大地」。
これは、その狭さゆえに広く知れ渡る言葉となった。
では、遠い昔であれば、天地の一切を……我々がその人生で触れる万物を形容し得る、壮大な言葉が存在したのだろうか?
ただ口を開き、その偉大な言葉を口にすれば、幾億年にわたる生命の進歩を……そして天地のみならず、陸の国々がほとんど知ることすらもない広大なる海までもを言い表すことができたのだろうか?
その言葉が存在したとして、人々の思想の何処からならば、それを探し出せるのだろうか? ――君はどう思うかね、ケルシー女史。
[ケルシー] あなたであれば、答えはご存知でしょう。
[穏やかな老人] 確かに、私も多くを知ってはいるが、それでも日々疑問が尽きることはない。人は皆、未知から逃れることはできず、永遠に苛まれ続けるものだ。
[ケルシー] ……
[ケルシー] ……(古代サルカズ語)「世界」。
[穏やかな老人] ふむ。私はてっきり、こう言うとばかり思っていたよ……(サルゴン語)「世界」、とな。
[穏やかな老人] 君の口にしたそれは、サルカズの言葉かね?
[ケルシー] ええ。
[穏やかな老人] 奇妙なこともあるものだ。医者を名乗るフェリーンが、魔族の言葉を始めに口にするとはな。
[穏やかな老人] 君の立場は、海に浮かぶ雲のようにその時々で移り変わり、まるで捉えどころがないように思える。
[ケルシー] しかし、それが言葉の持つ性質を変えてしまうことはありません。
[穏やかな老人] 言葉、か。……ケルシー女史。この井戸を見てもらえるかな。
[穏やかな老人] この地域では、どのように真水を手に入れているのか……そして、イベリア人がこの紺碧の海でどのように家を建てるのかを、君はご存知かな?
[ケルシー] ――かつてのイベリア貴族が、己の傲慢にのぼせ上がりさえしなければ、海はイベリアを難攻不落の要塞にしていたことでしょう。
[ケルシー] ……この井戸は深い。海にもほど近いようです。
[穏やかな老人] ああ……この通り、この井戸は未だ涸れることなく、偽りの太陽を浮かべている。
[ケルシー] そろそろ出立しましょう、閣下。
老人は答えず、黙したまま小石を一つ拾い上げた。
それは、手で弄ぶ価値もないようなありふれた石ころだったが、彼は潮風の残した感触を確かめてでもいるかのように、井戸の底を見つめ続けていた。
ケルシーは何を言うでもなく、ただ老人の答えを待った。風が強く吹いて、雲が頭上を流れて行くのを彼女は感じていた。
[穏やかな老人] 急ぐ必要はない。一息つくだけの時間は十分にあるさ……たとえ、君がどれほど入念に準備を整えてきていようとな。
[穏やかな老人] さて。ここから小石を落としたら、どれくらいで着水すると思う?
[ケルシー] 5、6秒かと。
[穏やかな老人] ――イベリアで最も素朴な民たちでさえ、海を利用する術はよく心得ているものだ。ゆえにこの井戸の深さにも知恵が隠されている。
[ケルシー] ですが、今に至れど、ヴィクトリアの農夫やクルビアの労働者は、誰一人として海の全容すらも知らぬことでしょう。
[穏やかな老人] では……ケルシー女史。この道中、私が君にいくつの問いを投げかけてきたか、覚えているかね?
