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肥満体の梟雄・董卓
董卓(とうたく、? - 192年)は、『三国志』に登場する後漢末の政治家で、三国時代の幕の要因をつくった梟雄。字は仲穎。
父は董君雅[1]、母は池陽君、子は董承[2](後述)、娘は董宜[3]・董欣[4]・董潔[5]・董艶ら。孫娘は渭陽君[6](後述)、兄は董曜[7](後述)、弟は董旻[8]、甥は董璜[9](後述)、族子は後漢の東中郎将の董越[10]ら。
また、馬超の側室の董氏とその弟の董种は、董卓の遠い親戚に当たるという[11]。
隴西郡臨洮県[12]の人。名門出身で、父の董君雅は孝廉に推挙され、穎川郡綸氏県の尉となった[13]。兄の董曜は夭折し、その子の董璜は幼かったため、董卓が家督を継いだ(後述)。
若いころから、任侠の親分格の風格をもち、隣接するチベット系の羌や氐族、またはモンゴル系あるいはトルコ系の南匈奴・西鮮卑の異民族の頭目たちと義兄弟の契りを結んだ。
一時的に農耕生活を営んだが、孝廉に推挙され涼州刺史の成就によって従事に任命された。トルコ系丁霊などが侵入し、隴西郡などを蹂躙して住民を拉致したので、董卓は軍勢を率いて、これを撃破して四桁にのぼる敵軍を壊滅し、その酋長たちを捕虜として斬首に処して名を轟かせた。これを聞いた并州刺史の段熲が中央に推挙し、司徒の袁隗(袁紹の叔父)が取り立てて、董卓を自分の掾(属官)に任命した[14]。
167年、羽林郎[15]に昇進した。彼は怪力の持ち主で特に弓術に巧みだった。中郎将の張奐の軍司馬となり并州討伐[16]で戦功を挙げて、郎中となり縑九千匹を贈られたが董卓は部下にすべて与えた。
やがて広武県の令、蜀郡北部都尉、西域戊己校尉を歴任するが、功績を挙げられずに免職となった。後に召し出されて、河東郡太守、并州刺史、中郎将となった。
184年、鉅鹿郡広宗県で宦官である小黄門・左豊の讒言で更迭された盧植[17]の後任として、黄巾党の張角討伐をしたが連戦連敗したため、皇甫嵩と交代して更迭された。
186年、地元の涼州で韓遂と辺章らが反乱を起こすと、破虜将軍に任命され、車騎将軍に任命された太尉・張温[18]とともに討伐に向かった。冬11月、右扶風の長官・鮑鴻らとともに、辺章と韓遂を大いに破り、両人は榆中県に逃げた。一方張温は、同じく右扶風の長官・周慎に3万の軍勢を与えて、韓遂・辺章を追撃させた。そのとき参軍事の孫堅が周慎に「この拙者に1万の軍勢を預けて、兵糧攻めにして韓遂・辺章らを追い詰めたい」と進言したが、周慎はこれを聞き容れず、かえって韓遂・辺章らによって食糧攻めに遭い、敗退した。
それと同時に、董卓の生来の横暴な性格が表面化し、孫堅が張温に向かって「軍規を乱す横暴な董卓を斬らねばならない!」と進言したが、董卓を恐れた張温が却下したので、激怒した孫堅は陶謙とともに引き揚げたのである。
これを聞いた董卓は激怒したが、かまわずに張温とともに西進し韓遂と戦った。しかし、望垣硤の北方で数万の羌の軍勢に包囲され食糧も尽きたので。董卓はひそかにつくった堤防の堰を自軍が深夜にひっそりと通過させたあとに、堰を叩き切って貯水が溢れて、通路が遮断されたので、董卓は羌軍の追撃を受けることなく無事に撤退し、扶風郡で駐屯した。一方、張温の軍勢は多くの敗死者を出して敗走し洛陽に逃げ戻った。間もなく前将軍に昇進し、斄郷侯に封じられた。
