劉弘

ページ名:劉弘

劉弘(りゅうこう)とは、の皇族・宗室・宗族および非皇族の姓名。約11名ほど存在する。

  1. 少帝弘 : 漢(前漢)の第4代皇帝。初めは襄城侯・劉山、さらに常山王・劉義と改称した[1]。第3代皇帝の少帝恭と淮陽哀王・劉彊の異母弟[2]。父は淮陽王~梁王~趙共王の劉恢高祖・劉邦の第5子)といい、生母は梁王・呂産(高祖皇后・呂后(呂雉)の甥)の娘。子がなかった伯父である第2代皇帝・恵帝(劉盈)の養子となる。紀元前180年に呂后の遺命で、趙王・呂禄(呂雉の甥、呂産の従兄弟)の娘を后に迎えた。同年9月に漢王室に禍を及ぼした外戚の呂氏の血を引いていることで、左丞相の陳平・太尉の周勃・大将軍の灌嬰・汝陰侯の夏侯嬰らによって、廃位に追い込まれて異母弟の常山王の劉朝(軹侯)・淮陽王・劉武(壷関侯)らとまとめて毒殺された。
  2. 劉弘 (甘里侯) : 長沙定王の劉発の玄孫、舂陵節侯の劉買の曾孫、戴侯の劉熊渠の孫、孝侯の劉仁の子、康侯の劉敞・端氏成武侯の劉慶(燕王)の弟、劉梁・順陽節侯の劉憲の兄、劉敏・弋陽侯の劉国の父。甘里侯に封じられた。
  3. 劉弘 (高密侯) : 世宗武帝(劉徹)の孫、広陵厲王の劉胥の子、孝王の劉覇・朝陽荒侯の劉聖・平曲節侯の劉曾・南利侯の劉昌の弟。高密侯に封じられるが嗣子がなく断絶した。
  4. 劉弘 (武陶侯) : 広川繆王(穆王)の劉斉の孫、武陶前節侯の劉朝の子、後節侯の劉勛(劉勳)の父、劉京の祖父。「孝侯」と謚された。
  5. 劉弘 (中山王) : 後漢初期の皇族。中山孝王。世祖光武帝劉秀)の曾孫、簡王・劉焉の孫、夷王・劉憲の子、穆王・劉暢の父、節王・劉稚の祖父。「教王」と謚された。
  6. 劉弘 (後漢末) : 後漢末期の政治家。司空を務めた。南陽郡出身の漢の宗族出身。
  7. 劉弘 (司空) : 字は子高。南陽郡安衆県[3]の人。長沙定王の劉発の子の安衆康侯の劉丹の後裔、後漢の司空となるが、実績を挙げなかったために董卓に強引に罷免された[4]
  8. 劉弘 (官吏) : 蜀漢()の先主劉備劉亮(武邑湣公)の父、東郡范県の令・劉雄の子。劉敬(劉子敬)の兄、劉展(劉敬の子)の伯父。地方官僚だったが、劉備が幼少時代に若死にした。
  9. 劉弘 (晋)(236年 - 306年):字は和季。沛郡相県[5]の人。沛献王の劉輔(光武帝の子)の後裔といわれ[6]の揚州刺史・劉馥の孫、の鎮北将軍の劉靖(劉静)の子、劉熙の弟、劉璠の父、劉伶の族弟[6][7](西晋)の荊州刺史をつとめた。
  10. 劉弘 (教祖) : 五胡十六国時代(南北朝時代)の宗教指導者。涼州で反乱を起こした。320年没。
  11. 劉弘 (隋) : 字は仲遠。北斉から隋代の人物。591年戦没。

脚注[]

  1. 異母兄の常山懐王・劉不疑が逝去したため。
  2. 彼らの生母は呂氏の遠縁でありながら、呂后に疎まれたといわれ、それを憐れんだ後述の趙共王・劉恢の側室になり、寵愛されるも毒殺されたという。
  3. 現在の河南省南陽市鄧州県
  4. 魏書』董卓伝
  5. 現在の安徽省淮北市濉渓県
  6. 6.06.1元本』(『元大徳九路本十七史』)
  7. 生没年:221年? - 300年?、字は伯倫。西晋の官吏で酒を好み、礼法を蔑視する生活を送った。『竹林の七賢』のひとりで、『酒徳頌』などを著した。

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