aklib_story_未完の断章_和して同ぜず

ページ名:aklib_story_未完の断章_和して同ぜず

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未完の断章_和して同ぜず

集団移転が始まりつつあるシエスタに、遠方からの客が訪れ、市長のヘルマン自らがそれを出迎えた。その会談の中で、二人は指導者でもあり、父親でもある互いを知ることとなる。


[社員A] もう十時半だってのに、暢気にコーヒーなんか飲んでる場合か。

[社員A] さっさとそのコーヒーメーカーから離れて、自分の椅子にケツ落ち着けろ。

[社員B] げほっ……! は、はい……

[社員A] この前の件、修正案はどうなった? 会議は午後三時からだし、もう大して時間がないぞ。

[社員B] あっ、それなら修正済みです。

[社員B] 前の会議で出された案がはっきりしたものだったので、基本的にはその場で解決策が提示されていましたし、修正作業もスムーズでした。

[社員B] 原稿も準備してありますよ。

[社員A] よし。だが、時間がないことに変わりはない。今日から週末までの三日間で、計画の最終決定を下した上で、他部署がそれを実行できるだけの時間を残さなきゃならないからな。

[社員A] とにかく細心の注意を払うようにしろ。市長のご決断は明白だし、これは前回とは違うんだ。

[社員A] 火山は待っちゃくれない。冗談でもなんでもなく、な。

[社員B] ええ、わかっています。

[社員A] さて、書類を見せてみろ。

[社員B] どうぞ。原稿はこの下に添付してあります。

[社員B] ……それで、その……

[社員A] どうした?

[社員B] ……実は、計画書を書いているうちに、社内だけでは解決できない問題があることに気付いたんです。だからボスにお願いして、市長と話し合ってもらえるよう会議で提案すべきだと思いまして。

[社員A] その問題ってのは?

[社員B] 俺も全部わかってはないんですが、とりあえずご説明しますね。

[社員B] ご覧の通り、今回の移転計画は地区ごとに実施する予定です。最初に移動するのは、各移動区画の重要な技術要員や、管理職の方々となっています。

[社員B] この人数であれば、我々にも対応可能な範囲ですし、実際すでに移転は完了しました。あとはこの人たちが中枢区画の接収を終えてくれたら、残りの市民たちの移動を始めるという段取りです。

[社員B] その際にも、同じように区画ごとに順次移転を進めていく必要があるんですが……現在提示されている計画通りでは、たとえ外部の物流会社の協力を受けたとしても、輸送力が足りません。

[社員A] なるほど、それでどうする?

[社員A] 問題が見えてきた以上、対策を考えないことには意味ないぞ。

[社員A] これを議題として挙げるだけ挙げて、あとは行政や運輸局が解決してくれるのを待つってわけにもいかないだろ?

[ヘルマン] ……

[ヘルマン] 「物流会社数社だけでは、絶対的な輸送力不足が見込まれ」……

[ヘルマン] 「現代における物流専門会社の輸送管理能力は」……

[ヘルマン] もしもし?

[ヘルマン] シエスタ市政府、市長のヘルマンです。

[秘書] 失礼します、市長。本日のスケジュール確認に参りました。

[秘書] こちらがスケジュール表です。

[秘書] ……以上が、事前に決定していた予定です。

[秘書] 加えて、ご判断をいただきたい部分がございます。先ほど物流会社の方からご連絡があり、先方は午後一時前後にシエスタへ到着されるとのことでした。

[秘書] ですが、本日は午後三時から、移転計画に関する各部署との会議がございます。スケジュールと照らし合わせてみましたが、延期は困難ですし、僭越ながらキャンセルは考えにくいかと。

[秘書] こちら、いかがいたしましょうか。私が市長の代理として出席したほうがよろしいですか?

[ヘルマン] ……いや、君には先方との面会についてきてほしい。会議はほかの秘書に任せて、先に始めてもらうとしよう。

[ヘルマン] 終わり次第、議事録を私に提出するよう伝えてくれ。

[秘書] かしこまりました。

[秘書] 物流会社との会議の件は、他部署にも共有しておきますか?

[ヘルマン] ……そうだな。伝えても構わないが……

[ヘルマン] 国外の物流会社と提携する可能性がある以上、それが実現された場合は新たな流通管理モデルの導入を検討することになる。今回の会議ではその新規立案を頼みたいとだけ伝達してほしい。

[秘書] わかりました、そのように。

[秘書] ……というわけで、現状はお伝えした通りです。

[秘書] 市長は午後からお客様との打ち合わせに入られますので、午後の議題は先ほどお話ししたことを参考にしてください。こちらが資料です。

[秘書] 以上で、市長からのご連絡はお伝えしました。何かご質問はありますか?

