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漢の終盤再興者の烈祖・劉備
明代に描かれた劉備
劉備(りゅうび、161年/162年[1] - 223年)は、『三国志』の主人公とされ、蜀漢[2](蜀)の初代皇帝。字は玄徳[3]。
帝号は先主・昭烈帝[4]と伝わり、あるいは廟号が烈祖、諡号が穆帝(繆帝)とも伝わる(後述)。
好敵手の魏の曹操と戦いを交えたことで有名な人物である。身の丈は7尺5寸[5]ほどで、容貌は肥えており福耳を持っていた。干支は寅年。
前漢の中山靖王・劉勝[6]の庶子・陸成侯[7]の劉貞[8]の末裔と自称した。その一方、前漢の長沙定王・劉発[9]の系統である後漢の王室の連枝である臨邑侯[10]の劉復(斉武王の劉縯の孫、北海靖王の劉興の子、劉騊駼の父)を祖とする分家出身という[11](後述)。
子は養子あるいは実子の劉封[12]・劉公仲[13]・劉禅・劉永・劉理[14](後述)ら。他にふたりの娘[15](後述)と馬承夫人[16]。祖父は東郡范県の令の劉雄、父は劉弘、弟は劉亮(後述)、叔父は劉敬(子敬)、従弟は劉展(子敬の子)、従父は劉元起(劉超)、族兄弟は劉徳然(劉義、元起の子)。正室のうち先妻は寇氏[17](後述)、後妻は呉氏(諱は呉莧、諡号は孝穆皇后/孝繆皇后)で、側室は麋夫人[18](諱は麋淑鈴/麋玲蓮/麋貞/麋環、諡号は穆昭皇后/繆昭皇后)・甘夫人(甘梅/皇思夫人/昭烈皇后)ら。
横山版の曹操(上)と劉備(下)
涿郡涿県楼桑里[19]の人で、祖父の代までは東郡臨邑県[20]の人(後述)。同時に張飛・簡雍(耿雍)・傅士仁[21]・田豫(田予)らを従えた。
没落した貴族の家に生まれる。幼くして地方官僚だった父が亡くなったため、母と下僕たちと蓆と草鞋で生計を立てた。当時から任侠と称して多くの不良少年を従えて、見栄えがある服装を着用して闘犬などの賭博をやり、女漁りに専念していた。また、謙虚かつ寛大で口数が少なかったという。
14歳のときに母の命で、従父の劉元起の学費捻出で族兄弟の劉徳然と、儒者として著名な元九江郡太守の盧植の門下生となり[22]、ここで公孫瓚・高誘と出会い、『六韜』(太公望(呂尚)[23]著)・『漢書』・『礼記』などを愛読した[24]。また、若き牽招(後の魏の部将・政治家)と出会うことになり、意気投合して、『刎頸の交わり』を結んだという[25]。
184年に青州黄巾党を討伐するため、旧知の中山郡の豪商・張世平とその甥、もしくは女婿の蘇双の軍資金で挙兵し、校尉の鄒靖[26]の配下となった。または、師の盧植が中郎将として鉅鹿郡広宗県[27]で黄巾党の教祖・天公将軍の張角と戦ったとき、劉備は一族の劉徳然らを従えて公孫瓉とともに駆けつけて従戦した。しかし、都の洛陽から派遣された宦官の小黄門・左豊の讒言で盧植が更迭され董卓が後任者になると、憤激した劉備は公孫瓚とともに広宗県を立ち去り、鄒靖のもとに戻ったと伝わる[28]。
