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さすらいの虎狼・呂布
呂布(りょふ、? - 198年12月、あるいは199年1月か3月)は、『三国志』に登場する部将。字は奉先。父は「呂熊」、母は「呂順」と伝わる[1]。妻は魏氏[2]。娘がひとりいる。
モンゴル系またはトルコ系の匈奴の血を引いているといわれる。怪力の持ち主で、弓術と馬術に巧みで、そのため「飛将軍」と呼ばれた。しかし主君を裏切り殺害を繰り返していることから「虎狼」とも呼ばれた。
五原郡九原県[3]の人。幼くして両親を失い、親戚の丁原に養われて、その養子となった。両人は粗暴で似た者同士で、相互ともおそらく漢化した匈奴だったと思われる。
若くして并州の役人になり、養父の丁原が并州刺史になると、主簿となった。大将軍・何進の命令で丁原は洛陽に上京して、騎都尉となり、呂布は従事・司馬に任命された。
まもなく丁原は宦官の十常侍壊滅の功績で、執金吾となった。だが、丁原は寒門出身で、元来勇猛果敢で常に前戦の先頭に立って指揮を執ることに巧みとするも、任侠的で気性が激しい激情家であり同時に粗雑で文盲のために官吏としての素質は欠如していた。まもなく董卓が大将軍・何進の招聘で河東郡から洛陽に乗り込むと、呂布と同郷の李粛を派遣して、呂布を買収した。利害に目が眩んだ呂布は躊躇せずに丁原の陣営に乗り込んで、あっさりと養父の丁原を殺害した。丁原の首を持った呂布は、高順・秦宜禄[4]・張遼らを率いて、董卓に帰順して、騎都尉に任命された。
その後、『陽人の戦い』などに参戦した。しかし大都護に任じられた陳郡太守・胡軫と仲が悪く、呂布は偽の伝達の使者を派遣して、胡軫の軍勢を混乱させた。そのため、胡軫配下の都尉・華雄[5]は孫堅の部将・程普と袁術の部将・兪渉[6]に討ち取られ、その首級は孫堅の陣門で晒し首となった。一方、呂布も戦功を立て、中郎将となり、都亭侯に封じられ、いつも董卓の親衛旅団長として警護していた。
しかし、董卓も丁原におとらず粗暴だったので、あるときに董卓は激怒して戟を呂布に向けて投げた。だが、呂布はその戟を受け止めて、董卓に返して丁重に謝罪して、その場を立ち去った。
以降から、呂布は董卓を恨み、その侍女と密通した。董卓も徐々に呂布を疎むようになった。そのとき、司徒の王允が李粛の仲介で呂布と面会した。王允は「将軍はわたしと同郷であります。他所者の董卓の臣下として満足でしょうか?」と唆した。呂布はこの言葉で決意し、配下の高順・秦宜禄(秦誼)・張遼を呼び寄せて、「董卓暗殺計画」を実施させた。
すでに相国となった董卓を朝廷に招き寄せて、まずは護衛した秦誼(秦宜禄)に董卓を突き刺しさせた[7]。そして呂布自身が董卓を長戟で惨殺したのである。そのときの董卓の最期の言葉は、「おのれ…この凶暴な野良犬めが…よくもこのわしを…」だったという。192年夏4月22日の出来事だった。
呂布はその功績で、温侯・奮威(奮武)将軍に任じられた。しかし、王允は偏狭的で、黄琬[8]や崔烈とともに高名な学者の蔡邕を誅殺したため、人心は離れた。さらに旧董卓の配下の李傕と郭汜(郭侈)らが王允政権に不満を持ち、董卓の娘婿の牛輔とともに反乱を起こした。呂布は前述の同郷の李粛を討伐させたが大敗したため、激怒して李粛を処刑した。
やがて、李傕・郭汜らは張済・樊稠らと長安に傾れ込んで、王允・黄琬・崔烈らを惨殺した。呂布は董卓の首を持って、配下の高順・秦宜禄(秦誼)・張遼らを率いて、南陽郡太守・袁術を頼った。袁術にとっても董卓は叔父の袁隗・同母兄の袁冀[9]の仇であるから、喜んでこれを迎えた。しかし、呂布は粗暴でわがままに振る舞ったので、袁術は巧み呂布らを追い払った。