老人が小石を握った手を軽く振り、力を緩めると、小石はその手の中から滑り落ちていった。
二人はその小石から目を離しはしなかったが、その軌道はすぐ、闇に紛れて捉えられなくなった。
……2秒。あるいは3秒だろうか。その間、静寂が二人を包む。風はぴたりと止んでいた。
静寂。……ケルシーは思った。なんて静かなのだろう、と。
――ぽちゃん。
小さな音が井戸の壁を通り抜け、大地が静まり返ったほんの数秒のことを二人に気付かせようとするかのように響いた。
[ケルシー] 百二十三。これは、魔力の宿る数字ですね。
[穏やかな老人] ――百二十三の問い。百二十三の年月。今や、裁判所には……私より長く生きている審問官はいなくなってしまった。
[穏やかな老人] 彼らの多くは戦死し、天寿を全うした者はごくわずかだ。その上、この終わりなき苦悩の中で恐怖に屈して、望ましからぬ最期を迎えた者も少なくはない。
[穏やかな老人] 私はイベリアのすべてを見聞きしてきた。たとえば、艦隊の出航を目にしたこともあるし、ヴィクトリアの使節が絞り出す震え声を耳にしたこともある。
[穏やかな老人] だが、大いなる静謐はそのすべてを破壊した。まるで壮大な夢から目覚めさせるかのように。……以来イベリアの民は皆、美しい夢を打ち砕かれた衝撃で呆然とし、災厄への憎悪に飲まれ続けている。
[ケルシー] ……リーベリは決して長命な種族ではありません。それに、リーベリの神民が持つ健康と長寿を以てしても、今のイベリアが直面している災厄という重荷を背負うことなどかなわないでしょう。
[ケルシー] あなたが長寿であられることは、裁判所が生み出した一種の奇跡。その奇跡は、あなた自身にもひとかたならぬ使命感を与えたことと思います。
[ケルシー] 理想と栄光が失われ始めたあの時代に、あなたと、裁判所における初代の構成員たちは、「聖徒」と崇められていたのですから。
[穏やかな老人] 「聖徒」――人々を導くために用いたその呼び名は、たとえるなら焚き木のようなものだ……今となっては、無為なる灰に等しい。
[穏やかな老人] これまでに百二十三の四季が巡り、過ぎ去っていったが、私には冷たい冬のことばかりが思い出される。様々な真実を目にしてきたにもかかわらず、春の様子を思い起こすことはかなわない。
[穏やかな老人] ……ケルシー女史。
[ケルシー] はい。
老人の眼差しが変わった。
彼らの信仰はある種の言語として人々を結びつけ、祈りは道を切り開いた。イベリアという国家そのもの、あるいはその超越者たる彼は、己の顎を撫でながら風を読んでいる。
[穏やかな老人] 私は今日までに、百二十三年の歳月を生きてきた。そして、その中で得た悟りと同じ数となる、百二十三の問いを君に投げかけた。
[穏やかな老人] それでも、君は私の問う一つ一つに答えてくれた。つまり――私の知るすべてを、君はすでに知っているということだ。
[穏やかな老人] 人類は常に前進を続けている。それゆえ、謎が尽きることなど永遠にない。とはいえ、学問は「既知」という壁を乗り越えられはしないものだ。
[穏やかな老人] しかし、我々が抗っているものは、その高い壁の向こう側に存在している。それは黒くほの暗い森だ。
[穏やかな老人] ――けれども、そう考えるのなら……君はどこにいるのだろうか。壁のこちら側か、あるいは森すらも抜けた向こう側か……
[ケルシー] ご想像にお任せします。
[穏やかな老人] ふっ、ははは……君はその森の木々に生えた葉の枚数まで知っているのだろうな。まったく、恐ろしい人だ。
[穏やかな老人] イベリアの聖徒というものが、人間の到達しうる頂点であることに疑いの余地はない。だが、君がそれすらも凌駕する存在であるならば……決して常人とは言えまいな。
[穏やかな老人] 特殊なアーツで寿命を延ばしているのか、あるいはある種のいにしえの身分を受け継いでいるのか……はたまた、大いなる志を持った魂を宿しているのか。
[ケルシー] ……
[穏やかな老人] ……たとえ、信仰というものがまやかしに過ぎずとも、我々は希望を信じ続けてきた。しかし悲しいことに、私たちが老いに打ち負かされるに至っても、解決策は見つからなかった。
[穏やかな老人] 自らのアーツ、ないしはほかの手段を用いて、老いに打ち勝った長命の者もいる。だが、それはただ、絶えず現れる敵と戦い、消耗し続ける果てしない苦痛の日々への恐怖を膨れ上がらせただけだ。
[ケルシー] ――ならば、エーギルはいつ、イベリアから未知の恐怖と見なされるに至ったのでしょうか?
[穏やかな老人] 武器を持たぬ子供が、鋭利な得物を手にした見知らぬ人間の助けを借りようとは思わないだろう?
[ケルシー] ならば仮に、その子供が溺れかけているとしたら?
[穏やかな老人] そう仮定するにも、まずは君の言葉が真実だと証明してもらわねばなるまい。――君の語ったエーギルの現状、そしてシーボーンやその根源に打ち勝つ方法があるという話が、事実だということをな。
[穏やかな老人] それができないのなら、イベリアも私も、君を信用することはできない。
[穏やかな老人] 私の命があるうちに――君の、君たちの手で、イベリアに証明してみせてくれ。
[穏やかな老人] さもなくば、文明の火は潮水にかき消されてしまう。ほかの国々が準備を整えるより先に、彼奴らはイベリアを踏み越えて、この「世界」を引き裂くことだろう。
[穏やかな老人] ……テラの文明と社会のすべてを否定することなど、奴らの事細かく多岐にわたる思考の中では、生存競争の一部でしかないのかもしれないな。
[ケルシー] あるいは、我々と彼らの間に本質的な違いなどないのかもしれませんがね。
[Dan] ……のんびりしてるが、どんよりもしてる海辺の小さな町。静かなようで、賑やかでもある。一見、活気に満ち溢れている一方で、危険と謎にも満ちている……
[Dan] ん~! ここにいれば、創作意欲が湧いてくるに違いねーや!