[社員A] ご苦労様です。特にありません。

[社員B] ご対応ありがとうございます。

[社員A] さて、お前にはあと四時間ある。

[社員B] ふぅ……はい。

[社員B] あの、これ見ていただけますか。前に作ったやつなんですが……新しい流通管理モデル導入に関する提携提案書です。

[社員A] へえ……?

[社員A] ははっ、お前って奴は……やるじゃないか。

[社員A] 一つ良いことを教えてやろう。今回の件、働き次第ではボーナスが出るらしいぞ。

[社員A] しっかりやれよ!

[ピーターズ] 初めまして、市長さん。

[ピーターズ] この度はご連絡をいただきありがとうございます。こうした提携の機会をいただけたこと、光栄に思います。

[ヘルマン] いえ、提携というのは双方に利益をもたらすものですから……こちらこそ、感謝申し上げます。

[ヘルマン] この方は息子さんですか?

[ピーターズ] ははっ、そうなんです。早いうちから見聞を広めて、経験を積んでおかねばものにならんだろうと、同席させているんですよ。

[バイソン] 市長さん、初めまして。

[ヘルマン] 初めまして。

[ピーターズ] 時に、お近付きの印としてこの腕時計を差し上げたいのですが――あくまで個人的なプレゼントとして、受け取っていただけますか?

[ヘルマン] ご丁寧にありがとうございます。ですが、今フェンツ運輸の方から贈り物をいただくのは、公私を問わず避けたほうが良いように思いますので。

[ヘルマン] ピーターズさん、前回のプロジェクトの要件はお電話でご連絡した通りですし、今日あなたをこのシエスタへお招きしたのは、契約上のコンセンサスを取りたいと思ってのことなのですよ。

[ピーターズ] はっは、市長さんは本当にお仕事が早いですね。

[ピーターズ] いただいた計画書には、私も目を通しております。フェンツ運輸の規模と能力から鑑みても、市政府と共同での案件をいただけることは本当に有り難いことです。

[ヘルマン] そう言っていただけると何よりです。市政府としても、本提携を重要なものと捉えておりますしね。

[ヘルマン] そこでお伺いしたいのですが、フェンツ運輸様としてはこの契約内容をどうお思いになりますか?

[ピーターズ] 率直なご質問ですね。もちろん、弊社としても喜んでサインしたいところではありますよ。

[ピーターズ] ですが、お互いウィンウィンの関係を築けたらと思いますので、お見積もりについてだけはもう少しご相談させていただけたらと。

[ヘルマン] ……

[ピーターズ] この腕時計は――

[ピーターズ] あなたの望むまま、時間を止めていただいても構いませんので。

[ヘルマン] なるほど。

[ヘルマン] 御社は野心的でいらっしゃるようですね。

[ピーターズ] はっははは、誤解ですよ市長さん!

[ピーターズ] 今回のプロジェクトに関して、場合によっては無償協力も可能であることをお伝えしたかったのです。

[ヘルマン] …………

[ヘルマン] 詳しくお聞かせいただけますか?

[ピーターズ] では、こちらをご覧ください。弊社が作成した『計画受諾提案書』です。

[ピーターズ] この件は市政府と直接連携を取る形になりますし、我々もその連携がさらに一歩進んだものに繋がればと思っている次第でして。

[ピーターズ] 弊社としてはこれを機に、シエスタという都市へ、既存の物流やトランスポーターにとらわれない新たな物流会社を、弊社主導で設立できたらと考えているのです。

[ヘルマン] なるほど。

[ヘルマン] あなたはその言葉の重みを承知の上で仰ったということですね。

ヘルマンは、座っていた椅子の背もたれに軽く体重を預けた。

[秘書] ……こほん。

[秘書] 失礼ながら、市長……もうじき、三時の会議が始まります。

[ヘルマン] ああ。

[ピーターズ] 随分と気の早い秘書さんですね。

[ヘルマン] ……秘書を選ぶ時は、能力のみならず、私の考えを理解できるか、そしてその場に相応しい人材かまでを考慮するようにしています。

[ヘルマン] 市政府での仕事は、常に選択を迫られるものなのですよ。

[ピーターズ] しかしながら、あなたも「遠水渇を救わず」という言葉はよくご存じでしょう。それでも、遠回りの道を選ぶおつもりなのですか?

