呉の名店 - 呉市周辺の遺構まとめ
三宅本店江戸時代から続く酒造メーカーで有名な清酒『千福(せんぷく)』を製造する蔵元です。当初は清酒の醸造していませんでしたが、明治36年に呉海軍工廠が建設されると酒需要の増加を見込んで清酒の醸造と販売を開始し海軍関係者に好評を博しました。その後、高温環境での劣化が起きにくいなど品
三宅本店江戸時代から続く酒造メーカーで有名な清酒『千福(せんぷく)』を製造する蔵元です。当初は清酒の醸造していませんでしたが、明治36年に呉海軍工廠が建設されると酒需要の増加を見込んで清酒の醸造と販売を開始し海軍関係者に好評を博しました。その後、高温環境での劣化が起きにくいなど品
呉海軍工廠呉海軍工廠は太平洋戦争終戦まであった海軍の軍需工場地帯『海軍工廠』とは海軍艦艇の建造・修理、艦艇に搭載する兵器の製造・修理・保管、艦装品の製造・調達・供給等を行う軍需工場の総称です。明治19年に制定された海軍条例に基づき海軍の根拠地である鎮守府が日本各地に決められ、明治
GoogleMap置き換えMSFS2020ではBingMapで全世界の地表テクスチャーを表示させています。これは画期的なことで、地球上すべてが航空写真によるフォトリアルシナリーとなっています。しかし残念ながらGoogleMapの方がBingMapよりも高詳細、最近の航空写真が使わ
軍用鉄道宇品線軍用鉄道宇品線は広島駅と宇品港を結ぶ鉄道で、明治27年の日清戦争開戦を受けて建設された鉄道日清戦争開戦にあたり広島市に大本営や帝国議会が置かれ、宇品港が中国大陸への陸軍の輸送拠点になるなど広島市は事実上日本の首都となりました。当時、鉄道は日清戦争開戦の明治27年まで
光海軍工廠光海軍工廠は山口県光市にあった海軍の軍需工場地帯『海軍工廠』とは海軍艦艇の建造・修理、艦艇に搭載する兵器の製造・修理・保管、艦装品の製造・調達・供給等を行う軍需工場の総称です。光海軍工廠は日本で7番目に作られた海軍工廠で昭和13年に建設が決定し、太平洋戦争直前の昭和15
広島城広島城は戦国大名毛利輝元によって築かれた城明治時代に入り、明治4年に制定された鎮台制によって陸軍の『鎮台』がここに設置されました。鎮台とは、富国強兵の明治時代に国内の治安維持のため日本を5つの管区に分けて設置された陸軍の最大編成単位です。当初は鎮西鎮台の第1分営として創設さ
海上自衛隊呉造修補給所貯油所(旧乙廻燃料置場)吉浦駅の近くにあります。乙廻燃料置場は有事に備えての海軍の燃料貯蔵計画の一部として建設が決まりました。昭和7年に用地買収が始まり、昭和12年に海軍軍需部乙廻燃料置場として完成しました。太平洋戦争終戦後に進駐軍に接収され、イギリス軍やオ
海軍軍需部倉橋島燃料置場跡海軍軍需部倉橋島燃料置場は倉井一帯に建設された海軍の燃料基地倉橋島燃料置場は、有事の際の海軍の燃料貯蔵の一環としてここ倉橋島東部の倉井に重油の貯蔵基地を作る計画が決まり、昭和11年から用地買収が始まりました。その後、段階的に重油槽が建設され最盛期には36
黒瀬街道広と郷原・黒瀬を結んでいた旧道二級峡からもわかるように、かつて沿岸部の広から内陸部の盆地である郷原に行くためには非常に狭く急な山道(旧黒瀬街道)しかありませんでした。明治16年に地元の豪家が馬車も通れるようにと山沿いに『黒瀬街道』を作り交通を改善させました。明治32年には
尾道尾道は明治16年に制定された海軍条例によって瀬戸内海に鎮守府を置く計画の候補地としてあがります。その後、西にある三原が暫定候補地となりますがもしかしたら「尾道鎮守府」が誕生していたかもしれません。さらにその後の調査で呉が最終的な鎮守府に決定されました。鎮守府の候補地として挙が
鹿島鹿島は倉橋島の南東にある広島県最南端の有人島呉駅から自動車で約2時間で行くことができる鹿島は全周9.2km、人口約300人という小さな島です。山口県の柱島と同じくらいの大きさですが、柱島と違って「本州とつながっている」という大きな利点があるため、島にしてはそれほど過疎化が進ん
柱島山口県岩国市の沖26㎞に浮かぶ小さな島人口140人程度の小さな島ですが太平洋戦争中は南にある屋代島との間に日本海軍の錨泊地柱島泊地がありました。当時は、海軍との交流もあったようで連合艦隊司令長官山本五十六も柱島を訪れたことがあります。戦艦陸奥英霊之墓南東の洲鼻(V字型の岬部分
