魏勃

ページ名:魏勃

魏延の遠祖の魏勃

指揮を執る魏勃

魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢()の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]

概要[]

彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼はの咸陽に赴いて、始皇帝(嬴政)あるいは、その末子の二世皇帝(嬴胡亥)に謁見して、鼓琴を披露したことがあった[2]

若いころの魏勃は、斉に赴き、宰相の曹参に面会を求めようと思ったが、彼の生家は寒門(貧家)出身のために、縁故の繋がりがなかった。そこで魏勃は一案を浮かべて、ある日からの早朝と深夜に毎日のように曹参の居館の門の前に清掃した。これを見た曹参の臣下である舎人(属官)は事態が呑み込めず、清掃した魏勃にその理由を問い質した。魏勃はこのときを機会と捉えて「貧乏であるわたしは宰相の曹参さまにお目通り願いたく、せめて早朝と深夜に清掃したのです」と答えた。これを聞いた舎人は「よし、君の心意気が気に入った。宰相にお目通りをさせよう」と述べて、こうして魏勃は曹参との面会を叶えることができた。

曹参は若き魏勃を見て、共に語り合った結果、これは聡明な人物と判断し、彼を舎人として召し抱えた。数年の歳月が流れ、魏勃は御者として、曹参に従いながらある事項を進言した。魏勃の献策を聴いた曹参は「彼は素晴らしい若者だ」と評価し、彼を斉悼恵王・劉肥(高祖・劉邦の庶長子)に謁見すべく、取り計らった。悼恵王も彼を有能な人材と判断して、直ちに内史(検察官)に昇進させた。このように、魏勃は二千石の禄高を得て、念願の官僚となった。

紀元前189年に悼恵王が崩じて、太子の劉襄(哀王)が亡父の後を継いだ。そのときの曹参も、前年の紀元前190年に亡くなっていたので、代わって魏勃が斉の実力者となった。

やがて、哀王は魏勃を中尉に昇進させ、哀王の母方の叔父である駟釣(後の清郭侯)と郎中令の祝午とともに斉の政権・軍権を把握した。

紀元前180年に呂雉(呂后)が死去して、哀王の次弟の朱虚侯の劉章(城陽景王)から、呂氏一門の漢王朝簒奪計画の報を聞くと、哀王は魏勃をはじめ駟釣と祝午を召し出した。そのときに呂雉が監察官として派遣された宰相の召平はこれを聞いて、ただちに軍勢を率いて王宮を包囲した。しかし、魏勃は召平を欺いて「哀王は軍勢を動員させておるようですが、朝廷の虎符の印を所持しておりません。ところで宰相は王宮を包囲していることは結構なことです。わたしは貴殿のために王宮の周囲を封鎖しましょう」と述べた。そのため、召平は魏勃を信用した。しかし、魏勃は親衛隊を率いて王宮を包囲した。同時に召平の邸宅に押し寄せた。これを聞いた召平は背筋が凍りながら、観念して「ああ…道家の言葉のように決断を早めないと己の身の破滅を迎えるというが、まことにその通りであった!」と叫んで、そのまま自決して果てた。

間もなく、魏勃は大将軍に昇進し、新たに斉の宰相となった外戚の駟釣と内史・中尉となった祝午とともに軍勢を動員した。哀王直々が総大将として、呂氏一門を誅滅すべく長安に向けて討伐に動いた。

やがて、漢の右丞相の陳平・太尉の周勃・上将軍の灌嬰・汝陰文侯の夏侯嬰ら元勲によって呂氏一門が誅殺されて滅ぼされた。突如、灌嬰は急遽に滎陽の居城に魏勃を召喚した。これは、魏勃が中心となり哀王を煽動したとの報告を聞いたからである。そこで、灌嬰は「そちは陛下のお許しもなく、斉王を煽って動いたと聞くが、これは如何なることか?」と激しく詰問した。これを見た魏勃は、思わず歴戦の猛者である灌嬰の前で口を痙攣しつつ、震え出してしまい「家が放火した火を消す際には、報告する余裕はありません…」と答えるのが精一杯であった。これを見た灌嬰は大いに苦笑いして、かえって魏勃に対して憐れみを感じて「人々は魏勃を賢者と申しおるが、これは只の凡愚に過ぎぬわい」と述べて、そこで魏勃を懲戒解任とした。

その後の魏勃の動向は定かではないが、滎陽県付近にある南陽郡[3]に、平民として定住したという[1]。その末裔が南陽郡義陽県を本籍とした魏延と伝わる[1]

脚注[]

  1. 1.01.11.2元本』(『元大徳九路本十七史』)による。
  2. 『史記』斉悼恵王世家および『漢書』高五王伝による。
  3. 現在の河南省南陽市

関連項目[]



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