プチジア史

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カンプチアの歴史

 

1.カンプ神話

 現在のカンプチア国が位置するカンプ地方には古くからカンプ神話という地域神話が伝えられている。

 それによると神はカンプの地のおよそ中央に位置するカンプ山地の頂に降り立ち2組の男女をカンプ湖の水と山の土でこねて作って1組には網を、もう1組には槍を与え、それぞれ海と山に放り投げ天に帰った。海に放たれたつがいは自らを海の民と呼び山に放たれたつがいは自らを山の民と呼んだ。神は天からふたつの民に10年に1度、再びカンプ湖に集い戦って勝利したものが聖なるカンプの王であると言ったとされている。

 以前は神話の通りに決闘が10年に1度行われていたが死人が出るため今では決闘は行われなくなった。だが、代わりに行われるカンプ祭りの目玉行事カンプ相撲は国際的にも有名でカンプチアの有用な観光資源の一つである。

 

2.建国23

 カンプチアはもともと海岸部に住み海の民を名乗るカメル族と中央のカンプ山地を挟んで東に住み山の民を名乗るナチャ族が有史以前から抗争と協調を繰り返していて不安定だったため他国が発展していく中で遅れを取り焦っていた二部族が連合してカンプ連合同盟をDT23年に結成しても国際的なで存在感は非常に小さかった。同盟主脳は10年に一度の決闘の代わりに各部族の長が交代で神のお告げを聞いて国内を治めるシャーマニズム独裁によって国を治めることにした。この体制は実にDT.118年まで続いた。

 

3.ナビャルの乱

 DT.110年代のベーコックの内乱はカンプチアにまで影響を与えた。DT .118年、カンプを治めていたナチャ族の長ヤ・サマジャがカメル族の急進派の青年ナビャルらに刺殺されカンプチアは混乱に陥った。ナビャルはベーコックで起きた内乱の被害を受けないためには現在の旧体制では頼りなく神に愛されたカメル族の長こそが真の支配者であるべきだと主張した。武装したナビャル派の青年たちはカメル族の長カメル・コッタを新国家神聖カンプ王国の国王として就任させた。これがいわゆるナビャルの乱である。

 

4.恐怖政治と近代化

 ナビャルの時代は短く激動の時代であった。ナビャルはカメル族こそが神の直系でありナチャ族は神の子を自称する悪魔の末裔であるとして徹底的に弾圧した。ナチャ族は特別区に収容され農業や工業に強制的に従事させられたが、その環境は劣悪であった。ナチャ族はこの頃その劣悪な環境と伝染病によって革命以前の十分の一まで数を減らした。だが、それらの労働力と強権的政治は工業生産を支えたため近代化を進める要因となった。また、ナビャルはブラックデザートの商人がカンプチアを通ってラッセィーアに向かっていることに目をつけ通りを整備したりしたためカンプチアは商人の中継地として栄えた。

 

5.人道革命

 ナビャルの苛烈な政治は彼を死へと向かわせた。不当な扱いを受けていたナチャ族の一人ポルンポトは聡明であり武に優れていたため次第にナチャ族の信頼を集めていった。彼はDT.124年、ナチャ族の主だった者を率いて特別区を抜け出しナビャルの住む屋敷に潜入し彼の食事に毒を盛った。3日後、彼が毒で死に、政府が騒然とする中ポルンポトは密かに連絡を取っていた北海帝国の部隊と共に王宮へ押し寄せコッタ王を捕らえた。ナビャル派の残党とのいくつかの戦があったが王を擁し帝国の部隊を味方につけた革命派の勢いは揺らぐことはなく、すべてにおいて勝利した。その後ポルンポトは人種差別の撤廃と民主国家樹立を宣言した。これが世に言う人道革命である。

 

6.ポルンポト独裁

 ポルンポトは混乱した国の安定のためと称してナビャル派との戦闘が行われる中、臨時執政官に就任した。当初は議会の開設などを行ない民主国家建国に尽力したが次第に独裁色を強め、憲法により自らが率いる革命党を議会より上に位置づけて全ての権限を掌握した。その体制は現在も続いており民衆はなおも苦しみ続けている。