189年、勅命で左将軍・皇甫嵩と交代して并州牧に任じられたが、自分の軍勢が皇甫嵩に取られることを危惧し、事由をつけて勅命を拒んだ。しかし、同年夏4月、霊帝が35歳で崩御したために、慌てた大将軍・何進が司隷校尉の袁紹と計って、宦官の中常侍の張譲らを壊滅するために、改めて董卓を召し出した。結局、董卓は皇甫嵩と交代し軍勢を引き渡して、4千人を率いて洛陽に向かい河東郡(洛陽の西北)に駐屯した[19]。
しかし、何進は、同年秋7月にひそかに異母妹の霊思何皇后(霊帝の后)と継弟の何苗(朱苗、霊思皇后の異父兄)と連絡をとった張譲の電撃的な謀略で、子の何咸とともに殺害された。そこで張譲は段珪らと何太子の劉弁とその異母弟の劉協[20]を引き連れて小平津まで逃亡したが、途中で河東郡からやって来た董卓の軍勢と遭遇し、または張譲らを追討した前述の尚書・盧植と太尉の崔烈(崔州平の父)と河南中部掾の閔貢が追いついたので、董卓は崔烈と閔貢とともに張譲・段珪らを殺害して、両殿下(劉弁と劉協)らを救助した。同年8月のことだった。
一方、洛陽では袁紹は曹操とともに中常侍の残党と、多くの宦官を皆殺しした。何進の部将だった呉匡[21]は張譲と組んだ何苗を恨み、袁紹に唆されたこともあって、軍勢を率いて朱雀門で何苗らを殺害した。
董卓は洛陽に到着したが、皇甫嵩によって軍勢を引き渡されたので、自軍の数が少ないことに悩んでいた。そこで董卓は深夜にひそかに自軍の一部を城外に駐屯させて、日中に「西方から、董卓将軍の配下が到着しました」という触れ込みを数回繰り返した。そのため洛陽では董卓の軍勢が20万もいると噂された。その間に何進や何苗の軍勢を巧みに吸収した[22]。
それでも、董卓は自分の軍勢が足りないので、今度は執金吾となったもと并州刺史の丁原の軍勢に目を付けて、部下の李粛を派遣して丁原の従事で養子でもある呂布を唆して、丁原を殺害させて呂布らを手迎えて、要職に就けてその軍勢を吸収した。ついに董卓の軍勢は20余万に達したのである。
あるとき、騎都尉の鮑信は故何進の命令で、郷里の泰山郡で兵を募集して洛陽に戻ったが、親友の袁紹に「董卓は横暴であり、将来は災いの存在となるに違いない。一息ついて油断している今のうちに襲撃して滅ぼすべきだ」と進言したが、袁紹は董卓を恐れており何もしなかったので、鮑信は怒って同じく親友の曹操とともに郷里に戻った。
洛陽で実力を持った董卓は、実績を挙げなかった司空の劉弘(漢の宗族)を罷免にし、自分が司空となり、まもなく太尉に累進した。董卓は霊思皇后に対して異母兄の何進の死因をつくり、姑の永楽太后(孝仁董皇后)に不忠で死を賜ったとした事由で、これを幽閉し、霊思皇后が産んだ何太子の劉弁を廃嫡にして弘農懐王に降格させ、後に配下で弘農国の郎中令[23]・李儒[24]に命じて、弘農懐王をその生母の霊思皇后とともに毒殺させた[25]。また、霊思皇后と(彼女と何苗の)母の舞陽君を処刑し、街の中に。また、呉匡に殺害された何苗の棺を暴きだして、その遺体をその身体をバラバラさせて燃やした[26]。
董卓は殺害された太子の異母弟の劉協を擁立して、帝位に即かせた。これが愍帝[27]である。それまでに前述の尚書・盧植が猛反対したため、激怒した董卓は盧植の処刑を命じたが、董卓が唯一尊敬する侍中の蔡邕が盧植の友人で、また彭伯も助命したため折れた董卓は盧植を許したが罷免にした。盧植は郷里の涿郡に隣接する上谷郡の軍都山に隠居した[28]。また、侍御史の擾龍宗が剣を帯びて参内したので、これを無礼として斬り捨てた。周りは董卓を恐れて震えだした。