[Dan] なあ、みんなはどー思う?
[Frost] (軽快なソロを奏でる)
[Aya] 海が近いから、不穏な感じだね。イヤな匂いもしてるし……
[Aya] やっぱり、海辺に来るなんて軽率だったんじゃないの?
[Alty] 大丈夫よ。刺激を受ければ、インスピレーションも生まれるしね。ほら見て、Danはもうじっとしてられないみたいよ。
[Frost] (重厚なソロを奏でる)
[Dan] 音楽的インスピレーションって奴な!
[Alty] ……そうよね。考えてみたらこれは、インスピレーションを得る良いチャンスだわ。
[Aya] あんなふうに成り果てた海から、着想を得ようってわけ? 思いも寄らないご提案ですこと。
[Dan] 思いも寄らないことだからこそ、取材する価値があるってもんよ!
[Alty] その通り! よく言ってくれたわ。
[Frost] (賛同のソロを奏でる)
[Aya] ……じゃあ、別行動しない? これくらいの荷物なら一人でも運べるし、私は宿に行こうかなって。
[Dan] オーケー! んじゃアタシ、あっち見に行きたいな!
[Alty] Aya、一人で大丈夫?
[Aya] ご心配いただいてどうも。私たちが「危険」の中にいるってことを覚えててくれて嬉しいよ。
[Frost] 宿、どこにあるんだ?
[Dan] 言われてみれば、こういう町にも宿屋なんかあるんだなー。こんなとこ、一体誰が来るんだ?
[Aya] さあ? でもまあ、需要はあるんじゃない? みんな、生きるために色々と工夫してるんだろうし。
[Alty] そうね。なんといっても、命あっての音楽だもの。
[Frost] (見事なソロを奏でる)
[Aya] ……海。……海だ。
[Aya] 私たち、帰ってきたんだ……
[ジョディ] すみません……少しいいでしょうか?
[エリジウム] もちろんどうぞ。
[ジョディ] あの、もしかしてまた一日中礼拝堂にいらしたんですか? ええと……
[エリジウム] エリジウム、だよ。
[ジョディ] あ、ごめんなさい……何度もお会いしているのに。
[エリジウム] 気にしないで。こんな名前、この辺じゃ珍しいでしょ?
[エリジウム] まあ、そもそも僕みたいなイケメン自体、イベリアでは滅多に見かけないだろうけどね!
[ジョディ] ……は、はあ……
[ジョディ] 確かに、あなたほど自信に満ちた人は……あまり、見かけないように思いますが。
[エリジウム] ……そっか。
[エリジウム] 僕も、ここに暫く滞在してみて、ようやく気付いたところさ。自分の思い描いていた故郷とは違う、こんな場所もあるんだなってことに。
[ジョディ] ……今日も誰かを待っていたんですか? もう何日もそうされているみたいですけど……
[エリジウム] あっはは! これが僕の仕事だから仕方ないのさ。それに、虫だの源石クラスターだのがゴロゴロしてる森の中よりは、ここで待つ方がまだマシだよ。
[ジョディ] ……エリジウムさんって、外から来たんですか?
[エリジウム] あ~、わかっちゃった? やっぱり、僕のこのオーラのせいかな?
[ジョディ] ええと……まあ、そう言えなくも……ない、ですかね?
[エリジウム] っていうと?