戦艦大和デザインマンホール戦艦大和のイラストが描かれたマンホールの蓋大和ミュージアム前、美術館通り、長迫小学校前の3カ所にあります。全12種類で戦艦大和の一生が描かれています。 備考 ・6つは美術館通り(海上自衛隊呉地域事務所跡から入船山記念館へ続く道)にある
Googlemapのリンク掲載機能について Wiki3では、GooglemapのURL(https://www.google.co.jp/maps/place/〇〇/@△△△)をページに貼り付けることで 以下のように任意の位置情報を掲載することができます。 1ページ
MSFS2024 解説MSFS2020 日本語解説Automobilista2解説モンハンVR化解説hideGのVR情報Carrier Command 2Project CARS 2 VRETS2・ATS:VRVTOL VR 日本語解説Fallout4 VR 日本語解説ZENIT
大竹潜水学校跡大竹潜水学校は太平洋戦争終戦まであった海軍の学校潜水学校とは潜水艦の乗組員を育成する教育機関で、砲術学校や水雷学校等の技術学校を卒業し艦艇で勤務経験を積んだ士官が入校できる学校です。潜水学校は元々呉市の呉海軍工廠火工部のとなりにありましたが、太平洋戦争中の昭和17年
大津島大津島(おおづしま)は山口県徳山港の沖約10㎞に位置する島で、7つの集落に約300人が住んでいます。かつては大津島と馬島の2つの島に分かれていましたが、太平洋戦争末期に人間魚雷『回天』の訓練基地と工場の建設が行われ、2つの島の間の浜が埋め立てられて1つの島となりました。人間
陸軍江波射撃場跡江波皿山のふもとにあった陸軍の射撃場跡江波射撃場は当初『広島鎮台付属射的場』という名称で明治8年に第五師団練兵場とともに作られました。(明治10年という説もあり)その後、大正7年の地図にも記載されていますが太平洋戦争前には無くなっており日清・日露戦争で兵站拠点と
阿多田半島山口県熊毛郡平生町にある阿多田半島柳井の南にあるこの田舎の半島は、太平洋戦争中に人間魚雷『回天』の訓練基地がありました。阿多田半島は縄文時代から人が住み始め、弥生時代には遺跡や古墳が多く作られました。また室町時代には塩の生産地として栄え塩田が広がる平和な土地でした。しか
山陽煉瓦山陽煉瓦株式会社は竹原市吉名にあるレンガ工場吉名はレンガの原料となる鉄分を豊富に含む良質な赤土が取れる上に、瀬戸内海に面しているため輸送に適しており明治時代からレンガの生産地として知られていました。レンガ建築が主流だった明治時代は、呉線の呉ー三原間まだ開通しておらず自動車
飛渡瀬(巡洋艦大淀終焉の地)飛渡瀬(ひとのせ)は江田島湾の一番奥、江田島と能美島の間の交通の要衝にあります。元々ここには江田島と能美島の間にあった瀬戸(小さな海峡)があり「飛び越えて渡れる瀬戸」という意味の地名が由来となっています。巡洋艦大淀は太平洋戦争中に竣工した軽巡洋艦で連合
吉松山防空砲台跡吉松山は広市街地の北東(船津神社の裏)にある山ここには太平洋戦争末期の昭和20年に広海軍工廠防衛のため呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。広の大抵の高い山には広海軍工廠を守るための防空砲台が多く作られましたが、ここもその1つです。砲台床砲台床は全部で4つあります
旧川原石駅跡川原石駅は呉線の駅川原石駅は昭和10年の三呉線(呉線全線)開通の際に昭和10年に設置された駅です。呉駅と吉浦駅の間に作られた駅ですが位置的には呉駅側に近い東川原石町に作られました。しかし、開業から僅か5年後の昭和15年に燃料事情の悪化により休止となりました。太平洋戦争
尾立の防空壕跡(西側)尾立(おたち)集落の西端の斜面にあります。大型で横長の壕口がコンクリートで塞がれた跡が残っています。ただし、防空壕は壕口が大きいと爆風を完全に防げない上に内部に支柱が必要になるため、もしかすると防空壕ではない可能性があります。尾立集落は、呉市街地が甚大な被害
川原石第四橋梁川原石駅と吉浦駅の間にあります。呉線開通当時から残るレンガ造りのトンネルで、川原石駅と吉浦駅の間は地平より高い位置に線路があるためこの上を呉線が通っています。呉線開通当初はこのトンネル内に水路もありましたが、現在は暗渠にしてあるため通路のみとなっています。写真で見る