董卓は尚書の周毖・城門校尉の伍瓊(伍孚)らを要職に就けて、彼らが推挙した韓馥を冀州刺史、漢の宗族である劉岱を兗州刺史、孔伷[29]を豫州刺史、張咨を南陽郡太守、張邈を陳留郡太守に任じて赴任させた。ところが、翌190年春に曹操が渤海郡太守・袁紹を盟主に陳留郡酸棗県で、総勢25万人を率いて、反董卓討伐を起こした。現地の陳留郡太守・張邈は曹操の親友であり、韓馥・劉岱・孔伷らも馳せ参じて董卓に叛いた。ただ、張咨のみは董卓に忠義を貫いたが、かつて「董卓を斬れ!」と言った長沙郡太守・孫堅が張咨に食糧提供を依頼するが、張咨がこれを拒んだため激怒した孫堅は猛攻撃した揚句に、城を陥落させてついに張咨は家族とともに惨殺された。董卓はこの報告に激怒し、周毖と伍瓊が曹操と袁紹と内通させるために推挙し、自分を陥れたと疑い、周毖と伍瓊を処刑してその家族も皆殺しに処した。
また、伍瓊は「越騎校尉の伍孚」となっており、董卓の横暴に憤激し官服に短刀と小鎧を身にまとい、董卓の隙を見て暗殺しようと目論んだが、董卓が怪力だっため失敗し、処刑されたと記されている[30]。
曹操らが反董卓討伐の前に、河内郡太守の王匡が反乱をおこしたが、董卓は巧みに軍勢を派遣して、河陽津で王匡の軍勢と戦い、これを壊滅させて王匡は袁紹または張邈のもとに逃亡した。
孫堅は袁術(袁紹の異母弟)の部将であり、先鋒として洛陽を目指して猛進撃した。董卓は陳郡太守の胡軫を大都護に任じて、河内郡梁県陽人城[31]で迎え撃たせた。胡軫の部将の都尉・華雄が孫堅の軍勢と戦ったが、華雄は孫堅の部将の程普と袁術の部将の兪渉[32]に討ち取られて晒し首にされた(『陽人の戦い』)。
この報に驚愕した董卓は長安遷都を命じた。華嶠の『漢書』によると、董卓は大臣たちを召集して長安遷都の詮議を開いた。しかし、司徒の楊彪[33]が遷都に猛反対した。董卓は激怒して司隷校尉の宣璠に命じて、「災害異変」を事由に楊彪を罷免にしたとあり。また司馬彪の『続漢書』では楊彪が太尉の黄琬、司空の荀爽[34]らが董卓に諫言したが、聞き容れられず三人は董卓の命を受けた司隷校尉の宣璠によって罷免されたと記されている。
また、董卓は反乱軍のうち山東出身の兵士を捕らえると、焼き殺した。また袁紹の配下である豫州従事の李延を捕らえると、油が入った鼎に入れてこれを煮殺した。さらに董卓の側近である西域の車師王(異民族の王)の王子が、董卓の寵愛を受けて、その権威を傘に横暴な行為をしたため、司隷校尉の趙謙はこれを捕らえてこれを処刑した。自分が溺愛した近侍が趙謙によって刑死したと聞いた董卓は激怒し「わしが可愛がっている者のすべては他人の仕打ちに耐えられないものだ。こんな理不尽は許せんぞ!」と叫んで、趙謙の後任となった宣璠の配下に命じて趙謙を捕らえて、司隷校尉を解任させて、その財産を没収して庶人に落としたという[35]。
また、かつて自分を取り立てた太傅・袁隗とその甥の太僕・袁冀[36]ら袁氏一門を捕らえて「袁兄弟が反乱を起こし、その盟主となった」という理由で、これらをすべて処刑した。