[ジョディ] 服装が……気になったので。
[エリジウム] おお、見る目があるね。
[ジョディ] ……グランファーロに外の人が来ること自体、珍しいですから。この町は人が少ないので、ここで育った子供たちは住民全員の顔を覚えているくらいですし。
[ジョディ] それに……ここは、近くに海がありますから……こんなふうにエーギル人と積極的に話してくれるリーベリとなると、ますます珍しいと言いますか……
[ジョディ] 裁判所の人が出入りするようになってからは、余計に……
[エリジウム] ……うん。
[エリジウム] 理解はできるよ。そういうことは、たくさん見てきたからね。
[ジョディ] じゃあ、イベリア領内のほかの都市でも、同じようなことが起きているってことですか? よそでは毎日お祭り騒ぎみたいな感じで、華やかに暮らしているって噂でしたけど……
[エリジウム] 領内どころか、イベリアの外でも起こりうることだよ。僕からしてみれば、どこもそう変わりはないね。それぞれの場所に、それぞれの問題があるってだけさ。
[エリジウム] けど、それはさておき、君は実際とっても話しやすい人だよ。もっとやりづらいエーギル人に会ったこともある僕が保証しよう。
[エリジウム] そいつは、思い出すだけでも頭が痛くなるような奴でね。僕の持つ常識を全部頭の中に叩き込んでやりたいと思ってたくらいさ。
[ジョディ] ……うーんと……
[エリジウム] ……やだなあ、どうして「あなたの常識なんて本当に役に立ちますかね」って顔で見てくるんだい?
[ジョディ] そ、そんなこと思っていませんよ!
[エリジウム] ほんとかな~? 僕のこと、毎日ぶらぶら歩き回ってるだけの暇人だと思ってもらっちゃ困るよ。僕だってそれなりになが~~く旅をしてきたし、いろ~~んなものを見てきたんだからね。
[ジョディ] エリジウムさんって、冒険家なんですね……それなら、ほかの場所のエーギル人がどんな暮らしをしているのか教えてくれませんか?
[エリジウム] ……はは、その話題かあ。
[エリジウム] 悪くはない暮らしだよ。
[エリジウム] ……うん。悪くはない。
[???] ティアゴ町長……そう毎日ここへ足を運んでいただかなくてもいいのですよ。
[ティアゴ] 悪い噂を耳にしたもんでな。お前たちのことが心配なんだよ……アマイア。
[アマイア] 悪い噂というと……あの邪教徒たちの噂でしょうか?
[アマイア] ですが、ここは海のみならず、裁判所――ひいては、今のイベリアの中心部にも近い場所ですよ。
[アマイア] 噂になるようなことなど、起こりようもありません。
[ティアゴ] どうかな。こういうのはそう珍しいことでもない。海の近くでは、どこだろうとよくある話だ。
[ティアゴ] それに、聞いた話じゃ……海岸で怪物を見た奴もいるらしいぞ。
[アマイア] ……もしかして、ペドロさんから聞いた話ですか?
[アマイア] あの人は、お酒が切れると与太話ばかり口にしますからね。
[ティアゴ] ……
[アマイア] 心優しきティアゴ。あなたは、あの礼拝堂で働いているジョディを心配しているだけなのでしょう?
[ティアゴ] ……俺には教養がない。……お前の助言があれば、気も休まるかもしれないと思うんだが……
[ティアゴ] あの噂は……本当なのか? 幽霊船だの、邪教徒だの、深海に潜む怪物だの……
[アマイア] ……裁判所はもう長いこと、私たちが海に出ることを許していませんからね。
[ティアゴ] ああ。あれから八十四年、いや八十五年だったか……覚えちゃいないが。
[アマイア] 大いなる静謐が起きたのは1038年のことです。禁令が出てからまだ五、六十年ほどしか経っていませんよ。
[アマイア] あなたの記憶では、そんなにも長い間縛られてきたと感じているのですか? あなたはそこまで高齢ではないと思いますが、生まれた時からこの町に囚われてきたということでしょうか?
[ティアゴ] 貧乏暮らしを監獄にたとえんのなら、確かに俺は長いこと囚われてんだろう。
[ティアゴ] マリーンが死んでからは、海を眺めさえしちゃいないんだ。どうにも憎らしくてな。
[アマイア] ……あなたの心配事は、噂そのものというよりは、裁判所のことなのでしょう? 噂をきっかけにより大勢の懲罰軍が町へ来て、エーギルを皆連れ去ってしまうのではと案じているのですよね。
[ティアゴ] ……
[アマイア] ああ、気の毒なティアゴ……
[アマイア] 裁判所に、あのエーギルの女性を――愛した人の命を奪われたことへの、あなたの不満と憤りは理解できます。ですが、皆さんのためにもどうか言動には気をつけてくださいね。
[ティアゴ] ……お前の言う通りかもしれん。
[ティアゴ] ……忠告に従おう。お前は俺たちより、よほど物をよくわかってるわけだしな……ところで、今日は何をやってんだ?