[ヘルマン] 何はともあれ、会議の時間が迫っているというのは事実です。

[ヘルマン] ――ほかに、御社からご提示いただけるお話はありますか?

[ピーターズ] ごほんっ……

[ピーターズ] 我々フェンツ運輸にならあなたの求める両方を叶えられる、とお伝えすればご検討いただけますか?

[ピーターズ] ――我々はお金儲けのためではなく、問題を解決するために伺ったのです。

[ヘルマン] あなたの仰る「問題」とは、何のことでしょうか。

[ピーターズ] 市長さんの抱えていらっしゃる問題のことですよ。

[ヘルマン] では、私が抱えるそれは何だとお思いになりますか?

[ピーターズ] 「転換」です。

[ピーターズ] 弊社主導の物流会社設立が叶えば、その力を以て自由貿易をサポートし、どの政治団体にも属さない貿易協定のネットワークを構築していただくこともできます。

[ピーターズ] そして将来的には、シエスタがその貿易協定の下、中立の立場で各国市場に参入し、各地の政府や企業を支えるビジネスの中核を担うことすらできるようになるのです。

[ヘルマン] なるほど、ありがとうございます。御社には先見の明がおありのようですね。

秘書は一歩前に出て、ヘルマンが返した書類を受け取ろうとした。

すると、ピーターズは身を乗り出してこう言った。

[ピーターズ] 市長さんは、クルビアでの開拓事業におけるビジネスモデルをどう捉えていらっしゃるでしょうか。

[ピーターズ] たとえば、トカロントは一年を通して国中を周り、クルビア全土へ絶え間なく経済的利益をもたらしています。

[ヘルマン] トカロント、ですか?

[ピーターズ] はい。

[ピーターズ] しかし、ああいった開拓事業主体の貿易都市は、クルビアの計画した範囲での発展しか望むことはできません。

[ヘルマン] 開拓都市はもとよりほかとは異なるものですし、ましてやシエスタとは事情が大きく違います。

[ヘルマン] とはいえ、シエスタとの共通点として、トカロントがクルビアにもたらす利益はその独立した地位が持つ潜在的な脅威を遥かに上回るものです。

[ヘルマン] ゆえにこそ、かの都市はあのように移動を続け、ほかの移動都市には得られないものを荒野で得続けられるのですから。

[ヘルマン] 無論あなたも、そのことはご存知のはずですね。

[ピーターズ] ええ、もちろんですとも。

[ピーターズ] しかし私の認識がどうであれ、そもそも市長はあなたなのですし、この都市の決定権があなたにあることに変わりはないでしょう。

[ピーターズ] ――トカロントの経済モデルはすでに確立されており、これからも決して変わることはありません。

[ピーターズ] 一方でシエスタは今まさに、この美しいビーチを離れていこうとしています。

[ピーターズ] 無事離脱したそのあとに、裁量を持つのはどなたでしょう?

[ヘルマン] ……

[ピーターズ] ははは……市長さんもご存知の通り、炎国からこの地までは相当の距離があります。現代の交通機関を以てしても、近いとはとても言い難いほどに。

[ピーターズ] 我々フェンツ運輸は、そんな遠く離れた龍門の一企業に過ぎず、多くを為すことはできません。私たちがここにいるのも、あなたがお招きくださったからこそなのです。

[ピーターズ] こちらをご覧ください。

[ピーターズ] 弊社がこれまでビジネスを行ってきたのは龍門周辺のみでのことですが、反面、その収益額は決して少なくはありません。

[ピーターズ] そうした商いで得た見地から申し上げますと――火山がシエスタに残した時間的猶予は、この子が結婚して子供を作ることすら叶わないほどわずかなものです。

[ピーターズ] 機会とは得難いものであり、時間とは人を待たぬものですよ。

[ヘルマン] ……腕時計を持ってきていただいたことにも納得がいきますね。

ヘルマンは、テーブルの奥のほうに座るバイソンへと目を向けた。

[ヘルマン] ご子息は、このご提案をどうお考えなのでしょうか?

[ピーターズ] 息子ですか?

[バイソン] ぼくの意見でいいんでしょうか。今回の件には関与していないんですが……

[ヘルマン] ははっ、そう身構えずに。単なる質問と捉えてください。

[ヘルマン] どうです、あなたも契約締結を望んでいらっしゃるのかな?