また、187年にかつて中山郡太守だった張純が太尉・車騎将軍の張温の対応に不満で、同郷の漁陽郡の人で盟友の泰山郡の相の張挙とトルコ系烏桓(烏丸)の大人(単于)・丘力居らと反乱を起こすと、青州刺史の孔融(元北海郡の相)は部将の龔景とともに自ら張純討伐に向かった。その途中で同族筋で、平原郡の土豪の劉平(字は子平、後述)が孔融・龔景に目通りして、青州黄巾党を討伐で名を馳せた劉備を推挙した。孔融・龔景はそれを受け入れて、劉備と面談して張純を討伐した学友の公孫瓚の推挙もあり、劉備の素質を認めこれを従事とした。間もなく、劉備は張純の同郷で盟友の張挙配下である元黄巾党の頭目だった程遠志[29]と鄧茂[29]の軍勢と田野県で戦って惨敗し、負傷したため死んだふりをして、命からがらに脱出した[30](『田野の戦い』)。そのため、劉徳然ら多くの親族が戦死してしまい、劉備は一族の後盾を失ったと伝わる。
しかし、孔融・龔景は劉備を評価して推挙した。劉備は朝廷から中山郡安喜県の尉[31]に任命された。しかし劉備は赴任早々に、州牧[32]が派遣した督郵[33]の崔廉・段圭譲と面会を拒否される騒動を起こし、生来の癇癪持ちで短気な性格が爆発してしまい、ふたりの督郵に対して徹底的に半殺しをしたが、あまりの凄まじさに両人の督郵が、震えて嘆願したので、劉備は印綬を投げ棄てて官職を辞した。後に恩赦で官職に就く資格を得た[34]。
189年に、大将軍・何進が派遣した都尉の毋丘毅[35]の従事となり、毌丘毅に従軍していた関羽と出会い、関羽は劉備の配下となった。劉備に救援要請をした東莱郡の従事である太史慈の軍勢と合流して丹陽郡の賊軍と戦い、自分を推挙してくれた恩義のある青州刺史・孔融を救助する功績を残した。下密県の丞、そして高唐県の尉[36]などを歴任するが短期間で職を辞した[37]。
191年、学友の公孫瓚を頼って、別部司馬になり、戦功を挙げて平原郡の相に昇進した。当時の公孫瓚は袁術と同盟を結んでおり、翌192年に、公孫瓚の宿敵である袁紹が異母弟の袁術との仲が決裂すると、公孫瓚は袁術の要請で劉備を高唐に、単経を平原に、徐州刺史の陶謙[38]を発干に駐屯させ、袁紹を圧迫した。このとき、かつて劉備を従事に推挙した劉平が自分に対して見返りを施さなかったので、劉備のもとに刺客を派遣した。しかし、劉平の刺客は劉備の風貌に惚れてしまい、自分が刺客だと告白して立ち去ったため、暗殺は失敗に終わった。しばらくして青州刺史の田楷[39]を補佐し済南郡に駐屯して、公孫瓉のもとで出会った趙雲とともに袁紹とも戦ったりした。193年に、前述の徐州刺史の陶謙が援軍を要請したので、公孫瓚は部将の田楷を派遣し、劉備は田楷の副将として徐州に向かった[40]。陶謙はすっかり劉備を気に入って、丹陽軍4千人を劉備に与え、劉備は陶謙の部将となった。
翌194年、陶謙が64歳で逝去し、劉備は親交のある孔融・陳登(陳珪の子)の説得で、豫州刺史を兼ねて徐州刺史となった。このとき、穎川郡許昌県[41]出身の名家の青年子弟の陳羣が劉備に仕官し、別駕に任命された。同年、陳羣は劉備が徐州刺史を拝命したときに、「徐州は肥沃な土地であり、それを淮南の袁術、定陶(および濮陽)の呂布らが狙っているので、引き受けるべきではありません」と諌言したが、劉備はこれを採り上げなかった。翌年に曹操に惨敗した呂布が劉備を頼った。このとき挙兵以来の古参である田豫が「病気となった母を看護する」という理由で、劉備のもとから離脱した。このときの劉備は涙を流して田豫との別れを惜しんで「挙兵以来の君と別れるのはさみしい。また、再会しようぞ…」と述べたという[42]。