[アマイア] いつも通りですよ。この恐ろしいほどのどかな町で、凡庸な翻訳者としての仕事をしているだけです。
[アマイア] とはいえ、このところ何か月もトランスポーターが町に来ていないものですから、原稿は溜まる一方で。本当に、頭の痛い問題です。
[ティアゴ] ははあ、翻訳か! 俺は生まれてこの方、町を出たことなんざないからなあ。イベリア語以外はさっぱりわからんよ。
[アマイア] ……あら? もうこんな時間でしたか。
[ティアゴ] おお、そろそろジョディの仕事も終わる頃だな。……この先、あの子に裁判所がくだらん因縁をつけてこなけりゃいいんだが。
[ティアゴ] さて、帰るとするか。じゃあな、アマイア。
[アマイア] はい。お気をつけて、町長。
[アマイア] ……邪教徒、ね。
[アマイア] ……
アマイアと呼ばれた若い女性は、しばし物思いにふけってから、目の前に広げた紙へと意識を戻した。
ウルサスの小説、カジミエーシュの伝記、リターニアの詩、サルゴンの民話……
今、彼女の眼前には、本という名の大地が積み上げられ、それが言葉という形で解体され、整然と、そして厳粛に並べられていた。
湿った空気が、ページをめくる指の運びを軽くさせる。
[アマイア] ……海の感触がするわ。
[アマイア] ――「波の花はなおも速く、風は臆病に吹いている。珊瑚が水平線を描き出し、光を放ってあたりを照らす」。
[アマイア] 「我らは、翼を持たぬ自らを恨むことになるのだろう」。
[エリジウム] 今日の仕事はもう終わり?
[ジョディ] あっ、は、はい……
[ジョディ] ご覧の通り、ここには普段ほとんど人が来ませんから、僕の仕事なんて、ちょっとした掃除くらいのもので……まあ、介護士とは言いつつ怪我人がいれば手当したりもするんですけどね。
[ジョディ] あなたのほうは、今日もまだ待つんですか?
[エリジウム] そうだよ。本当なら、先週には来るはずだったんだけどね。上の人が言うには、彼女たちは変人だから、遅刻してきても不思議じゃないんだってさ。
[ジョディ] それでも、遅刻は良くないと思いますけど……それにしても、今時わざわざグランファーロに遠出してまで、待ち合わせをする人なんているんですね。
[エリジウム] 変な話だよね。僕もそう思うよ。だからこそ、Miseryさんがこの話をしてくれた時に、自分から志願したわけだし。
[エリジウム] とはいっても、一ヶ月滞在することになるなんて、思いもしなかったけどね。ほーんと、待つだけの時間ってすっごく長く感じるよ。
[ジョディ] あの、ただ……裁判所は、あなたみたいなよその人がグランファーロに立ち入ることを許さないと思うんです。
[エリジウム] それって、ここが裁判所の本拠地に近いから?
[エリジウム] あるいは……海に近いからかな?
[ジョディ] ……もしかすると、その両方かもしれません。
[エリジウム] ……なるほど……
[ジョディ] ところで、エリジウムさんはどうやってグランファーロへいらしたんですか? 僕はあまり外に出たことはありませんけど、ここがほとんど廃墟同然の町でしかないことくらいはわかりますし……
[エリジウム] 君が聞きたいっていうのなら、いくらでも話してあげるよ。なんせ死ぬほど暇してるからね。
[ジョディ] ご迷惑でなければ、今度……って、あっ!
[ジョディ] もうこんな時間……! ごめんなさい、ティアゴおじさんが待っているので、帰ってごはんを作らないと……
[エリジウム] ああ、気にしないで。おじさんって、ご家族かい?
[ジョディ] ええと……そんなところです。おじさんは、僕を育ててくれた人ですから。
[エリジウム] そうか。……一つ伝えておくけど、エーギル人だからってだけで、そんなに卑屈になることないと思うよ。君に良くしてくれる人がいるなら、もっと色々前向きに考えてみたらどうだい?
[ジョディ] ……そうですね。ありがとうございます、エリジウムさん。
「グランファーロ」。古代イベリア語で、灯台を表す言葉だ。
灯台はかつて船を照らす明かりであり、船乗りたちの帰るべき場所でもあった。
船が海と恋に落ちて抱擁を交わし、やがて滅びゆく時まで、幾人の魂がサンゴ礁の下に留まっていたことだろうか。
[ジョディ] (あれ、アマイアさん? どこへ行くんだろう。……ん?)
[ジョディ] (なんだか、向こうが騒がしいような。珍しい……何かあったのかな……?)
[Alty] それで、どこに行きたいの?