[バイソン] ……もちろんです。ぼくはフェンツ運輸の役員ですから。

[ヘルマン] なるほど、なるほど。

[バイソン] 市長さん。確かにぼくは本件に関わってこそいませんが……物流会社というのは将来的に、物資の輸送だけでなく、経済や文化の交流を促進するという面でも貢献できると考えています。

[バイソン] ぼくたちにはアイデアも、能力もありますし、絶対に失望はさせません。

[ピーターズ] ……とのことです。市長さん、どうかご検討いただけませんか?

[ヘルマン] はっははは……

[ヘルマン] 実は、私の娘もシエスタのことをよく考えてくれていましてね。

[ヘルマン] その子がもう一人の娘と共にここを離れる前、約束をしたのです。彼女が思い描くシエスタの未来のために、私も努力すると。

[ヘルマン] 移動都市シエスタは、美しい街になるでしょう。

[ヘルマン] ――さて。本プロジェクトのためにご尽力いただきましたこと、まずは御礼申し上げます。

[ピーターズ] ……

[ヘルマン] 時に、もうすぐ日が暮れるのですが……この時間の景色は最高なのです。よろしければ、このあとは外でお話ししませんか?

[店主A] よーし、あとはこれだけね。在庫を捌ききったら、私たちもお店を畳んで新しい街へ移りましょう。

[店主B] おう。しかし、残念だよなあ……俺はここで育ったから、ビーチの砂を一粒一粒ぜーんぶ覚えてるくらいなのにさ。

[店主B] そうだ、出発前に砂をいくらかビンに詰めていこうぜ。またここに戻れるかどうかもわかんないっていうし。

[店主B] まあ、きっと戻れないんだろうなあ……

[店主A] そうと決まったわけじゃないでしょ? 元気出さないと。

[店主A] ほら、誰か来るわよ。ちゃんと挨拶しましょ!

[店主A] いらっしゃいませ~! シエスタ名物、砂虫の足の炭火焼きはいかがですか? お店の移転も近付いてるし、メニューが変わる可能性もあるので、これを食べられるのはあと数日だけですよ~!

[バイソン] な、何ですかこれ……!

[バイソン] 砂虫の……足!?

[ピーターズ] どうした、ワーワー言って……

[ピーターズ] ……市長さん。シエスタは景色だけでなく、食べ物もひと味違うようですね。

[ヘルマン] ああ、前回の黒曜石祭の時も、ここで同じものを売っている女の子がいたそうですよ。

[ヘルマン] 意外にも、これが食べてみると美味しいと評判で、今では流行しているとか。

[店主A] (小声)えっ、この人市長さんなの……?

[店主B] (小声)俺に聞くなよ、わかるわけないだろ? 毎日一緒にいるんだから、お前が知らなきゃ俺も知らないよ。

[店主A] (小声)ど、どうすればいいのかしら……?

[店主B] (小声)普通にしてりゃいいと思うけどなあ……

[店主B] あはは、そうなんですよ~。お客さんもいかがですか?

[バイソン] ええと……

[ピーターズ] あー……

[ピーターズ] ……またの機会にでも。

[ピーターズ] ところで、市長さん……向こうに回転する何かが見えるのですが、あのアトラクションはなんですか?

[ヘルマン] あれですか? 「回転駄獣」です。

[ヘルマン] あれも黒曜石祭の時にできた施設でしてね。理由はよくわかりませんが、当時は不思議と大勢の人で連日賑わっていたものです。

[ピーターズ] そうだったのですね。

[店主A] お二人はよその人ですか?

[店主A] じゃあ、よかったら一本差し上げますから、ちょっと食べてみてくださいな! それで気に入れば買っていただけたらいいですし!

[バイソン] あっ、ありがとうございます。それなら、お金を出しますから、もう一本買わせてください。

[店主A] あら、礼儀正しい子ねえ。お顔も可愛いし。

[バイソン] えっ? ……ええと、ありがとうございます。

[店主B] おいおい、お前なあ……

[店主B] 俺がここで見てるんですけど~?