しかし翌196年に劉備が袁術討伐中に、留守を任せた張飛はかつて陶謙の旧部将だった曹豹・許耽・章誑らと仲が悪かった。そのため曹豹らは反乱を起こし、曹豹の娘を側室に迎えた呂布に襲撃され、徐州の下邳と劉備の妻子を奪われたのである。やむなく、劉備は呂布に降った。このとき、劉備は陳羣の言葉を用いなかったことを後悔した。陳羣は劉備の推挙で茂才に推挙され、柘県の令に任命された。しかし、劉備の愚行に呆れた陳羣はこれを断り、父の陳紀[43]ら一族とともに徐州に避難し、劉備から離脱した[44]。
翌197年、下邳郡にいた韓暹・楊奉を海西県[45]で偽りの宴会で欺き騙し討ちにして[46]、この軍勢を吸収した。そのため呂布に襲われて[47]、曹操を頼った。劉備は、彼を評価した曹操の手配で、左将軍・宜城侯・豫州牧に任じられ、小沛[48]に駐屯させた。だが、翌198年夏に呂布の配下高順と張遼に襲撃されて、再び曹操を頼り、梁で曹操軍と合流して一気に下邳郡の城に籠城した呂布を滅ぼしたのである。そのときの呂布の最期の言葉が「この劉備こそ、油断ならぬタヌキぞ!喰わせ者ぞ!」ということだった[49]。
199年、劉備は穎川郡許昌県に滞在したが、曹操に不満を持った一族筋の愍帝[50](劉協)が岳父で外従父の董承[51]に曹操討伐の密書を出した。董承は劉備を催促したが、劉備は理由をつけて巧みに逃れたのである[52]。同年夏に曹操の部将の朱霊と路招が「成」の皇帝と偽称した袁術討伐に向かった。劉備も志願してそのまま徐州にむかった[53]。やがて同年冬に曹操の部将で徐州刺史の車胄を惨殺し、曹操に反旗したのである。同時に孫乾を袁紹のもとに派遣させて盟約を結ばせた。
激怒した曹操は、200年春に董承らを粛清した後に、劉岱・王忠を先鋒として自ら5万を率いて徐州に向かった。これを聞いた劉備は先鋒の劉岱・王忠の軍勢の撃退には成功したが、曹操が率いる本隊が到着すると、あっさりと徐州を放棄して、青州刺史・袁譚[54]を経て、袁紹を頼った。同時に東海郡の土豪である昌豨[55]が劉備に呼応して、反乱を起こした。その一方、下邳を守った関羽が一時的に曹操の捕虜となったが、袁紹の部将の顔良を討ち取ると、そのまま劉備の家族とともに劉備の陣に帰参したのである。
袁紹が『官渡の戦い』で曹操に惨敗すると、翌201年に劉備は袁紹を見限り、離脱した。汝南郡まで南下し、曹操の軍門に降った豪族の劉辟と龔都[56]と組んで、曹操が派遣した部将の蔡陽[57]を討ち取り、翌々203年には再び曹操が派遣した夏侯惇(曹操の外従弟)を撃退したが、その部将の于禁と李典に撃退され、そのまま同族で、荊州牧の劉表を頼った(『博望坡の戦い』)。以降208年まで、劉備は急におとなしくなり、身体が肥満したのである[58]。
%E3%81%B8%E3%81%86%E3%81%92%E5%8A%89%E5%82%99.jpg“ へうげた ”狡猾なタヌキ劉備の肖像
この間に、学問に専念するも身体がすっかり肥満体になった劉備の逸話では劉表との対話の『脾肉の嘆』がある。これは劉備自身が自分の境遇を嘆いているものであり、劉表はただ劉備を見守るだけだった[59]。