音戸の瀬戸瀬戸(せと)とは海峡の意味で『音戸の瀬戸』は警固屋(本州)と倉橋島の間にある小さな海峡のことです。元々は干潮時に陸続きになるような砂州地形でしたが、海運の便を良くするため平安時代に平清盛が掘削して海にしたといわれています。音戸の瀬戸は船舶が航行可能幅が70mしかない非常
広燃料置場跡広燃料置場は現在の新広駅の南にあった海軍の燃料基地現在は虹村公園と工業団地となっていますが、太平洋戦争終戦までここは海軍の燃料基地である広燃料置場があり、大量の地中式重油槽がありました。広燃料置場は、海軍艦艇や海軍工廠で使用する燃料である重油を貯蔵する燃料基地として建
旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠広海軍工廠は太平洋戦争終戦まであった海軍の軍需工場地帯『海軍工廠』とは海軍艦艇の建造・修理、艦艇に搭載する兵器の製造・修理・保管、艦装品の製造・調達・供給等を行う軍需工場の総称です。広海軍工廠は呉海軍工廠創設から26年後の大正10年、当時の新技術で
宇品中央公園(旧陸軍船舶司令部(暁部隊))陸軍船舶司令部は通称「暁部隊」(あかつきぶたい)と呼ばれる陸軍の海上輸送などをおこなう部隊です。周囲を海に囲まれた日本の陸軍には古くから輸送船や揚陸艇また太平洋戦争では潜水艦や空母まで陸軍が保有しており、それらを扱う専門部隊として『陸軍船
特設警備隊広島西部第二部隊慰霊碑特設警備隊とは太平洋戦争末期の本土決戦に備えて陸軍が編成した臨時部隊特設警備隊は主にインフラの警備にあたる部隊で、通常は少数の幹部隊員が常駐し有事の際は隊員が召集され戦闘を行います。広島西部第二部隊は旧広瀬国民学校に駐屯しており隊員と動員学徒兵約2
室尾の民家の防空壕跡室尾集落は倉橋島南東にある集落で、コミュニティバスが通る集落の中では最大の集落です。集落の東側にある民家跡に防空壕跡が残っています。呉市周辺で見られる民家の防空壕跡は貴重品用と人間用で2つあるものが多いですが、ここは小型が1つのみです。貴重品用のみしか作られな
呉憲兵隊跡呉憲兵隊は現在の呉警察署、もしくは呉税務署辺りにあった海軍の施設憲兵とは、陸海軍の兵科の1つで軍隊内の犯罪調査や風紀の維持、軍隊内の反戦運動の取り締まり等を行う警察のような組織です。また、戦時下には民間人に対しても軍事機密の保持や防諜のための取り締まりを行います。呉憲兵
宇品駅陸軍糧秣支廠倉庫跡軍用鉄道宇品線に併設された陸軍糧秣支廠の関連施設広島市には糧秣支廠の他に被服支廠・兵器支廠という陸軍の軍需工場である『陸軍三支廠』がありました。そこで製造・調達された物資は軍用鉄道宇品線で兵站拠点である宇品港まで運ばれて船で海外へ輸送されていました。宇品駅
広島要塞砲兵連隊跡広島要塞砲兵連隊は比治山と京橋川の間にあった陸軍の要塞司令部要塞砲兵とは都市や砲台で要塞砲や高射砲を用いて防衛にあたる兵科のことです。明治30年代、広島湾に外国艦隊が侵攻してきた際に、広島市と呉市を防衛するために陸軍の要塞砲台が各所に築かれました。その要塞群を管
鷹ノ巣山低砲台跡広島県廿日市市にある日本三景の一つ『安芸の宮島』有名な厳島神社の南東(島の反対側)に標高194mの鷹ノ巣山があります。ここには明治33年に陸軍が外国艦隊迎撃のために築いた広島湾要塞の1つ、鷹ノ巣山砲台がありました。鷹ノ巣山砲台は宮島と大那沙美島の間にある那沙美瀬戸
大野瀬戸瀬戸(せと)とは海峡の意味で『大野瀬戸』は宮島と本州の間にある海峡厳島神社で有名な宮島は斜めに縦長で本州に寄り添うような形をしており、宮島と本州の間の最狭部にある海が大野瀬戸です。宮島と本州の間の海は全長は約14kmありますが、最狭部にあたる大野瀬戸の海峡幅は約600mし
龍神山のサイレン龍神山は広島市西区井口にある標高58.5mの山龍神山は江戸時代には小己斐山(こごいやま)と呼ばれており、京都から下関へ通じる西国街道の一部でした。江戸時代や明治時代は南の一帯はまだ埋め立てられておらず、龍神山の南はすぐ海であったため山頂から見える広島湾はとても眺め