こうして、董卓は洛陽の宮殿に火をつけ、漢王朝の歴代皇帝の陵募を暴いて、その財宝を奪い取った。また、洛陽の富豪たちを冤罪で捕らえて、家族まとめて処刑し膨大な財宝を奪い取り、また蜂起を起こした洛陽の領民を惨殺した。そのため、洛陽は隅から隅まで全焼し荒廃してしまった。生き残った洛陽の領民は長安に強制的移住させられ、中には脱落して死んだ人々もいたという[37]。
この報を聞いた、曹操は自ら一万の軍勢を率いて追撃したが、董卓の部将の徐栄の軍勢と戦って滎陽の汴水で大敗し、鮑信の弟の鮑韜ら戦死者をだして敗走した。190年春2月のことだった。
長安に遷都した董卓は、太公望こと呂尚(姜望)にちなんで「尚父」と称して、相国・太師に累進して天子を補佐する立場となった。さらに董卓は信頼した蔡邕の進言で、金で覆った豪奢な馬車に乗った。また蔡邕は董卓が「尚父」と称するのを反対して、董卓も一時的に取りやめたと記されている。同時に爵位も郿塢侯に昇格した[38]。
董卓の弟の董旻は左将軍となり、鄠侯に封じられた。甥の董璜は侍中・中軍校尉となった。董卓の息子の董承は先年に父に先立って20歳前後で亡くなった[39]。こうして董卓の一族は繁栄し、母と妻と娘婿の一族もすべて高官となり、財宝を独占して長安で跋扈政治をやり放題だった。またかつて扶風郡で駐屯した自軍を皇甫嵩から奪い返し、皇甫嵩を罷免にした[40]。
さらに、北地郡で反乱が起こったため。これを鎮圧して捕らえた捕虜を曳き出して、大臣を集めた宴会で捕虜の耳と鼻と舌を切りとり、さらに手足を切りとり、とどめに目を刳りぬいて首を刎ねて、それらを大鍋に煮たのである。これを見た大臣たちは驚愕で震えだしたが、董卓本人は薄笑いして平然と飲み食いしていたという。
董卓はかつて韓遂討伐で、衛尉・張温とともに戦ったが、両人は仲が悪かった。また、生前の霊帝は宦官の張譲とともに官職販売を営んでいた[41]。張温は一千万銭を出して三公の司徒を買い取り、卓越した才能で太尉に出世した。他にも張温のような連中が多く、前述の段熲・崔烈・樊陵・劉囂[42]・唐珍・張顥らが該当した。そこで董卓は「張温は袁術と内通している」と誣告して、これを捕らえて撲殺した。張温の子・張勳は命からがらに脱走して荊州牧・劉表を頼った[43]。191年のことだった。
張温殺害後も、大臣や領民たちは誣告し合い、刑死したものは四桁にのぼっていたため、道徳心が荒廃した。さらに、董卓は司隷校尉の劉囂に命じて、儒教的に自分の都合をあわせて[44]、官吏領民のうち親不孝・非清廉・不忠・反社会的な連中を暴きだしてこれを処刑し、財産を奪ったとある。そのため、董卓が財宝を独占したため、混乱して流通は停止し経済が低滞してしまい、不況状態に陥ったという[45]。
しかし、護衛の呂布があるとき、機嫌が悪かった董卓によって鉾を投げられた。しかし、呂布は武術の熟練者だったので、これを受け止めて丁重に董卓に返して、退出した。以降から呂布は董卓を恨み、董卓の侍女と密通してしまった。この報を聞いた司徒の王允は呂布と同じ并州出身で、尚書僕射の士孫瑞とともに呂布の邸宅に訪れて、董卓暗殺を打ち明けた。呂布はこれを受け入れた。また前述の騎都尉・李粛も并州の五原郡出身で呂布の竹馬の友人で、董卓に疎まれて冷遇されたので加わった。
192年夏4月、王允は献帝の病状が快方したので、天子の宮殿の未央宮で天子の快癒祝いを催して、董卓を最優先に招待した。同22日に董卓は喜んで参内した。そのとき呂布は李粛に命じて、近衛兵に服装をさせて未央宮を囲む掖門を守護させた。また、同郷の秦誼[46]に命じて、董卓の警護隊長に命じた。董卓が掖門に到着すると、李粛らは董卓の入門を拒んだ。驚愕した董卓は呂布を呼んだ。そのとき秦誼らが董卓を戟で突き刺して、董卓は落馬した[47]。