[Dan] 礼拝堂! 人間の手は祈るためなんかじゃなくて、ドラムを叩くためにあるってことを教えてやるんだ!
[Aya] ……この広場、町の中心にあるみたいだね。ここを囲むようにして家が建てられてる。
[Frost] 彫刻、灯台……
[Frost] これは海を照らすしるべであり、この町を導くしるべでもある……なんてな。
[Dan] 何それ、だっせー!
[通りすがりの町民] おかしな連中だ。あまり近付かないように。
[周りで見ていた町民] そういえば、この前ペドロさんがそんな話をしてたような……
[通りすがりの町民] ともかく、下手に関わるなよ。こっちまで連行されかねん。
[通りすがりの町民] まったく……どうして近頃はこんなによそ者が多いんだか。裁判所は何をやっているんだ?
[ジョディ] (あの人たち……知らない人だ。格好を見るに……ミュージシャンかな?)
[ジョディ] (……? こっちを見てる……?)
[Aya] ......
[ジョディ] こ、こんにちは……?
[Aya] ――ここは海辺の町だし、てっきりエーギルがいっぱいいると思ってたのに、いくら歩いても全然見かけなかったから……急に君みたいなエーギルに会うと、逆に変な感じしてくるね。
[Aya] 君は……ここで何が起きてるのか、知ってる?
[ジョディ] な、何が……って、どういうことでしょう?
[Aya] まあ、知るわけないか。君も海の子じゃなくて、陸で生まれたエーギルだろうし。
[Aya] そういう子に会うのももう慣れたし、意外でもないけどね。
[Alty] Aya~?
[Aya] 今行く。
[Aya] あっ、そういえば君……んーと……
[ジョディ] ぼ、僕がどうかしましたか?
[Aya] あの彫刻、何だかわかる? 地元の人的には常識だったりする?
[ジョディ] あれは……灯台を模して作ったものです。前は、モデルになった灯台関係の仕事が色々とあったそうで、そのあとも、労働者とその家族が大勢ここに残っていて……
[Aya] 君のところもそうなの?
[ジョディ] ええと……はい。うちには、今でも当時の図面や写真なんかが残っていますし……
[Aya] ふぅん……陸上国家イベリアの灯台か。面白いじゃない。
[Aya] ところで、あの匂いは君からじゃないみたいだね。となると、君たちは特に用心したほうがいいと思うよ。
[ジョディ] ……行っちゃった。あの人が持っていたのって、楽器かな……?
[ジョディ] ……もしかして、エリジウムさんが待っている人だったりして。
[ティアゴ] ジョディ。
[ジョディ] あっ、ティアゴおじさん。ごめんね、帰りが遅くなっちゃって――
[ティアゴ] 今いた連中とは関わるな。尾や耳が見えん上に羽もない……ありゃ全員エーギル人かもしれん。
[ジョディ] ぼ、僕――
[ティアゴ] 良い子だから言うことを聞いてくれ、坊主。俺もエーギルへの偏見はないが、近頃はあんな噂もあるだろう。
[ティアゴ] だから、ああいうよそ者のエーギルには近付いちゃならん。海辺に現れたエーギルのそばに審問官や懲罰軍の姿がないってのは、そいつには何か問題があるってことなんだからな。
[ティアゴ] そりゃあ、俺もあの連中が善人だと信じたいが、裁判所もそう考えるとは限らんし……頼むから、大人しくしててくれ。お前が連れて行かれるのは見たくない……すまんな、こんなことを言って。
[ジョディ] ううん、謝らないで。
[ジョディ] ……ちゃんと、わかっているから。
[ケルシー] こうもすんなりとご承諾いただけるとは思っていませんでした。
[聖徒カルメン] 三人のアビサルハンターのこと……そしてサルヴィエントでの出来事については、私もすでに耳にしていたんだ。何しろ、アイリーニの報告は常々細やかなものなのでね。
[聖徒カルメン] それに、君がイベリアを害するつもりでいるのなら、もっと簡単な方法があるはずだとも思ったのさ。
[聖徒カルメン] そもそも、彼女たちアビサルハンターが本当に報告通りの強靭さや俊敏さを備えていたとしても、裁判所であればコントロール可能な範疇だ。
[聖徒カルメン] つまり、裁判所は三人の死刑を保留したに過ぎない。私が彼女らにイベリアの地を踏むことを許しているのは、君の言う真相に興味があるからというだけのことだ。
[ケルシー] ですが、その傲慢さこそが、イベリアの状況を悪化させているのではありませんか?