海上自衛隊呉造修補給所工作部エアクッション艇整備科(旧海軍飛渡瀬燃料置場)江田島中部の小方と呼ばれる場所にあります。現在は海上自衛隊の施設ですが、かつてここは海軍が作った飛渡瀬燃料置場でした。飛渡瀬燃料置場は有事の際の海軍の燃料貯蔵の一環として大正時代に建設されました。40基以上
広島電鉄動力車操縦者養成所(旧広島電気軌道千田町発電所)広島電気軌道千田町発電所は広島電気軌道(現在の広島電鉄)が路面電車事業を開業する際に建てた発電所です。現在の路面電車は電力会社から電気が供給されていますが、当初は広島電気軌道が自社で発電を行っていました。ここには大正元年にボ
軽便鉄道線路跡軽便鉄道はかつて広島市南区にあった鉄道広島市といえば広島電鉄の路面電車が有名ですが、実は広島電鉄の開業より30年以上も前の明治21年に、一回り小さい「軽便鉄道」と呼ばれる小さな鉄道が既に運行されていました。この軽便鉄道が広島市内で初めて運行された鉄道でした。軽便鉄道
国安牧場(海軍航空隊可部基地飛行場跡)海軍航空隊可部基地は太平洋戦争末期に作られた特攻隊の飛行場太平洋戦争末期の昭和20年5月頃より本土決戦に備え日本各地で特攻隊の飛行場が建設されました。これらの特攻隊飛行場は目的を隠すため隠語で「牧場」と呼ばれました。ここ広島県高田郡根野村国安
小用町の防空壕跡(国道沿い)国道487号線沿いに3つあります。写真1枚目は斜面を掘ったもので中型ですが経年による風化の影響で半分崩れてしまっています。小用港は戦争末期に戦艦榛名が凄まじい空襲を受ける戦闘があったことから防空壕跡もたくさんあります。小用町の防空壕跡(林道沿い)こちら
元宇品公園南区の広島湾に突き出出た陸地元々は島でしたが明治時代の宇品港築港事業の際に埋め立てられて陸続きとなりました。その後、昭和天皇が皇太子時代に視察された際に「原生林をそのまま残してはどうか」とご提案されたことがきっかけで、昭和2年に遊歩道が設置され公園となりました。現在も原
熊野防空砲台跡本庄水源地よりさらに北にある安芸郡熊野町呉市・広島市・東広島市の3つの中間地点にある熊野町は昔から交通の要所として有名ですが、ここには太平洋戦争中に呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。砲台がある山の標高は272mですが呉市からは実に15km離れています。また、経度
坪井(戦艦伊勢終焉の地)倉橋島の北東端戦艦伊勢は伊勢型戦艦1番艦として大正時代に就役し、太平洋戦争中に後部を空母に改造した世界でもめずらしい航空戦艦です。太平洋戦争末期の昭和20年2月、南方での激戦にも生き残り呉湾へ帰投しましたが、海軍にはすでに戦艦伊勢を動かす燃料が無く3月の呉
本庄水源地(本庄ダム)呉市北部の焼山にある『呉鎮守府水道』の1つ呉に鎮守府が開庁された翌年に軍用水道である呉鎮守府水道が整備されました。しかし、日露戦争後、近代化を続ける呉海軍工廠への水道供給は不足しており、また呉に入港する海軍船舶に対する給水量も増加傾向にあったため海軍は新たな
三ツ子島倉橋島の北にある周囲約580mの小さな島三ツ子島は海軍呉鎮守府の検疫所である『呉海軍病院三ツ子島消毒所』が開設されたことにより海軍の島となりました。検疫所とは戦地から帰還した兵士からの伝染病の発生を防ぐための防疫施設で、元々は似島にありましたが老朽化のため昭和3年にここ三
二級ダム広と郷原町の境にある二級峡に作られた水道施設で『呉鎮守府水道』の1つ元々、二級峡には明治32年に建設された水力発電所がありました。しかし、太平洋戦争前になると広海軍工廠への送電量増強と工業用水の安定的な確保を求めた海軍の要請によりコンクリート製ダムの建設が決定します。ダム
呉市電呉市電は明治39年に『呉馬車鉄道』として開通しました。当初は路面電車ではなく馬が線路上の車を引く馬車鉄道として開通しました。翌明治40年に電化され日本で6番目の路面電車『呉電気鉄道』となりました。実は路面電車で有名な広島市の広島電鉄よりも早い開通でした。当初は呉駅から西の川
大麗女島(旧大麗女島燃料置場)大麗女島(おおうるめじま)は呉湾にある島ここには大正11年に海軍軍需部の地下燃料庫である『大麗女島燃料置場』が建設されました。海軍鎮守府のある呉湾の入口に位置し、比較的大きい島であるという理由からの建設でした。太平洋戦争末期には、空襲を避けて兵器製造