その直後、呂布が姿を現して「勅命で逆賊の董卓を誅殺する!」と叫んで、董卓の肥満体を方天画戟でとどめを刺して、ついに董卓は殺害された。「おのれ…この野良犬めが…よくもこのわしに…」が董卓の最期の言葉だったという。董卓の恐怖政治の終焉にまわりは喝采に浴びたという。
しかし、董卓の腹心だった主簿の田景が董卓の遺骸に寄って嘆くと、激怒した呂布はこれも殺害した。また、董卓に信頼された官吏たちも家族とまとめて投獄して、処刑した。董卓の首と遺体は街中に数日間、晒しものにされた。
かくして、董卓の90歳になる老母の池陽君をはじめ、弟の董旻、甥の董璜、娘の董宜・董欣・董艷ら姉妹と孫娘の渭陽君[48]、その実父の白某[49]ら董卓の一族は、郿塢県にいたが王允と呂布によって捕らえられて処刑された。ただ、董卓の娘婿の牛輔は李傕・郭汜とともに陝西に駐屯したため、難を逃れていた。さらに以前に董卓によって皆殺しにされた袁氏一門の生き残りが市場で晒された董卓一族の遺骸を焼き払ったという。ただし、三女の董潔は郷里の隴西郡臨洮県にいたため、唯一、董卓一族で生き延びて、難を逃れたという。
一方、董卓が信頼していた蔡邕は董卓の死を聞くと嘆き悲しみ、これを聞いた王允と黄琬[50]と崔烈らは「暴虐な董卓の死を聞いて嘆くとは何事だ!」と怒り、特に偏狭的な王允は馬日磾[51]ら周りの大臣が「彼は『漢書』の引用を編纂している最中である」と諫言しているのを強引に振り払って、容赦なく蔡邕を処刑したり、獄死させたとするなどの諸説があった。さらに馬日磾は退出して、親しい人に「王子師(王允)は全うな死を迎えることはできまい。善人は国家の基本である。制作は国家の典本である。基本をおろそかにして典本を撤廃してよいことがあろうか」と嘆くように言った。さらに馬日磾の族父・馬融の門人である北海郡の名士の鄭玄[52]は蔡邕の非業の死の報を聞いて「漢の治世に誰が糺すことできようか」と嘆いたという[53]。
ただし、このことに関して裴松之は「確かに蔡邕は董卓に信頼されたが、決して董卓一味ではない。巷の怨嗟を感じ取っており、どうして董卓の死を嘆き悲しむことがあろうか。これは謝承の作り話に過ぎない[54]」と述べている。
また、蔡邕は『東観漢記』を編纂したひとりの硬骨漢で、そのため宦官の讒言で并州の朔方郡に流罪された。後に中央に戻ると宦官に睨まれたため、南方に逃れて隠棲生活をした。董卓が洛陽を支配すると、蔡邕は招聘をうけて要職に就いた。以降も董卓の信頼が篤く、董卓の相談役を兼ねていた。董卓が殺害され、王允は蔡邕の粛清をも命じたが、多くの大臣たちに諫言されて、中止しようとしたが、すでに蔡邕は刑死(あるいは獄死)していたいう[55]。
『東観漢記』・『元本』[56]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとに検証する。
結論
『魏書』董卓伝が引く王粲の『英雄記』に記されている董卓の親族の名や親族関係の系譜は誤りが多い、裴松之の説が正しいと思われる。つまり同時代にふたりの「董承」が存在したことになる。
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