どこか劉備を信頼していない劉表によって南陽郡新野県に駐屯を命じられ、まだ書生だった諸葛亮を俗にいう『三顧の礼』の形で、幹部候補の書記として配下に加えたのである。やがて、劉表が逝去したため曹操が南下した。劉備は諸葛亮の助言で、南方に逃れたが長阪陂(長坂坡)で曹操軍と遭遇し、側室の麋夫人とふたりの娘を失っている[60]。この時は張飛の奮戦で無事に逃れている(『長坂坡の戦い』)。
やがて、呉の孫権が派遣した魯粛と面会し、劉備が魯粛の心理を探るために「旧知の蒼梧郡太守・呉巨[61]を頼ろうと思うのだが…」と言い出した。するとその言葉に激憤した魯植は「呉巨なぞ、当てになりません。諸葛亮どのの同伴をお認めになれば、拙者がわが君(孫権)を説得させ、曹操に対する降伏を阻止してご覧に入れましょう!」と叫んだ。劉備はこれを認め、諸葛亮を呉に派遣して同盟を成立させた。呉の周瑜が疫病にために意気沈黙した曹操軍を『赤壁の戦い』[62]でこれを撃退した。その間に劉備は何をやったかは不詳である。
翌209年に劉備は荊州南部の四郡を攻略し、遠縁筋で、零陵郡太守の劉度・桂陽郡太守の趙範・武陵郡太守の金旋[63]・長沙郡太守の韓玄[64]らを降して、勢力を増した。211年、一族筋で、益州牧の劉璋の使者の張松が来訪した。張松の口実は「わが君主・劉璋では国を治められないので、劉豫州(劉備)が益州(蜀)を治めていただきたい」ということであった。その背後には張松の友人の法正がいた。
劉備は諸葛亮・龐統と密議を重ねて、関羽・張飛・趙雲・諸葛亮らを荊州の公安に残し、自ら養子(実子?)の劉封と劉公仲兄弟をはじめ龐統・黄忠・魏延らを従えて1万5千の軍勢を率いて、益州に向かった。やがて劉璋の歓迎を梓潼郡涪県[65]で受けて、このとき魏延は龐統の命で劉璋暗殺を命じられたが、事態をさとった劉備の一喝で断念した。しかし、劉璋も劉備の本音を理解すると疎むようになり、これを危惧した張松は劉備宛の密書を出したが、兄の張粛の密告で、激怒した劉璋に処刑された。
こうして、劉備は益州攻略を決意し、劉璋の部将の高沛・楊懐を血祭りにして、攻撃した。しかし、龐統が流れ矢で戦死したため、苦戦した。間もなく諸葛亮が張飛・趙雲とともに益州に向かうと勢いを増した劉備軍は劉璋の部将・張任を捕虜とした。やがて曹操に惨敗した馬超に対しては李恢を派遣して、その配下に迎えて、さらに簡雍を派遣してついに劉璋は降伏した。215年から216年にかけて、諸葛亮の讒言で江陽郡太守に左遷された彭羕が謀反を目論んだ。馬超と諸葛亮がそのことを上奏したため、激怒した劉備は彭羕を逮捕投獄し処刑した[66]。
217年、法正と黄権の進言で劉備は、総勢8万人を率いて、漢中郡を占領した曹操を討伐した。同時に養子あるいは実子の劉封に命じて、孟達・魏延らを従わせて魏の房陵郡太守の蒯祺[67]と上庸郡の申兄弟を討伐させた。218年に張飛と馬超を武都郡下弁県に派遣させた。219年、黄忠が定軍山で夏侯淵(夏侯惇の従弟)とその部将の趙顒[68]を討ち取り、ついに曹操は漢中郡から撤退した。
同年に諸葛亮・李厳(李平)・許靖らの上奏で、漢中王(蜀王)となり、朝廷に使者を派遣して、左将軍・宜城侯・豫州牧の地位を返上した[52]。
しかし、劉備や関羽に対して怒りに燃えた孫権が呂蒙を派遣して、荊州攻略を命じた。その結果、関羽は劉封・孟達の援軍を拒否された挙句に南郡当陽県漳郷で潘璋配下である司馬の馬忠に捕らわれて、子の関平と当陽県臨沮で斬首され、その首は曹操のもとに届けられた。