今度は、冀州の袁紹(袁術の異母兄)を頼った。呂布は袁紹に迎えられて、常山郡にいる黒山賊の張燕を討伐するため部将の成廉と魏越らとともに袁紹の軍勢を統率した。呂布は名馬の「赤菟馬」に乗って、総指揮をとって、これを打ち破った。だが、ここでも呂布はわがままに振る舞い、私兵の并州軍を温存し、袁紹の軍勢ばかり犠牲させたので、激怒した袁紹は刺客を派遣したが、呂布は巧みに逃亡した。
今度は、同郷で竹馬の友人の河内郡太守・張楊(張揚)を頼った[10]。両人は仲が良かったので、張楊は呂布を匿った。だが、長安にいる李傕と郭汜はひそかに張楊に命じて呂布を殺害するように命じた。するとこれを知った呂布は「君はわしと同郷の竹馬の友だ。君を信じているぞ。わしを殺害することが君にとって無益であることをな…」と脅迫に等しい形で張楊に言った。すると張楊は呂布を生かすことが得だという使者を長安に派遣したので、李傕と郭汜は止むなく呂布を頴川郡太守にした。しかし、張楊はお人好しだけで行動力が乏しかったため、苛立ちを感じた呂布は張楊と別れて、陳留郡太守・張邈を頼った。193年のことだった。
この張邈は曹操の旧友だったが、その弟・張超が曹操嫌いだった。同時に曹操に怯えた参謀の陳宮は、同僚の従事中郎の許汜・王楷らと張兄弟と結託して、呂布を濮陽に迎えて、徐州で無差別虐殺中の曹操に反乱を起こした。激怒した曹操は撤退して、急遽に濮陽に引き揚げて、反乱軍と激突して大敗した。194年の夏から秋にかけてのことだった(『濮陽の戦い』)。
翌195年夏に、先年の旱魃によって弱まった呂布率いる反乱軍は、鉅野で曹操軍と激戦して、部下である兗州別駕の薛蘭と李封が戦死した揚句に大敗して雍丘に逃れた(『鉅野の戦い』、または『定陶の戦い』)。その後も曹操は勢いを増して、連戦連勝した。
同年秋に、張邈は袁術を頼る途中で、家臣に暗殺され、翌196年に弟の張超も雍丘で焼身自決し、張邈の一族は曹操によって処刑された。
呂布は山陽郡を経て、陳宮の助言で劉備を頼った。劉備は自分の知名度を上げるために呂布を迎えた。ここでも呂布は傲慢となり劉備のことを「わしと同じ辺境出身のわが弟よ」と言ったので、劉備は不快感となり、関羽・張飛にいたっては、激昂してしまい、今にも呂布に飛びかかる剣幕だったが、劉備がこれを抑えた。
翌196年、劉備は袁術討伐に向かい、張飛に下邳を委ねた。しかし、張飛は陶謙の旧部将の曹豹・許耽・章誑らと仲が悪かったので、曹豹は許耽・章誑らと謀議して、自分の娘を呂布の側室として差し出して、これと内通した。呂布は陳宮とともに下邳を襲撃して、これを占領した。慌てた張飛は劉備の妻子[11]を置き去りにして、劉備のもとに逃げ込んだ。
まもなく、今度は劉備が呂布の軍門に降ってその配下となり、小沛[12]を与えた。まもなく袁術は部将の紀霊に小沛を討伐させた。劉備は呂布に救援を求め、呂布は承諾した。そこで呂布は会見を設けて、劉備と紀霊と面会させて、「劉備はわが弟である。ゆえに今から、わしの長戟に矢を射当てる。当たったら、双方とも撤退してもらう。外れたら相互に好き勝手にやればよろしい」と言った。すると呂布は弓矢で、見事に長戟を射当てた。これに驚愕した紀霊は「将軍は軍神のような威光を持っておりますな」と感嘆して、数日後に引き揚げた。
しかし、劉備は怒りの肚が収まらず、張飛に命じて、呂布が竹馬の親友の河内郡太守・張楊から購入した并州馬の護送を襲撃し、これを繰り返して奪ったので激怒した呂布は自ら小沛を襲撃した。劉備は曹操を頼った。同時に部将の郝萌が反乱を起こしたので、部将の高順が討伐した。郝萌の家臣の曹性が高順に呼応したので、高順は郝萌を討ち取った。
197年夏、成の仲家皇帝と偽称した袁術は自分の子・袁燿の妻として魏氏が産んだ呂布の娘を要求したので、家臣の韓胤を派遣した。呂布もこの婚姻を希望したが、客将の陳珪・陳登父子がこれに反対したので、思いとどまって、韓胤を捕らえ、陳登に命じて曹操のもとに送り、韓胤はそこで曹操によって処刑された。曹操は呂布を左将軍に任命した。同時に陳登は広陵郡太守となり、曹操と内通して呂布壊滅の密談をした。