[聖徒カルメン] 実のところ、我々は傲慢という言葉を深く理解している。あれは人間にとって影にも等しいものだ。死にゆく人の足元に纏わり付いて離れぬようにできているのだよ。
[聖徒カルメン] さて、君と縁のある二人の審問官たちも、裁判所からの密命を受けている。必要となれば、我々の前に現れることだろう。
[聖徒カルメン] ……ときに、素性の知れないエーギル人が数名、グランファーロに来ているようだが……君からは何も聞いていないな。
[聖徒カルメン] 一体、何者だ?
[ケルシー] 彼女たちはエーギルではありません。
[聖徒カルメン] ……
[聖徒カルメン] ――イベリアの史料では今やほとんど語られないことだが、この国の最盛期には、大陸全土を横断してボリバルの平原へと進軍したこともあった……
[聖徒カルメン] まるで滝が谷へと降り注ぐように、どれだけの知識と金貨が私たちの街へと流れ込んできたことか。あの栄光の滝は、波音をかき消すほどの轟音を立てていたものだ。
[聖徒カルメン] ……(サルゴン語)「台頭した者」、あるいは「巨獣」か。
[聖徒カルメン] ともすれば、私が注意を向けるべきなのは彼女たちのほうかもしれないな。どうやら敵意はないようだが、何か胸騒ぎがする……もしや、彼女らはかつて、海に属する者だったのだろうか。
[聖徒カルメン] ……ケルシー女史、君は医者だろう。少し、裁判所に力を貸してはくれまいか?
[ケルシー] ……お伺いしましょう。
[聖徒カルメン] 裁判所の本拠地は、現在の海岸線から極めて近くにある。ゆえに、我らは常に破滅への覚悟と備えを持っている。
[聖徒カルメン] だが、私は部外者である君にこそ、我々の目となってこの先を見通してほしいのだ。
[ケルシー] 拒否する理由はありませんね。本件について、我々の利害は一致していますから。
[聖徒カルメン] ならば今は、長い歳月が君にもたらした神秘を取り去っていただけるかな。その上で、共に手を携え、民の中に潜んだ悪を探し出そうではないか。
[ケルシー] 神秘、ですか。そちらはお褒めの言葉と受け取りましょう。……光栄の至りです。
[スカジ] ……ねえ、グレイディーア。
[グレイディーア] あら、少し一緒に過ごしただけで呼び名を変えるだなんて……あなたも昔とは随分変わったみたいね。
[スカジ] ……第二隊長、聞きたいことがあるの。
[グレイディーア] あの腐臭のする海岸を離れてからは、あらゆる情報を共有してきたはずでしょう。
[スカジ] いいえ、まだ全部じゃないわ。
[スカジ] だって、彼女を連れて行く理由を聞いてないもの。私たちが行けば十分でしょ? なのにどうして……
[グレイディーア] 今の様子をご覧なさい。あれが、あの子の現状なのよ。
[グレイディーア] ロドスでの治療記録はすべて確認したけれど……あなたも、あんなに無口な彼女を見たことはないでしょう。
[グレイディーア] あの子を救いたいとは思わないの?
[スカジ] じゃあ、これが助けになるってこと?
[グレイディーア] ひょっとしたらね。
[グレイディーア] とはいえ、結局彼女の幻想を打ち砕くことは彼女自身にしかできないのだけれど……きっとローレンティーナになら、あの下劣な実験がもたらした結果を乗り越えることができるはずよ。
[グレイディーア] ……でもその前に、落ち着ける場所を用意してあげなければね。
[スペクター?] ……
[スカジ] 彼女の意識がほんの少しの間戻ってきたあの時……私には、ただそれを見ていることしかできなかった……
[グレイディーア] 気にしすぎるのは良くなくてよ。あの子がもう一人の自分を嫌ってはいないのなら、私たちにとやかく言う権利なんてないのだから。
[スカジ] ……思ったより、ケルシーのことを信用してるのね。
[グレイディーア] かもしれないわね。何しろ、彼女は単身イベリアに残って、私たちにチャンスを作ろうとしてくれているのだもの。これは驚嘆すべきことであり……感謝せざるを得ないことでもあるわ。
[グレイディーア] 彼女のほうも、すべて上手くいくと良いのだけれど。
[エリジウム] ……おっと、もうこんな時間か。
[エリジウム] しかし、今日も来なかったなあ。この町ではこの建物が一番目立つから、ここで待ってればそのうち会えると思うんだけど……
[エリジウム] 待つだけっていうのもさすがに飽きてきちゃったし、こんなことならロドスからもっと本でも持ってきとけば――
[Alty] ――わあ、ラテラーノ式の礼拝堂!? 不思議ね、ここは海が近いのにこんなに完璧な状態で残されてるなんて! まあ、なんだかほかとはかなり違う雰囲気みたいだけど……
[Alty] だって、ラテラーノの礼拝堂なら、ラテラーノ人さえいれば即興ライブができるくらいなのに、ここの空気は重苦しすぎて……あら?
