ヤーキウの漁師 後編

 

 

「俺は昨日の朝、漁に出たんだ。もっとも、朝に漁をするのは、ここらの漁師はみんなそうなんだがな。ここ最近他の奴らと違って、マギュロ一匹も獲れなかったもんだから、俺はもうガタが来ちまったんじゃないか、引退しようか、なんて考えが頭をよぎったりしたけど、それ以外の生き方を知らないし、別に俺みたいな年取ったその日暮らしの漁師は海に見捨てられたんならそれっきりなんだから、せめて最後に挨拶がてらってところで、船を出したんだよ。

 

　まだ海も空も暗がりで、水をかめに積んで、ちっぽけな帆の漁船を操縦しながら、俺はいつもより沖に出た。普段は沖に出ることは少ないんだが，ちょっとセンチな気分にもなってたし、大物が獲れるんじゃないかって気もしてたんだ。

　トビウオたちがぽたぽた跳ねたり潜ったりしていて、手掴みで獲れるほどだったから、腹も減ってたもんで、半ばふざけるような気持ちで手を伸ばしたら、するっと俺の手中に奴らのうちの一匹が入ってきた。くりくりした目をしてたよ。俺はそいつにありがとうってひとこと言って、羽だとかをむしって、平らげた。最近ひとりごとが多いんだ。ボケてんじゃないかと思ったりもしたが、よく考えりゃ、ボケた老人ってのはむしろ無口で唖みたいだから、俺はまだボケてないってことになるな。

 

　そうやって沖に出てみて、だんだん空も白けてきて、そろそろ帰ってほうがいいんじゃねえかと思ってたら、目の前をばかでかい魚が一匹跳ねたんだ。もちろんトビウオじゃないし、ずっと海で暮らしてきたけど、見たことがない奴だったよ。ヒレがでかくて、目が大きくて、小さいツノみたいなもんが生えてて、丸々太ってるように見えるんだが、たぶんあれは全部締まってるよ。とくに、目が何かを言ってるような感じで、悲しげでもないし、嬉しそうでもないし、笑ってるようでもない。とにかく何か言ってんだよ。

　そいつが大きく跳ねたのをほとんど夢みたいだと思いながら見ていたけど、とにかく絶好の機会に変わりはないから、銛やら網やら用意しようとしたけど、そのとき、奴が俺に話しかけてきたんだ。

「やめとけよ。おれは捕まえられないぜ。海なんだからな。そのものなんだよ」

　俺はなんだか奴の言ってることを信じる気になったよ。俺はあんまり信心深いほうじゃないんだが、長いこと生きてるとそういう気分になることもあったし、そもそも奴の声には説得力があったんだ。奴はまた言った。

「もっとも、それはお前だっていっしょだぜ。なにもお前が特別なんじゃない。おれはおまえだし、おまえはおれだ。みんなそうだ。たまたま、おまえと喋ってるだけだ。心配しなくていいぜ。おれはまぼろしじゃないよ」

　俺は黙って聞いていた。この時ばっかりは独り言なんてしても、意味がないからな。だって相手はそういう奴なんだ。口が閉じてようが、開いてようが、たいしたことじゃない。

「以外とおまえ、おしゃべりなんだな。ひとりぼっちのじいさんじゃ、それもしょうがねえか。まあ、でもそのほうがいい。おれだってヒマなんだよ」

 

　日が昇って、沈んだのがわかったけど、その日、俺はずっとそいつと喋ってたよ。なんだか神様のたぐいのようだったけど、それにしちゃ、喋りかたが砕けてたな。自分は海だっていうんなら、せめて女っぽくあってほしかったとは思ったけどな。だって海は母なるものなんだから。でも、女っぽかなかったけど、肉親みたいな感じだったよ。まあ、俺の親なんて、ずっと昔に死んでるから、どんなのかよく覚えてないけどな。

 

　ずいぶん話し込んで、最後に俺はお別れを言って、なんとかしてこっちに引き返して、港に着いて、俺は大きくも小さくもないマギュロ一匹と、横たわって眠ってたよ。

 

　そうして朝が来て、ずいぶん腹が減ってたし、疲れてたから、そのマギュロをひとまずおいといて、こうして今、飯を食ってるって、そういうわけだ。

 

　長くてつまらん話だったろうが、そういうもんじゃないかって思うんだ。あんたはどうだい？」

 

 

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　春本康