[店主A] ふふっ、冗談よ。

[秘書] 皆様、どうぞこちらへ。

[ヘルマン] 海を眺めながら取る食事は、観光客からも評判なのです。ここからの景色は最高ですよ。

[ヘルマン] この先も、こうした特色は守り抜いていくつもりです。シエスタは移動都市となったあとも、本来の魅力を失うことなく在り続けることでしょう。

[ピーターズ] それも必然というものですね。あなたのような思慮深い市長さんがいらっしゃるのですから。

[ウェイター] お食事の準備が整いました。ごゆっくりお召し上がりください。

[ピーターズ] う~む、美しい景色に美しい料理、刺身というのも格別ですね。……時に市長さん、先ほどあちらのご店主たちが移転後は新メニュー導入も検討していると仰っていましたが……

[ピーターズ] 屋台店の方々も、あれこれと考えねばならないものですね。

[ヘルマン] そうですね……と、それで思い出しましたが、ビーチにはまだ撤去されていない娯楽施設がいくつか残っているのです。息子さんを遊びに行かせてあげてはいかがですか?

[バイソン] お気遣いありがとうございます。ぼくとしては、ここに居させていただけたら十分ですので。

[ヘルマン] なんとも、お若いのに落ち着いていらっしゃいますね。この年頃のお子さんなら、普通は今頃親御さんの手を引いてチケットを買いに行っていてもおかしくないくらいですが。

[ピーターズ] はっはは! 実のところ息子には、フェンツ運輸を継ぐなり、自分のやりたいことを見つけるなりしてもらいたいと思っているものですから。

[ヘルマン] おお、今のうちからそんなところまでお考えになっているとは。

[ヘルマン] つくづく、先々までをよく見据えていらっしゃいますね。

[ピーターズ] いやいや。そうは言ってもご覧の通り、この子はまだまだ未熟者ですよ。

[ピーターズ] それに、今は落ち着いて見えるかもしれませんが、もっと小さい頃には何かと心配させられたものです。

[ヘルマン] これはまた謙虚な仰りようですね。

[ピーターズ] いやいや、これが本当なのですよ。父親ならば誰しも似たような経験をするものでしょうし、今からするお話を笑わないでいただきたいのですが――

[ピーターズ] この子が四歳の時、学校で運動会がありましてね。

[ピーターズ] その際に、親子綱引き大会という催しがあったのです。うちの妻は身体が弱いものですから、私が参加したのですが……

[ヘルマン] ピーターズさんと綱引きですか。お相手からすれば、勝ち目のない勝負になりそうですね。

[ピーターズ] ……ははっ、恐縮ながらお察しの通りと言いますか、首尾よく勝って私たちが一番となりましてね。

[ピーターズ] しかしまずいことに、小さな子供たちにはまだ分別がないものですから……自分たちも勝ちたいと思ったのか、私を「パパ」と呼んでは駆け寄ってきて、綱引きを手伝ってほしいと言うのです。

[ヘルマン] おっと、それは……

[ヘルマン] 当時、奥様は……?

[ピーターズ] 身体のこともあって、その場にはおりませんでした。

[ヘルマン] それは良かったですね。

[ピーターズ] ええ、ですがその時の息子ときたら大層寛大で! 先生から分け合うことの大切さを教わったと言って、私の背を押してくるのです。

[ピーターズ] 私はもう、言葉も出ませんでしたよ。

[バイソン] ……ちょっと、父さん!

[ピーターズ] はっはっは!

[ピーターズ] 市長さんにも、娘さんがお二人いらっしゃるのですよね?

[ヘルマン] ええ。

[ヘルマン] うちの娘たちは……

ヘルマンは椅子の背に軽く体を預けた。

[ヘルマン] 片方は何の心配もいらないのですが、もう片方はどうにも心配な子で……

[ヘルマン] ああ、いえ。どちらも心配と言えば、やはり心配なのですがね。

[ピーターズ] はっはは、そうなのですか? いやはや、意外ですね。

[ヘルマン] ええ。今であればまだしも、昔などは特に。心配の絶えないほうの娘は、ヴィクトリアの大学に通っていたのですが……在学中、私を呼び出すことはほとんどなかったのです。

[ヘルマン] けれど私も一度だけ、何とか時間を作ってあの子の学校へ行き、先生に近況を伺ったことがありましてね。

[ヘルマン] すると驚いたことに、あの子が父親役の男性を連れて、先生と話をしている場面に出くわしたのです。

[ピーターズ] 娘さんは実に豪胆でいらっしゃいますね。

[ヘルマン] 本当に、肝の据わった子ですよ。

[ヘルマン] その時はしばらく身を隠して彼女たちの会話を聞くに徹しました。些か怒りを覚えはしましたが、同時に認めざるを得なかったものです……

[ヘルマン] 自分が……娘には、美しくきらびやかな温室の花というよりは、逞しく生きる温室の野草のように育ってほしいと思っていることを。

[ヘルマン] それにしても、あんな大胆な真似をするなんて、さすがは我が子だと血を感じましたよ。私は、あの子なら一人で外へ出ても、そこで出くわす困難に打ち勝てるだろうと信じています。

[ヘルマン] その上、あの子には人を見る目もありますしね。

[ヘルマン] ですから私もあとになって、例の父親役をした男性に連絡を取ってみたのです。

[ピーターズ] それは興味深い。その後どうなったのですか?