[エリジウム] えっ……
[エリジウム] ――Altyさん!?
[ティアゴ] しばらく海には近づくなよ、ジョディ。礼拝堂の中なら安全で清潔だし、あそこにいてくれさえすりゃあいいんだ。余計な心配はするな。
[ティアゴ] ……今年は若いのもあまり戻っちゃこなかったし、ここを離れた連中は大抵、大都市でやっていく道を見つけてる。……それに比べて今の俺たちは、裁判所の援助がなけりゃ生きていけないんだ。
[ティアゴ] ここを離れろと言ったこと、お前もよく考えてみてくれ。この辺の奴らは皆、灯台を修理するために集まった労働者家庭ばかりだったが……時代は変わった。遅かれ早かれ、町は廃墟と化すことに――
[ティアゴ] ……ジョディ?
[ジョディ] うん。聞いているよ、おじさん。
[ジョディ] でも、僕はエーギルだし……一体、どこへ行けばいいのかな?
[ティアゴ] アマイアが言うには、町の外にならエーギル人の扱いがそうひどくないところもあるって話だぞ。
[ジョディ] だけど……結局、自分の居場所は自分で見つけないといけないものだよね。そうなると、今の繋がりもあるし……そう簡単には決められないよ。
[ジョディ] 僕はまだ……覚悟ができていないんだと思う。
[ティアゴ] ……わかった。
[ティアゴ] そういえば、アマイアから本をもう一冊もらったんだ。あいつが翻訳したそうなんだが、俺にはどうせ読めんし、お前にやろう。礼拝堂に持っていって暇つぶしに使うといい。
[ジョディ] そうするよ。ありがとう。
ジョディは街道をゆっくりと歩いていく。
目の前を歩く老人の腰が段々と曲がり始めているのを見留めた時、彼は去年のティアゴの姿を思い出さずにはいられなかった。
老いというものは常に音もなく訪れて、月日が少しずつ流れていることを知らしめてくるのだ。目が覚めてから眠りにつくまでのすべての瞬間は、苦しい呼吸を続けるようなものだった。
けれども、ジョディはそれに文句を言いはしなかった。彼はそんな暮らしに慣れきっていたのだ。
[ジョディ] ……ティアゴおじさん。
[ティアゴ] うん?
[ジョディ] 僕は今の生活が好きなんだ。礼拝堂の仕事を手伝って、たまに子供たちのお世話をしたり、仕事中に怪我をした人がいれば傷の手当てをしたりして……
[ジョディ] そうだ、最近は外から来た人とも知り合いになったんだよ。ちょっと変わったリーベリでね、エリジウムさんっていうんだ。……ね、だから僕のことは心配しないで。
[ジョディ] ほら、裁判所の人だってこの町にはずいぶん来ていないし、そこまで神経質にならなくてもいいんじゃないかな。
[ティアゴ] ……実の所、あそこは礼拝堂じゃなく、詰め所だったんだ。労働者たちがまだ灯台を修理しようとしていた頃、裁判所が俺たちを監督するために建てたのさ。
[ティアゴ] だが、海岸線が脅かされることもなくなって、イベリアの眼の補修工事も中断された今、確かに審問官どもは俺たちのことなんざ気にも留めちゃいないだろうな。
[ティアゴ] もちろん、個人的な感情を抜きにして言えば、裁判所もまったくの役立たずってわけじゃない。「あれ」を止められるのはあの連中だけだと思えば……
[ジョディ] ……「あれ」って?
[ティアゴ] ……気にするな。ただの噂だよ。労働者連中の間で聞いた話さ。
[ジョディ] ……噂……
[ティアゴ] ジョディ?
[ジョディ] ……
[ジョディ] ……こ……ここが、そうなのかな?
[ジョディ] でも、あれは一体……? やっぱり、まずはおじさんに知らせるべきかな……
[ジョディ] ――!
[怪物] ――
[ティアゴ] ……ジョディ? どうかしたのか?
[ジョディ] ……う、ううん。なんでもない。
[ジョディ] ねえ、ティアゴおじさん……海のそばには、何があるの?
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