関羽の死を知った劉備は怒りに燃え、粛清対象の孟達が魏に出奔したことも加えて、まず諸葛亮の「封は元来剛毅で、次世代(劉禅)では制御できないでしょう」との進言で、孟達に敗れた養子あるいは実子の劉封を粛清した[69]。
そして、「漢王朝の後を継ぐ」と称えて蜀漢(季漢)の皇帝に座に即位した。同時に自分の即位に反対した一族筋の劉巴の諫言を斥けて、さらにかつて劉備が涪県で「髭が濃すぎる」とからかい、仕返しに劉備に対して「髭が薄い」と言い返されて自分を馬鹿にした後部司馬・張裕[70]と、さらに自分の皇帝の素質を愚弄した主簿の雍茂[71]を斬首に処したのである[72]。
221年、張飛が部下に暗殺され、いよいよ劉備は反対する諸葛亮・趙雲の諫言を強引に退けて、10万の軍勢を率いて呉を討伐した[73]。呉も亡き呂蒙の後任者の陸遜が15万の軍勢を率いて、翌222年夏に、易々と劉備率いる蜀漢軍を撃退し、前年に劉備が撃破した孫桓[74]が、敗走する劉備を追撃して、夔城(きじょう)につがなる通道を遮断し、それぞれの道の要所要所を閉鎖した。やっとのことで劉備は、山中をたどり険害を乗り越え脱出すると、振り返って憤り嘆息して、「わしがその昔(209年)、呉を訪問したとき、孫桓はまだ小倅だったが、今ではこのわしを窮地に追いつめおったな…」とつぶやいた[75](『夷陵の戦い』[76])。なお、このとき殿軍を引き受けた部将の傅彤(傅肜)は、呉の部将の崔禹の軍勢に包囲されてしまい、かつて前漢の御史大夫の周苛が捕虜にされて、西楚の覇王の項羽の目前に連行されときと同様に「呉の狗めが、なぜ漢の将軍が呉に降るものか!」と罵って叫び、呉に降伏することを断固として拒んで節義を貫いて、崔禹の軍勢に突進して、壮絶な戦死を遂げた[77]。同時に黄権は劉備の敗戦に乗じて南下した魏の曹丕(曹操の三男)率いる軍勢に包囲されたため、やむなく降伏した。これを聞いた劉備は「このわしが悪いのだ。趙雲をはじめ黄権の諌言を聴かなかった結果がこうなのだ。今まで通り黄権の家族は庇護するがよい」と述べた。
南郡秭帰県[78]で、10万の軍勢を率いた劉備は、そのうち6万人が戦死したり、敵に投降したり、行方不明になるなどを多くの配下を失って、残り4万の軍勢で敗走し失意に陥った劉備は、江州[79]から駆けつけた趙雲と馬忠[80]の軍勢に護衛されながら、魚復県の白帝城[81]までのがれて、王宮である永安宮で病の床に伏せて、重態となった。この間に漢嘉郡[82]太守の黄元[83]が屁理屈で虚言が多いことを理由に、諸葛亮に疎まれて左遷された。ところが、劉備危篤の報を聞いた黄元は反乱を起こしたが間もなく鎮圧された[84]。
翌223年夏4月24日に、劉備は臨終の際に丞相の諸葛亮・李厳らを枕もとに召しだして「諸葛丞相よ、汝の才能は曹丕の倍はあり、国を治める才覚を発揮するであろう。同時に汝がわが少子(劉禅)を補佐するに値すると判断するのならば、これを助けよ。もしわが少子が凡愚ならば、汝自身が禅譲を受けて君主になるがよい」と述べた[85]。
これを聞いた諸葛亮は、冷汗を流して「この孔明、前身全力で太子を補佐し、節義を貫きます。なぜ(太子から)禅譲を受けることがありましょうぞ」と慎重かつ慇懃に答えた。劉備はまた言った「そなたは馬謖をやたらに信頼しているようだが、あれは有能だが口先だけで実行力は乏しい、けつして要職に就けるでないぞ」と釘を指して、同席した李厳にも細かく確認させた。