[ヘルマン] 彼は今では、私のもとで働いてくれていますよ。

[ピーターズ] あっはっはっは! いやあ、さすがですね!

[ピーターズ] その男性も大したお人ですが!

[秘書] ……んんっ、ごほっ……!

[ピーターズ] おっと、まさかご本人ですか?

[秘書] は、はい……恐れ入ります……

[ピーターズ] あっははは、これは面白い!

[ピーターズ] そういえば、娘さんたちは今どちらに?

[ヘルマン] 今は職を得て働きに出ております。

[ピーターズ] そうでしたか。私ももうしばらくしたら、息子を送り出して、世の中を見せてやりたいと考えているのです。

[ピーターズ] 龍門に何人か旧友がおりましてね。少々でたらめな連中ですが、彼らにならこの子を預けても大丈夫だろうと思いますから。

[ヘルマン] 子供を立派に育てるというのは、本当に難しいものですね……

[ヘルマン] ピーターズさんも、息子さんのために色々とご苦労なさっているのでしょう。

[ピーターズ] 妻ほどではありませんがね。

[ピーターズ] 数年前、病気の妻と幼い息子を抱えていた私は、会社の経営をペースダウンさせるべきなのではと考えていました。

[ピーターズ] けれどそれを知った妻は、十通以上も手紙を寄越して大反対してきたのです。もしレム・ビリトンと炎国がああも遠くなかったら、直接乗り込んでくるのではというような勢いで……

[ピーターズ] ともあれ、その手紙のおかげで、今のフェンツ運輸があり、今の私と息子があるというわけです。

[ヘルマン] ……あなたは、本当に幸運なお人ですね。

打ち寄せる波を眺めながら、ヘルマンは暫し沈黙した。

[ヘルマン] 奥様のお身体が、早く良くなりますように。

[ピーターズ] ありがとうございます、市長さん。

[ヘルマン] 「市長」、ではなく……

[ヘルマン] よろしければぜひ、ヘルマンと呼んでください。

[ピーターズ] では……ヘルマンさん。あなたが市長であるだけでなく、一人の父親でもあるということを、今改めて実感できましたよ。

[ヘルマン] はははっ。ピーターズさんも、イメージとは少々違う方だとわかってきましたよ。

[ピーターズ] はっははは……

[ピーターズ] そうだ、ヘルマンさん。一杯ご一緒しませんか。龍門から持ってきたワインがあるんです。

[ピーターズ] これは、鮮やかな色と芳醇な香りを持つヴィクトリアの葡萄を使った物でして。

[ピーターズ] ガリアの樽で熟成していますから、雪山杉の良い香りが味わえるんですよ。

[ピーターズ] 是非召し上がってみてください。

[ヘルマン] ――おっと。

[ヘルマン] 失礼、グラスを持つ手が震えてしまって。

[ピーターズ] ははっ、少しこぼしてしまうくらい、よくあることですよ。

[ピーターズ] もう一杯お注ぎしましょう――あなたがグラスを持っていてくださるなら。

[ヘルマン] お恥ずかしい話です。長いことこうしたグラスを使わずにいたものですから、また手が震えて取り落としたらと思うと……

[ピーターズ] ははは! 大丈夫ですよ。私の手でお支えしますから。

[ピーターズ] 何といっても、これは綱引き大会を制した男の手ですしね。

[ヘルマン] ……確かに、それなら安心です。

二人はグラスを手にしたまま、目の前の景色を眺める。

夕陽が沈み行く中、それでも海は昼より明るく輝いて見えた。

[ヘルマン] ピーターズさん。

[ピーターズ] 何でしょう?

[ヘルマン] 龍門から持ってきていただいたこのお酒、実に美味しいですね。

[ヘルマン] ……これは本来、シエスタまで運ばれてくることはなかったはずでしたが……

[ヘルマン] ……

[ヘルマン] 思うに、外国の方の好みにも合いそうに思います。

[ピーターズ] ははっ、シエスタの方々にもきっと気に入っていただけると思いますよ。

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