配下の韓胤が処刑されたことに激怒した袁術は、并州からの流浪の将である楊奉・韓暹と同盟を結び、部将の張勲らを大将軍に任命して呂布を討伐させたが、呂布からすべて委託された陳登・陳珪親子の計略により楊奉・韓暹が裏切ったため、袁術を撃退した[13]。
198年秋、呂布は突然、曹操庇護下の小沛にいる劉備を、「陥陣営」1700騎率いる高順と張遼らに命じて、これを大破し、再び劉備の妻子を捕虜とした[14]。引き続き曹操が派遣した夏侯惇(曹操の母方の従弟)の軍勢も撃退したのである。ところが、すでに曹操は呂布討伐に動き出し、劉備と夏侯惇は梁で合流し、下邳郡の城を包囲した。同時に陳父子も呂布に反旗を翻した。
そこで、曹操は下邳の城壁の周囲に外堀を作り、三ヶ月余も水攻めにした。呂布は曹操に降伏を考えたが陳宮によって阻止された。同時に呂布は酒を飲んで猜疑心に陥り、陳宮と仲が悪かった高順と張遼と臧覇らを疎み、その兵権[15]を剥奪し、妻の兄弟である魏続らにすべての兵権を委ねた。また、裏切った陳登の弟を人質に取るも、陳登は屈せずに呂布を攻撃した。
そのために、以前に陳父子によって仲が険悪となった袁術に援軍を要請した。だが、袁術は前年の呂布の行為に懐疑的であり、消極的だった。そこで、呂布自らはわが娘を背負って乗馬しながら敵中突破して、袁術に援軍を要請するも失敗した。さらに呂布自身が疎んじたとされる陳宮と高順に留守を託し下邳郡の城を守備させて、自ら出陣して曹操・劉備連合軍の兵糧を断とうしたが、これは妻の魏氏の反対により断念した[16]。
また、曹操・劉備連合軍が下邳郡の城壁を包囲して3ヶ月経ったために、食糧が尽きて疲弊した兵士の身を案じた曹操は下邳から撤退を検討した。しかし、参謀の荀攸と郭嘉が曹操に進言して、下邳郡の周辺にある沂水と泗水の川水を合流させて、貯蓄した水を支える堰を切って氾濫させて下邳の城壁ごとを水攻めして、呂布を疲労消耗させる策略を考案し、それを曹操が採り上げて撤退は取り止めにした[17]。曹操・劉備連合軍の水攻めなどで、疲労がたまったしばらく呂布は閉塞感に陥ったが、間もなく呂布を見限った妻の兄弟である魏続が侯成・宋憲らとともに反乱を起こしてしまい、ついに呂布は捕獲された。高順と陳宮も侯成・宋憲らに捕獲された[18]。こうして下邳郡の城は陥落した[19]。
曹操の前に曳き立てられた呂布は「縄がきつい、もう少し緩めてくれ」と言った。曹操は苦笑いして「虎狼を縛るのはちょうどよかろう」と言い返すも、これを緩めるように命じた。すると呂布は「曹将軍(曹操)はすでにわたしを得た。それは、曹将軍の天下の号令が近付いた証なのです。わたしに兵権を与えれば、天下統一は成るでしょう」と言った。
これを聞いた曹操は一瞬、心が揺らいだが念のために側にいる劉備に訊いた。すると劉備は「お待ちくだされ。この呂布なる者は、かつての主君の丁建陽(丁原)と董仲穎(董卓)に対する仕打ちをお忘れでしょうか?」と言った。同時に曹操の主簿の王必[20]も「呂布は獰猛な虎狼です。解き放てば厄介になります。なりませぬぞ!」と諫言した。曹操は「劉備と王必が駄目だと申すから、わしではどうしょうもないな…」と言った。劉備の態度に激怒した呂布は「この劉備こそ食わせ者のタヌキぞ!一番信用できないやつぞ!」と叫んだ[21]。
かくして呂布は縛り首に処されて、降伏に応じないため斬首された高順と陳宮とともに晒し首となった。198年冬12月のことだった[22]。
その後の呂布の首級は、高順と陳宮の首級とともに穎川郡許昌県(許都)[23]に送られて、手厚く埋葬されたという。
後世の呂布評は「呂布は豪傑として剛勇に頼ってばかりいる。彼は大豪に値しない人物なり。その性質は決し易かれど、謂うところに常なし」と、大いに批判されている[24]。
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