また、劉備は年少の子の魯王・劉永と劉理[86]および孫の劉琳[87]らに向かって「わしは不徳な父(および祖父)であった。そなたたちはわしを反面教師と思って見習ってはいかんぞ。そなたらは『漢書』(斑固著)と『礼記』(鄭玄著?)を読記せよ。それらを読破したら、前述の『六韜』と『商君書』(公孫鞅=衛鞅=商鞅著)なども熟読せよ」と遺言を遺した。
間もなく、劉備は62歳の生涯を閉じたのである。翌夏5月に太子の劉禅が後を継いで即位した。
劉備の生涯は『蜀書』先主伝や『後漢書』の記述を読む限り、後世の徳川家康のような複雑な人物で、表面は律義で温和な人物を演じたしたたかな「タヌキ親父」ぶりを発揮して、群雄割拠による過酷な乱世の苦難を巧みに乗り越えていたことがうかがえる。
しかも、両人とも幼くして父を失い、若いころは無類の竹を割ったような短気な性格の持ち主であり、人の心を読むのが絶妙で巧みで、人の悪口をめったに言わない人物だったため、まわりからさほど警戒心を持たれず、かえって信頼を得たのは天性的な稀有な特性と言える。また、まわりの意見を聞いて人任せにすることが多く寛大で、驚くほど臣下などを死刑にした記録が少ないのは奇跡的ともいえる人物でもある。
また、若いころから戦上手で[88]、特に戦術(軍略)が巧みであるためにその指揮ぶりは曹操からも評価され、「幽州の北斗七星」「渤海一の弓取り」とも謳われ、「戦略家」と自称した諸葛亮さえも畏怖するほどだったと伝わる。
%E3%81%B8%E3%81%86%E3%81%92%E5%8A%89%E5%82%99%E2%91%A1.jpg晩年の“ へうげた ”劉備(『夷陵の戦い』)
『東観漢記』・『元本』[89]・林国賛の『三国志裴注述』などを総合した本田透『ろくでなし三国志』)によると、以下になる。
結論
「成祖景帝(劉啓)の第9子の中山靖王・劉勝は、世宗武帝(劉徹)のすぐ上の異母兄で、同母兄の趙敬粛王・劉彭祖(景帝の第5子)とつまらないことで言い争った。彼は死ぬまで酒色に溺れ、絶倫な女好きで孫も含む120余人もの子供を残している。劉勝の系統は、その死後58年、5代の後に断絶した。45年間の空白で再興されるが、1代限りでわずか3年で断絶した。また14年後に再興されるも再び1代で断絶した。西暦2年にまた復興されるも、王莽が漢を簒奪すると繰り返し廃絶されたことを最後に、以降は世祖光武帝が漢再興しても再受封されることはなかった。同時に1代限りで除封された庶子の陸成侯・劉貞の系統はなおさらである[108]」
劉備が中山靖王・劉勝と陸成侯・劉貞父子の末裔という根拠は上記の裴松之が述べるとおり根拠がないものであり、劉備の祖父の劉雄が東郡范県の令を勤めている例もあるように、後漢の臨邑侯[109]の庶家のほうが可能性は濃厚である。
また、187年の『張純の乱』で、上記で述べた劉備を推挙した劉平(子平)は、平原郡の豪族で地理的に中山郡および涿郡に近いので、陸成侯・劉貞あるいは兄弟の安険侯・劉応の末裔ではないかと推測できる[110]。
%E5%8A%89%E5%82%99%E5%83%8F.jpg『長坂坡の戦い』で敗走する劉備
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